第2話 男
男は酔っていた。
男は下戸と言ってよかったが、週末の金曜日だけは、自宅近くのバス停脇にある安い中華料理屋で、たいして美味くもないチンジャオロースを肴に、ビールを一本だけ呑むことにしていた。
その油にまみれた中華料理屋で、注文したビールをちびちびと飲みながら、一週間分の不平不満を、誰にも聞こえないほどの小さな声で、ブツブツと呟くのだ。
その夜も、男は、若い上司といちいち馬が合わないこと。事務の女たちが、陰で自分のことを妖怪などと言ってバカにしていること。一昨日のバスの中で、高校生の一団がこれ見よがしの大声で騒ぎ、鞄がガツガツと膝に当たったこと。昨日の帰り道、イヤホンで両耳を塞いだまま、通りすがりにぶつかっても何も言わずに通り過ぎようとする仏頂面の若い女のこと。
思いつくままに、好き放題を呟いては、油まみれの草と肉を食い、白い泡のたった黄色い液体を啜った。
男は、店の片隅に置かれたテレビで、どうでもいい出演者のやっているどうでもいいバラエティ番組を、虚ろな目をしながら眺めていた。
その番組で奇妙な声を発してはしゃぐ女を見て、「おっぱいばっかりでかくなりやがって」とか、「なんでもカワイイカワイイって言ってりゃいいのかよ」とか、「お前らが日本をダメにするんだよ」などと、あたかも自分が日本を代表する者であるかのように呟いている。
男が勝手な小言を言っているところに、一人の女性客が入ってきた。男はそれを機に、店の親父に小銭を数えて料金を渡し、小汚い中華料理屋を出た。一本だけだったが、男は十分酔っていた。
春になりこそすれ、まだまだ冷たい風の吹く夜道を、男は自宅へと歩いた。普通に歩けば五分もかからない道を、男はゆっくりと、ゆっくりと歩いた。それも男の毎週の日課だった。
歩きながら、心の中に溜まった鬱憤のひとつひとつに火を点けていく。そのひとつひとつの火が燃え広がり、大きな炎の玉となって、男の中で今にも弾けそうになる。その状態を維持しながら帰宅し、その炎の玉を、彼の愛する妻へと射出するのだ。最初はイライラを隠さない態度で。そして、急所をえぐるような言葉で妻を追いつめ、そして最後にはこの手足を使って、心に燃え盛る炎を全て吐き出すのだ。
彼の妻はガリガリに痩せていて、何を言われても弱弱しく笑うしか能のない女だ。他の女からは馬鹿にされている男だったが、妻だけは彼の唯一の奉仕者であり、彼を慰撫するただ一人の人間だった。
結婚した当初、妻は快活な女だった。何でもよくしゃべり、彼女なりに意見もしていた。今とは違って食欲もあり、痩せてはいるが女性らしいやわらかな身体をしていた。
ある日、何が原因だったかは忘れてしまったが、男と妻は言い争いをした。ほんの些細な、どうでもいいようなことだった。
しかしその時、男は妻を殴った。極々弱い力ではあったが、はっきりと殴ろうと思って殴った。そしてその後、妻を抱いた。
興奮しているのが自分でもはっきりとわかった。
それから度々同じような諍いを起こすようになり、その度ごとに暴力の度合いも増えていった。
妻は徐々に痩せこけていき、口数も少なくなっていった。しかし彼女は男と別れようとはしなかった。どんなに冷たくあしらわれ、どんなに苛烈な言葉で罵られ、そしてどんなに蹴られ、殴られたとしても。
根は気の小さい人だと、飲まなければ優しい人だと信じていたからだ。その証拠に、暴力を振るったあとは、必ず優しく抱きしめ、ごめんごめんと謝ってくれるからだ。
しかし、男はこれが普通の夫婦だと考えていたし、やっと本当の夫婦になれたと思っていた。大黒柱が気持ちよく仕事をして帰れる家庭。それを作るのが妻の役目だと思っていた。
最初は年に一、二回のことだったが、徐々に回数は増えていき、最近ではほぼ毎週末妻を殴り、そして抱いていた。
その夫婦のねじれた関係に、今年の正月から娘が立ち入ってきた。娘は四月で中学二年生になる、妻と同じく、鶏がらのような女だった。
娘は男と妻の間に立ち、お母さんを殴らないでと訴えた。痩せた手をいっぱいに広げ、涙と憎悪で目をグチャグチャにしながら、必死で男に抗議した。
そんな娘を男は容赦なく殴りつけた。十二歳の小さな身体は簡単に吹っ飛んだ。それから蹴った。妻が狂ったように泣きながら、止めてくれるよう懇願してきた。
その時から、妻と娘の二人で男を慰めた。妻が殴られ、娘が蹴られ、そして最後は妻が哀願し身体を差し出す。それがこの男の家族の週末の姿になろうとしていた。
家の明りが見える頃には、彼の胸の中で火だるまになった鬱屈は、独楽のように鈍い音を発して回転し始めていた。
男が自宅の鍵を開けようと、右ポケットを探っていると、視界の隅っこで何かが動くのがわかった。振り返ると、そこには少年が立っていた。薄らと青い顔をしていた。
小心者の男は、びっくりして二、三歩飛び退いてしまった。そうして相手が娘と同じくらいのガキだとわかると、猛烈な羞恥心が男を襲った。その恥ずかしさの反動で、男は高圧的な態度で少年に問い質した。
「おい。な、なんなんだ、お前は。人んちの前で何やってんだ」
質問した勢いのまま、男は少年に一歩詰め寄った。胸がバクバク音を立てていた。
少年は暗闇でもはっきり見える大きな黒い瞳で男を見ていた。口元はまるで冷笑しているように、少しだけ歪んでいる。
男はなぜか頭にきた。しかし、一歩詰め寄ったという事実のおかげで、男は勝手に優位に立った気になっていた。男は少年を一瞥したのち、再びポケットをまさぐりながら鍵を探し始めた。
「おじさん」
少年が声変わりもしていない声で尋ねた。その声質があまりに高すぎて、男は自分の優位が揺るぎないものになったと勝手に確信した。女みたいなやつだと思った。それまでに萎みかけていた鬱憤の玉が、再び大きくなり始めた。
少年の方にわざとゆっくり向き直り、目に力を込めて睨んだ。男がよく妄想していた、ドスの効いた目のはずだった。
「何だあ、小僧う」
ちょっと呂律がまわらなかったが上手く言えた。少年は依然として暗闇の中から、日中の明るさの中にいるような声で言った。
「おじさん、悪人正機説って知ってる」
男は一瞬、その言葉の意味を正確に考えようとしたが、すぐに止めた。酔っていたし、なんとなく意味はわかったつもりだったからだ。
「何だと。そんなもん知るか」
「知っといたほうがいいよ。おじさんみたいな人には必要だと思うし」
男はその言葉の意味をもう一度考えてみた。たしか江戸時代か室町時代の、なんとかという坊さんの言葉だ。悪人とか何とか言ってが、俺が知っといたほうがいいとも言っていた。俺には必要だとも言ったか。つまり俺が悪人だということか。
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」と少年がつぶやいて、口元を歪めた。笑ったのだと少したってわかった。
少年の落ち着いた物言いに圧倒されかけていたが、少年のその表情を見たとき、男の中で育ててきた炎の玉が、急速に膨らみ始めた。
男は少年の頬を張った。火の中で竹が爆ぜるような音が響いた。少年には男の動きが見えなかったのだろう、避けることもなく右によろけた少年は、それでも大きな目を男に向けていた。
頬に一発入れたことで、もう男の興味は少年にはなかった。少年が反撃しないことはわかっていたし、そもそも覇気が違うと思っていた。男はポケットをジャラジャラ言わせ、鍵を物色した。鍵を探し当て、ドアノブに差し込む。ドアを開けようとして、ふと振り返ると、もうすでに少年の姿はなかった。
ケッと男は吐き捨てた。そして、あの少年は何をしにこんなところまで来たんだろうと男は思い、そう思いながら自宅に足を踏み入れた。ドアを閉めると、少年のことは意識の外に排除された。
その日、男は妻や娘に暴力を振るわなかった。あの少年の頬を平手で殴りつけたとき、彼の中の欲望の炎は消散していた。風呂に入り、そのまま寝床に直行した。
翌日の朝、いつまでたっても起きてこない夫に、妻が不審に思って声をかけにいった。
そこには、何を言われても宙空を見つめぼんやりとしている、まるで子どものように呆けた夫が、布団の上に座っていた。まるで幼子のように、全くいたいけのない、真っ直ぐな眼差しで。
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