第6話
夜中にふと目が覚めた。枕元の携帯電話を開くと、時刻は5時ちょうどだった。眠ろうと思ったが、目が冴えてしまい、なかなか寝付くことができない。結花がいなくなってから、よくあることだった。
病院で死にかけているおじいちゃんのこと、死んだおばあちゃんのこと、結花のこと、頭の中がぐちゃぐちゃだった。
私って、だめだなって思った。なにがだめなのか、自分でもよく分からなかったのだけど。
そのとき、遠くで家の呼び鈴が鳴るのが聞こえた。半身を起してお母さんに声を掛けたけど、お母さんは昨夜の疲れが出たのか、ぐっすりと眠っている。こんな時間になんだろう、と思ったが、病院からの知らせかも知れない、あるいは伯父さんかお父さんが帰ってきたのかも知れない、そう思いつくと、私は布団から抜け出して玄関に向かった。
家の中は真っ暗だった。私は玄関の鍵を開けると、パジャマの胸元を掻き合わせながらドアを開いた。
ドアの向こうには、誰もいなかった。暗闇の中に沈む街並みがあるだけだった。けれど、南向きのその玄関から目をこらすと、家々の屋根の上がかすかに赤らんでいるのが分かった。
もうすぐ夜が明ける。曙光がすぐそこまで来ている。
私の脳裏に、おじいちゃんの言葉が蘇った。
私はドアを閉めると、真っ暗な玄関前の廊下に体育座りをした。床の冷たさがお尻から体に這い上がって来る。体の芯まで冷え込んでしまいそうだった。でも、私は膝を抱えて待った。
おじいちゃんが経験したことは、妄想なんかじゃなかったんだ。
それを確かめたかった。
暗い玄関先で体育座りをしている私の頭の中に、色々なことが浮かんでは消えた。
病院のあの部屋で、今も死にかけているおじいちゃん。
結花のお葬式のときのお線香の匂い。
結花の声が耳元で聞こえた気がして、我に返った。ほんの一瞬、まどろんだらしい。
家の中は静かだった。この静寂は以前にも経験していると、ふと思った。
いつ、どこで経験したんだろう。
そう自問してすぐに、100メートル走のスタート前の一瞬の静寂と似ていると気が付いた。そう気付くと、自分がレースでスタートする直前のような気がしてきた。
自分は今、クラウチングの姿勢でスタートの合図を待っている。目の前の玄関の敷居がスタートラインだ。本当にもう一回呼び鈴がなるのなら、それがスタートの合図だ。自分はあのスタートラインを踏み越えて、走り出すことができる。
なんとなく、そんな気がして来た。自分が、呼び鈴が鳴るのを期待していることを、はっきりと自覚していた。
どのくらい待っただろうか。ほんの2~3分だったかも知れないけれど、私には永遠に続く時間のように思えた。
突然、再び呼び鈴が鳴った。さっきと違い、今度は玄関にいるせいで、はっきりと大きく聞こえた。
私は一つだけ深呼吸をすると、立ち上がった。玄関にあった誰かのサンダルを履いてドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開いた。
ドアの隙間から、強烈な光が玄関に差し込んで来る。ドアが開くとともに光の束も太くなり、真っ暗だった玄関の中を明るく照らして行く。ドアの向こうには、上ったばかりの太陽が輝いているのだ。
玄関が明るくなって行くのと一緒に、薄闇が覆っていた私の心にも、闇が割れて光が差し込んで来る気がした。
玄関のドアを開け放ち、敷居を踏み越えて外に出ると、やはりそこには誰もいなかった。家並の続く景色の中、家々の屋根から生まれたばかりの太陽が顔を出していた。そこから放たれる強烈な光は、さっきまで真っ暗だった玄関を、隅々まで明るく照らしていた。
早朝のひんやりした空気と、柔らかな朝の陽光に包まれて、私は今までに感じたことのない感覚に捉われていた。そして私は、思わず声に出して呟いた。
「おかえりなさい、おじいちゃん。」
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