第3話 佑樹 (一)

「おーい、塾長ー。起きてますかー? 」

 六月の第二土曜日。いつもは誰もいないはずの教室から、誰かが自分を呼ぶ声がした。耳を凝らすと他にも数人の黄色くざわめいている声が聞こえる。

じっとりと汗ばんだ肌の感覚で、今日も蒸し暑い日になることが予想できる。

前日深酒をしたため、講師控え室という名目の仮眠室で惰眠を貪っていた土雲佑樹は、開かない目を無理にこじ開けながら時計に目をやった。午前九時四十五分。腕を曲げて、差し込んでくる太陽光から目をかばい、しばし考える。思い出すのに時間がかかったが、あることに思い至って目が覚めた。次の土曜日から定期テスト対策が始まると、高柳深月先生から聞かされていなかっただろうか。いつもはほとんど高柳先生任せで、自分が受け持つクラスはほんの少しだけにしてもらっているのだが、定期テスト前だけは自分も駆り出されるのだ。

 ロッカーの前に並べた長椅子から身体を起こして、悔恨の情と、酔いによる頭痛を追い払うため、二、三度頭を横に振る。そして事務机三台が並んだ講師準備室を通り、教室との間を仕切るドアを開ける。眼鏡をかけたニキビ面の男子生徒がこちらを見ていた。

「あ、いたいた。何時だと思ってんの? 高柳先生がそろそろ起こして来いってさ」

「すまん。五分だけ待っててくれ」

 そう言ってドアを閉めた。ふらつく足取りで講師控え室に戻り、洗面所の鏡の前でぞんざいに顔を洗い、窓の外に目をやった。

 ここは東京渋谷。目の前の、道路を挟んだ向かい側には私立碧山学院高等部の西門が見える。右に進むと109やパルコなど、その向こう側に渋谷のスクランブル交差点が見えてくる。そんな都会のど真ん中に、五十年前から腰を下ろしている四階建ての古臭いビルがここ石橋ビル。その三階に土雲佑樹が経営する碧山伝習舎はある。ここは碧山学院大学中等部、高等部の生徒専門の塾だ。初等部から中等部、高等部と進み、大学は私立の名門碧山学院大学まで、エスカレーター式に進学できる、いわゆる「内進生」を対象とした進学塾である。

 前塾長である石橋陽子に気に入られ、この塾に入ったのがかれこれ十数年になる。

土雲は九州の出身で、高校三年生の時ある事件を起こし高校を中退した。何もかもが嫌になり、故郷を離れ東京に出てきて、将来に何の夢もなく、日雇いのバイトでその日その日をしのぎながら過ごしている若者だった。

ある日、渋谷の書店で立ち読みをしていた時、声をかけてきたのが石橋塾長だった。土雲が読んでいた『フェルマーの最終定理とは』というタイトルを見て、興味が湧いたのだと言う。

「失礼だけど、読んでて理解できるの?」

ひとことふたこと話してから、石橋はそう質問した。当時の土雲は二十歳そこそこ、坊主頭の金髪で、薄汚れた作業服にボロボロの靴という出で立ちで、その見てくれと本のタイトルのギャップが激しかったからだ。

土雲は微笑みながら応えた。

「できませんね。でも、理解できないから面白いんです。お金はないから立ち読みで我慢ですけどね」

その返答に痺れた石橋は、土雲が読んでいた本を買い、土雲にプレゼントした。そして突然、彼に塾の講師にならないかと提案したのだ。

土雲は高校中退だったが知的好奇心は旺盛で、学業も優秀だったため、講師としては問題なかった。何より生徒との距離の詰め方が絶妙だった。中学生の数学と英語、理科、社会。高校生の数学IA、数学ⅡB、それに物理、化学の講師として石橋の右腕になるのにそんなに時間はかからなかった。

その石橋塾長が亡くなり、後を継いだのが三年前のことだ。

 講師準備室を出ると、個別指導用と集団授業用にそれぞれパーティションで区切られた大小四つの教室がある。一番奥の一番大きな第一教室から数人のかしましい声がする。今はまだ始業前なのだろう。

 ちょっと顔を覗かせると、男子二人女子三人の、通称「おしゃべり問題児チーム」のメンバーたちと、教卓代わりの個人用机に座って資料に目を通している高柳深月先生がいた。

 問題児と言っても、一人一人は可愛い中学生なのだが、とにかくうるさいのだ。休み時間中も授業中も、本当によくしゃべるのだ。碧山伝習舎には、学院に通う内進生の中でも、成績に不安のある生徒がやってくるのだが、彼らのほとんどが地頭は悪くなく、学校の授業が頭に入っていない。原因の大半がクラスに「しゃべる生徒」が数人いて、授業の邪魔をする。この年の中二は、その原因になる生徒がここに集まってしまったのだ。

「あー、塾長。今起きたの? 何時まで寝てんのよ」

「どうせお酒飲んだんでしょ。髪の毛爆発してるし」

「おれたちにはいつも『起きろ。寝るなら立て』って言うくせになぁ」

そうやって講師を冷やかすのも、心を開きつつある証左と、多目に見なければならないと土雲は思う。そして髪をボリボリかきながら、面倒くさそうに言った。

「うるせぇ。おれはいいんだよ。結果どうあれ起きてきただろ。それより、試験二週間前だぞ。そろそろ気合い入れてくれよな」

そう言って、近くにいる男子生徒の背中を叩きながら、高柳先生にチラっとすまなさそうな顔でお辞儀をする。彼女は少し怒ったような顔で一瞥すると、すぐに資料に目を戻しながら言った。

「そろそろ中三が来るんじゃないですか。資料は用意してありますから、早く準備に入ってください」

「おお、そうだった。それじゃ、みんな、頑張るんだぞ」

そう言って生徒ひとりひとりに目を向けると、土雲は急いで講師準備室に戻った。戻りながら、改めて、高柳先生がいてくれて助かったと思っていた。

彼女は東大卒の才女だった。どんな経緯でそうなったかは聞いていないし、聞く気もないが、六年前のある日、前塾長が今日から講師をやってもらうと言って二十五歳の深月を連れてきた。その時の彼女は憔悴した表情で、しかも産まれたばかりの乳飲み子も連れていた。なお驚いたのが、自分が住んでいた最上階の四階に一緒に住まわせるという。赤ん坊は保育園が空くまで教室で面倒見るとまで。おかげで土雲も、一年間はみんなと交代でお守りをするはめになった。

しかし高柳先生が来てからというもの、何もかもスムーズに進むようになった。高校生の数学IIICまでほぼ完璧に教えられた。英検は一級を持っていて、TOEICは九百点超え。東大卒なのだからもちろんなのだが、授業の進捗具合の調整やバイト講師の手配と管理、掃除やコピー用紙の補充まで、経理以外のことはなんでもこなす。まさにオールラウンド・プレイング・マネージャーだ。

天涯孤独だった石橋前塾長は、このビルの権利と塾の経営権を土雲に、最上階の部屋の権利を高柳に遺すと言って亡くなった。その時、講師としての実力から言って、塾長という名義も高柳に渡すのが当然だと土雲は言ったのだが、それはかたくなに固辞された。

それならばと出した交換条件、

「自分が塾長として表面上は経営する形を取るから、その代わりに実際の運営は全部あなたがやってください。それと、自分のシフトは極力減らしてください」という、今ではパワハラと認定されかねない提案をした。

「そんなことで良ければ」と、高柳はあっさり了承してくれたのにはびっくりした。そしてそらからは、この塾の影の支配者として君臨する高柳深月は、大きくなった娘の奈史ちゃんとともに、この塾と土雲の生活になくてはならない存在となっている。

用意されていた中三の公民用資料を手に取り、土雲は第三教室へと向かった。今日来る予定の生徒は、普段は部活をしているため、毎週水曜日の午後六時から、英語のレギュラー授業だけを受けていて、テスト前だけは土日も参加できるという女子生徒だった。

五分ほど遅れて、予約していた流田千帆里が息を弾ませてやってきた。暑かったのか、うっすら汗をかいている。

「すみません、遅れちゃって」

「いいよー。暑いだろう。とりあえずクーラーにあたりな」

「はい、すみません。部活の件でコーチから電話が入っちゃって。でも、いいです。始めてください」

しゃべってばかりで授業をぶっ壊し、授業内容は全く覚えてきていない生徒もいれば、こうやって礼儀正しく、前向きに勉強しようとする生徒もいるのが碧山学院だ。どっちの生徒も可愛いと言えば可愛い子たちなのだが。

授業を進めながら、土雲は千帆里の授業態度に若干の違和を感じていた。いつもは覚えていても良さそうな語句を覚えていない。いつもならば、ノートを取るべきところはきちんと取っていたのに、それも取らずにボーッとしていることが多い。正直、今日の授業は全く身になっていないように感じた。

それでもどうにかこうにか授業を消化して五十分が過ぎた。

「さて、それじゃちょっと休憩時間にしようか。十分間ね」

そう言うと、土雲は講師準備室に一旦しりぞいた。そこには高柳深月が一足先に戻っていた。

部屋に入るなり難しい顔をする土雲を見て、深月は声をかけた。

「何かありましたか、浮かない顔をして」

「はあ、ちょっと」

「塾長が考え事なんて珍しいですね。また馬の事でも考えてるんですか」

そうではないと知りながら、そんな軽口を叩くのが、実は高柳深月先生の素の顔だ。生徒の前では固い真面目な講師だが、生徒がいないところでは若干柔らかい面を見せる。

「そんなんじゃないですよ。中三の流山なんですけど、ちょっと雰囲気がちがうんですよねえ。いや、見た目は変わらないんですけど、心ここに在らずって感じで」

「まぁ、千帆里ちゃん、今日もそうだったんですか。彼女、こないだの水曜日、レギュラー授業のときも浮かない顔してました。弓道の大会が近いから、練習が辛いのかと思ってたんですけど」

「その前の週はそんなことなかったですよね」

土雲は確認し、高柳も頷いた。

千帆里が碧山伝習舎に来るようになったのは、ちょうど一年前からで、母親と初めて来塾したときから元気で朗らかな少女だった。塾に通ってくるのは週に一回か多くても二回。一回の授業は二時間弱。それくらいの短い時間で、人間の何がわかるものでもないのだろう。しかし、短い時間でも顔と顔を突き合わせ、知識をやり取りし、いかにして脳に刻みこむかという真剣勝負。その最中の生徒の感んじていることを、表情から読むことに関して、土雲は絶対の自信があった。

休憩時間の十分が過ぎ、土雲は第三教室へと戻った。そこに千帆里の姿はなかった。しかし、第一教室の中二がコンビニから帰ってきたところだったので、彼女もその類なんだと思い込んでいた。

ところが十五分が過ぎても戻ってこない。さすがにちょっと気になって、土雲はエレベーターのエントランス部分に行ってみた。そこに千帆里はいた。彼女は誰かと携帯電話で話しているところだった。声をかけようかと思ったが、千帆里の様子がおかしかった。後ろ姿で背中しか見えないのだが、叱られているのだろうか、俯いて震えながら相手の言うことに相槌を打っている。

「・・・・・・わかりました・・・・・・はい・・・・・・いいえ・・・・・・いいえ、お願いします」

返事をする声にも力はなく、到底あの元気な千帆里とは思えなかった。

「おーい、千帆里。いつまで話してるんだー。十五分も過ぎてるぞー」

突然大声をかけられてびっくりしたのか、振り向いた千帆里は、その声が土雲だと気付いて、一瞬ホッとしたような、そして次に怪訝な表情をむけた。

「ごめんなさい・・・・・・いえ、あの、塾の先生で、もう行かなきゃ・・・・・・そうじゃありません・・・・・・はい、わかりました・・・・・・明日の午後二時ですね・・・・・・」

土雲に対して謝っているのか、それとも電話の相手にかしこまっているのか、千帆里はしきりに頭を下げながら通話をやめようとしている。しかし、相手がなかなか電話を置いてくれないようだった。

ようやく通話を終え、土雲と向かい合った千帆里は、何かを探るように聞いた。

「ごめんなさい、先生。でも、いつからいたの? どこから聞いてた?」

「なんにも聞いてないよ。お願いしますって言ってたのが聞こえたぐらいかな」

そう土雲ご応えると、千帆里はちょっとホッとしたように、明らかな作り笑いを浮かべて教室へと戻った。土雲の不審感は増すばかりだった。

授業も終盤になり、土雲はいまいち元気のない千帆里をなんとか盛り上げようとしていた。

「それでだ、この憲法第二十五条『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する』ってのは全部覚えなきゃダメなんだ。全部を暗記できないなら、この『国民、健康、文化的、最低限度』っていう単語だけは最低覚えるんだ。そして、最初の方で言った、基本的人権を唯一規制しているのが・・・・・・」

語尾を上げ続きを促すと、

「公共の福祉!」と間髪を入れずに答えを叫ぶ。正解と言いながら、右手を上げて「イエーイ」とはしゃいだ声で手を上げると、千帆里もそれに応えてハイタッチをしてくれた。

「よーし、それじゃ今日はこれでおしまい。今日のところ、ちゃんと覚えとくんだぞ。明日は十時から理科一分野だからな。教科書、プリント忘れんなよ」

「はーい。ありがとうございました」

快活に返事をして教室を出ていくのはいつもの千帆里なのだが、どうにも表情が晴れない。あの電話の件についても、土雲はとうとう聞けなかった。おそらくその相手が何かしら関係しているとは思うのだが、追求しすぎると殻を閉ざす可能性が大きい。

その後二コマの授業をこなして土雲のシフトは終了した。普段一コマぐらいしか受け持っていない分じんわりと疲れが溜まっている。

(やはりあれをやるしかないか)

講師準備室に戻り、乾いた喉に水を流し込む。ゴボゴボッとウォーターサーバーの水の中で空気が動く音を聞きながら、土雲の意識はそっちに向かっていた。ハイタッチした右手が熱を持ったような気がした。


その日の深夜、世田谷のアパートの一室。深黒の闇の中、土雲は目の前に灯したロウソクに向かって結跏趺坐の姿勢をとっていた。掌は重ねて法界定印を結んでいて、背を少しだけ丸めている。呼吸は細長く穏やかで、知らない人が見ると、していないのかと思うほどだ。

今土雲は彼自身の『意識』を赤い玉に凝縮し、彼の『顕在意識』から、『無意識』という深い海の底へと沈んでいるところだった。光も届かない闇の中を、上下も左右も、前も後ろも定かではないが、確実に奥へと向かって沈降している。

時折、ぼんやりと光っては消えてゆく映像の束が見えた。つい最近のできごとから、東京に出てきたばかりの頃のもの、小学生の頃のもの、高校生の頃のものなど、時制に関係がない。鮮明に記憶に残っているものや、すでに忘れてしまったもの。様々な記憶の欠片がランダムに浮かんでいく。そこはフロイトの言う『個人的無意識』の領域だ。その欠片の束は自分自身の煩悩なのだと土雲は知っている。触れたくなるのだが、そうすると先へは進めない。スルーするのにも大変なエネルギーを使うのだ。圧迫され息苦しく感じるが、耐えられないほどではない。

ふと『意識』がブレーキをかける。底に着いたのだ。ここが『集合的無意識』だ。

 土雲は右手に刻んだ千帆里の情報を『意識』で読み取った。掌が熱く脈打つ。そして灼熱色の球体に擬した『意識』に「飛べ」と命じる。土雲はこの飛ぶ行為を『こころみ』と呼んでいた。土雲は幼い頃からこの領域を通って、他人の意識へと潜入できる能力を持っていた。

土雲の『意識』の赤い玉が賑やかに回転を始めた。急に重力がかかり、潮流に乗ったように流されていく。真っ暗な世界で、そして次の瞬間、あたりは茜色の遥かな水平線ひと変化した。これが千帆里の『個人的無意識』の底だ。そこから静かに浮上すると、顕在意識へと到着する。そこには他の人と同様に、記憶の欠片があちこちに散らばっていた。日ごろ起こったできごとの中で、千帆里の記憶に残るエピソードをひとつのパッケージにした物だ。

ひとつひとつに興味を示している暇はなかった。目的の、一番新しいストレスが大きい記憶を探した。そして宙に赤く点滅する光を認め、その光に集中する。光の源に近づき、赤い霧の中へと潜り込む。何層もの雲を突き抜けた時、視界が明瞭になった。

目の前に一人の男がいる。千帆里の『意識』から弓道部のコーチである白幡であろうとわかる。なぜか彼の顔にはうっすらと靄がかかっている。土雲は『意識』を強く集中した。

『・・・・・・これがバレたら・・・・・・わかってるだろう。お前は賢い・・・黙ってればいいんだよ・・・・・・』

ハッとして、土雲はそのイメージから離れた。これ以上近づくと絡めとられてしまう恐れがある。土雲だってひとりの男だ。他人と同じくらいの色欲は持っている。しかも、今いるここは純粋に『意識』だけの世界。よほど強靭な精神力で臨まなければ、他人の『意識』と同調してしまう。

 それでも本筋は理解できた。この男は屑だということがわかればそれでいい。

土雲は次に、この男の『意識』へと『こころみ』ることにした。土雲の予想だと千帆里の身体にあの男の手がかかっていると思われた。そして千帆里の首筋を男が撫でたことがわかった。そこが一番、嫌悪の色が濃かったのだ。

 吐き気を我慢してその部分から男の意識へと飛翔する。身体的接触さえあれば、ちょうどインターネットのように、人から人へ『こころみ』ることが、土雲にはできるのだ。

男の個人的無意識は汚れた黄色で、所々に澱が凝り固まったように浮いていた。それだけで、この男の本性がわかる。

男の顕在意識に映し出された記憶によると、この男は毎年ひとりの生贄を見つけ出し、己の薄汚い欲望を満たすために若い性を蹂躙していた。

最も新しい映像でわかったことは、千帆里はテスト中に不正行為を行っていたということだ。千帆里は教える側として、カンニング紛いの行為に加担してしまった。それを同じ弓道部の女子から聞き出したこの男が、部活後に千帆里を部室に残し、その事実を問い質したのだ。

千帆里は最初は否定していたが、じっくり腰を据えたこの男の前に、最後は泣きながらその事実を認めた。そしてそれからは、捕らえたアザラシを嬲り殺しにするシャチのように、怯える千帆里をいたぶりながら、悶え苦しむ表情を見て楽しんでいるのだ。

もちろんカンニングはやってはならない行為だし、その事自体は反省しなければならない。しかし、それを理由にして、大の大人が少女を弄んでいいはずがない。

白幡は唾棄すべき男だ。まだ千帆里が、身体的にこの男の毒牙にかかっていなかったのが不幸中の幸いだった。

それだけのことを確認して、土雲はその男の『こころみ』をやめ、千帆里の意識へと戻った。


徐々に浮かび上がり覚醒していく意識。彼自身の身体を取り戻し、目の前に消えかかったロウソクを見た土雲は、二度三度と思い切り深呼吸をした。組んで固くなった手と足を解き、その場に大の字になる。それから何度か屈伸をして立ち上がる。コップ一杯の水を飲み干し、簡素な机の上に置いたノートを開き、最後のページに書かれている「六月十四日 こころみ」の文字の後に、「帰還」とだけ追記した。これは土雲が自分に課したルールであり、大事なルーティンだった。

 千帆里にとって、心的ダメージの大きな記憶のパッケージにはとりあえず結界を張り、孔雀明王の印と真言、それと孔雀明王の御真影を焼き付けておいた。このひと揃えがあれば、一度だけ勇気を振り絞って関係を拒否することごできる。あくまで、本人がそう望めばの話なのだが。

今夜、千帆里は無事なはずだ。明朝来塾した際、やった事は包み隠さず白状するよう説得しよう。結局はその方がいい結果につながるのだ。信頼できる教師も紹介できるだろう。それとは別に、あの男には、これ以上のことをすれば、過去の罪を償う事になると、釘を刺しておこう。確たる証拠をいくつでも提示することができるのだ。

 ひと息ついた土雲は、冷蔵庫からビールを取り出して一口煽った。クーラーをつけてはいるがどこか蒸し暑い。ティーシャツもじっとりと汗ばんでいるようだ。ビールをもう一口飲み、残りを持ってソファへと向かう。

さっき机の上に置いたノートを手に取り、ペラペラとページをめくる。数十件ある日付と「帰還」の文字の羅列。その合間に一箇所だけ、ぽっかりとした「帰還」と書かれていない空欄があった。『こころみ』た時の記憶を完全に喪失しているところだ。

他人の心に潜り込み、時にはその人の心を操作することもできる力。それが『こころみ』だが、一方で『こころみ』には大きな副作用がある。『こころみ』より、さらにもう一歩踏み込んだ場合、その前後の記憶がなくなるのだ。そしてそれこそが、土雲が故郷を捨てた原因でもある。

このノートを手にする度、彼は地獄の蓋を開けているような気がする。かつてあの雨の似合う小さな町を飲み込んだ、地獄の蓋を。

両親に見捨てられた町であり、かけがえのない親友が住む西の果ての町を。

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