第11話 駿太郎 (四)

「お前に相談がある」

連休明けの五月六日。駿太郎は校門を出る時、土雲佑樹に訴えるように言った。

佑樹は駿太郎の顔をまじまじと見つめた。左の口元には黒く、頬骨辺りには青く痣ができている。数秒のあと、「そうか、なら歩こう」と応えた。

鶴東高校から建山公園を抜けて諏訪神社まで降り、そこから長崎市公会堂を通り中央橋まで。ふたりがしゃべりながら歩いて帰る時の定番コースだった。

二十分ほどの道のりで、駿太郎は公会堂辺りまでひと言も話さなかった。佑樹もそれについて何も言わなかった。ふたりはただ黙々と歩いて、公会堂の脇にあるベンチに座った。

佑樹は、途中で買った二本のコーラのうちの一本を駿太郎に渡し、もう一本を自分でひとくち飲んだ。駿太郎はなかなか口をつけず、空を仰いだ。

雲の多い日だった。ビルと山と路面電車。その間に見える空は、ほとんどが灰色の石鹸の泡だった。

駿太郎はひとつ頷いた。

「佑樹。おれの親父を『巣食っ』てくれないか」

突然のひと言に佑樹は駿太郎をまじまじと見つめた。駿太郎も、その視線を受けながら、じっと見つめ返した。決して自分からは逸らさないつもりで。

「何があった。話してみろよ」

駿太郎はその言葉を聞いて、初めてのように大仰に息を吐いた。コーラをゴクゴクと喉に流し込み、ひとつゲップを吐いた。今度は佑樹が駿太郎から視線を外さなかった。


一週間前、佑樹に『こころみ』てもらってから、あずさの体調は徐々にだが確実に良くなっていた。

しかし、駿太郎の心は晴れなかった。当のあずさにも、なぜかは言えなかった。

自分たちの父親が実の娘にした行為を、兄は知っているという事を。そして、それが兄の友だちに聞いたという事実も言えるはずもなかったのだ。

佑樹の力は信じている。圧倒的に信じている。その佑樹がいう事ではあるが、やはり完全には信じ切れていなかった。はっきりさせないまま有耶無耶になればいいと、心が思っていたのかもしれない。

すっきりしないながらも、上手く誤魔化しながら、妹を無言のままに励ましていた。

佑樹には父親に問い詰めるべきではないと言われた。

「まず、あずさちゃんの負担をかんがえろ。お前が知っていると、間接的にでもあずさちゃんに聞かれてはまずいだろう。それに、問い詰めて、どうやって知ったのか、説明できないだろう。白を切られたら、もうどうしようもないんだ」

その時は駿太郎も頷いた。事の善し悪しよりも、あずさの状態を改善する事が先決だと思ったからだ。

しかし、あずさの容態が順調に快復している状況で、駿太郎は我慢がならなかった。やはり何らかの形でひとこと警告してやらなければ。

父の健太郎は滅多に帰ってこない。普段は議員の仕事が忙しいという理由で、長崎市内中心部の高層マンションに部屋を持っている。その実、女を何人も囲っているのだ。

それについては、もう何も言わないつもりだが、自分の娘に手を出すのは絶対に違うと思った。これだけは、どうしてもやめさせなければならない。駿太郎がそう決めた翌日、父親が帰ってきた。

時津健太郎という人物は、息子の駿太郎からすると、父親としては落ちこぼれ以前の、話にもならない男だった。

子どもは作るだけ作って放り投げる。好きな時に帰り好きなだけ留守にする。稼いで食わせているとは言うだろうが、人がそれだけで育つと思ったら大間違いだ。

では社長としての時津健太郎はどうだろう。これは駿太郎が言うのも何だが、やり手である。点数を付けるなら九十点であろう。

そもそもなぜ十点取りこぼしているかと言えば、時津建設は母方の祖父が興した会社だと言う事だろう。つまり婿養子なのだ。

ただし、当時の時津建設は従業員は祖父と祖父の小学校時代からの友人、それと祖父の従兄弟、この三人の弱小企業だったらしい。

だから、時津建設が県内でも有数の大企業に発展したのは、実質健太郎の手腕であり、その他いくつもの関連企業を立ち上げ軌道に載せたその力量とバイタリティは、到底真似できない凄さだ。

そして、議員としての彼はと言うと、これは五十点という所だろうか。

政策や理念などは駿太郎にはわからない。ただ、選挙運動期間中以外でも、人に対して分け隔てなく接することは、この人の唯一の美徳だと考えている。それが一番活きるのが政治家だと、駿太郎は考えている。

ただ、表の顔と裏の顔では相当違っている。表では次代を担うニューリーダーとの呼び声が高いが、女遊び、各方面への不透明な口利き、議員になってからのさらなる会社の発展。どれも裏では金の匂いがするのだ。

そんな健太郎が連休の最後の休みであるこどもの日に帰ってきた。七時頃、帰宅を知らせるホームセキュリティのチャイムが鳴った。二階の自室にいた駿太郎は、ビクッと反応し、そしてすぐに階下へ降りていった。

ネクタイを弛めながら、水を一杯飲み干した健太郎は、後ろから来た駿太郎の気配に気づき、振り向いた。

「おお、駿か。どうした」

駿太郎を見た瞬間に、その顔に並々ならぬ緊張を読み取り、父の顔から大人の顔に変わった。ちょっと背筋が伸びた。

「父さん、聞きたい事がある。いや、確認したい事だ」

「何だ、お前。肩に力が入ってるぞ。そんなんじゃ、誰も腹割って話そうなんて思わないぞ」

コップをシンクに置き、駿太郎に真っ直ぐに向かい、少し睨めつけ気味に見た。

「腹を割ってもらおうなんて思ってない。正直に話してもらいたいだけだ」

「ほう。ガキが大人に向かって『正直に』か。ずいぶん偉くなったもんだなぁ」

椅子を引き、ゆっくりとそこに座る。弛めたネクタイを解いてしまい、丁寧に二つに折って隣の椅子にかける。酒でも飲んでいるのか、フーっと荒い息を吐く。

「で、なんだ、話っていうのは。正直に答えてやるから、言ってみろ」

健太郎の目はすでに実子に対するものではなかった。それはある意味で臨戦態勢に入った目だった。

駿太郎はたじろいだ。この状況では、遠回しな言い方では気づかれて逃げられてしまうと思った。可能な限り直接的には問い質すしかないと考えた。

「一週間前、あずさに何をした。いや、おれは何をしたか知ってる。なんであんな事をしたんだ!」

「ああ、あれか。あずさが女になったみたいだから、試しに抱いた。ちょっと反抗したから、手荒に扱ったよ。二時間ぐらいかなぁ、わりかしいい味だったな。それがどうかしたか?」

駿太郎は呆気に取られた。まるで、誰かが買ってあったカップラーメンを、無許可で食べた時の言い訳をするように、いや、そっちの方がもっとすまなさそうな顔をするのではないかというくらい軽く言い放った。

「どうかしたかだと。ふざけんな! 実の娘だぞ」

「実の娘だからどうした。当たり前の事を言うんじゃねぇよ。やりたくなったからやるんだ。嫌だったら強くなって、おれを殺りゃぁいんだよ」

「何言ってんだよ。おかしいんじゃないか。普通はそんな事できないだろ」

「普通って何だ? おれの普通とお前の普通は同じなのか? あずさを犯して何が悪いんだ? 言ってみろ」

そう言う健太郎の目は完全に座っていた。駿太郎は答えられなかった。思考が乱れて上手く言葉にできない。

普通、異常、実子、法律、偏見、常識、犯罪。あらゆる言葉が交差して、滞る。

「お前の歳なら、逆にお前が言うんじゃないのか。普通に囚われるなんてナンセンスだってな。その通りさ、普通に過ごして何になる。普通なんてな、敗者を作るために勝者が作った踏み絵なんだよ。踏まずに死んだやつこそが聖者になれるんだ」

この男の言ってることは事実かも知れない。しかし、今は関係ないのではないか。

「おれはな、今までなんでもやってきた。おれの好きなようにな。しかし、誰も裁けなかった。表でも裏でも。そこにお前の言う普通は存在しなかった。いや、普通じゃなかったから裁けなかったんだよ」

「だからって、力づくで従わせるなんて!」

「甘いよ、甘い。力づくだろうが金づくだろうが、自分の意のままに従わせた方が勝ちなんだよ。気に入らなきゃぶん殴る、自分より強そうなら金でなびかせる、金も持ってそうなら権力で黙らせる。それでこの世は回ってるだろうが。違うって言うのは、お前がまだガキっていう証拠だ」

涙が溢れてきた。この男は狂ってる。こんな男の息子に生まれて、駿太郎は己の出自を呪った。そして、生かしておいてはらいけないとも思った。

「なんだ、その目は。おれを殺したくなったか? いいぜ、殺しても。お前に殺せるもんならな。お前はまだおれを殺せはしない。殺せるやつはそんな目つきしてないんだ。おれはな、何度も殺されかけたからわかるんだよ」

駿太郎は健太郎に殴りかかろうとした。男としての意地か、兄としての矜恃か。しかし、恐らくは人間としての恐怖のためだったに違いない。

「うわあああああああ」

身体を動かすためには叫び声が必要だった。

駿太郎は足を踏み出し、健太郎に迫った。しかし、逆に健太郎に膝の辺りを蹴られて呆気なく転がされた。健太郎は椅子から立ち上がり、腹に一発蹴り上げた。それから、顔に二発、腹に一発、背中に二発、蹴りを入れられた。

「弱いなぁ。おれがお前の頃には、おれみたいなおじさんには負けなかったぜ」

駿太郎は自然と頭を腕で庇い、背中を丸めて腹を防御しながら、なぜか冷静だった。動けない身体と意志を表示できない言葉とは裏腹に、頭は静かに回っていた。

蹴られながら、こんなにズタボロになったのは二回目だなとか、確かに体力がないなぁとか、次は絶対に気づかれないで近づいて寝首を掻いてやるなど、落ち着いて分析していた。

動けない駿太郎のそばに片膝をついて座り、駿太郎の後頭部の髪を掴んで、仰け反らせるようにすると、健太郎は吐くように言った。

「殺してやりたいだろう? あ? おれを殺してしまいたいだろう? でもなぁ、もう無理なんだよ。これからは、常にお前のことを警戒するからな。そして、お前らがどんな対策を取ってこようと、どこに訴え出ようと、きちんと処理できるように段取りをつける。当然、あずさの件はすでに万事手筈が整っている。どこの誰に何を言われようと、完全になかった事にできるんだよ」

駿太郎は愕然とした。

「お前が生きていられるの誰のおかげだと思う。名実共におれのおかげなんだよ。生活費も、この家も、そしてお前の命も、おれが全て握ってるんだ」

そう言うと、苦しんでいる駿太郎の頭を投げ捨てるように手放すと、立ち上がり、髪を撫でつけた。

「あずさも同じだ。どう扱うかはおれ次第だ。それが嫌なら、お前が代わりにやらせてくれるのか? しゃぶってくれるのか? おれはどっちでもいいんだぜ」

健太郎は残忍な微笑みを浮かべながら、そう言い残すと、玄関に向かって歩いて行った。駿太郎は蹲ったまま、顔を上げることさえできなかった。


涙で震える声で、駿太郎が昨日の経緯を説明した。

佑樹は黙って聞いてくれた。途中でコーラを一気に空にして、手の中で弄びながら。

「あいつは放っておけない。あずさも危険だし、他にもきっと被害者はいるはずだ。自分を無実にする方策も、きっとつけているはずなんだ。おれにはどうしようもない。お前に頼るしか・・・・・・」

駿太郎は吐き捨てる。冷たい風が一陣吹き抜け、目の前に小さな砂の渦巻きをたてた。

言うのを躊躇していた様子の佑樹が、ひと言ひと言を区切りながら話した。

「よく聞いてくれ。お前の言う事はわかった。わかりすぎるほどわかったよ。正直、酷いやつだと思う。『巣食っ』てやりたいとも思う。でも、『巣食い』っていうのは理屈じゃないんだ」

佑樹をぼんやりと見つめ返す駿太郎を、佑樹は物理の問題を説明してでもいるかのように難しい顔で続ける。

「『巣食う』か『巣食わ』ないかは俺の心が決めるんだ。基本的にはおれがその人に何かされて、おれの心がこいつは『巣食わ』なくちゃならないと思ったらやれるんだよ。好き嫌いでも、良い悪いの問題でもない。だから、一度お前の親父さんに会わせてれ」

そう言うと、佑樹は親友の肩を叩いた。

駿太郎は震えながら大きく息を吐いた。そして、その姿勢のまま、長い間、肩を震わせていた。佑樹に話をしたことで、気持ちはずいぶんと落ち着いていた。しかし、なぜかはわからないが、涙が止めどなく溢れてきた。冷静にどうしてこんなに泣いているんだろうと、駿太郎は泣きながら考えた。そして、その疑問の答えにひとつだけ思い至った。

 今このとき、駿太郎は佑樹に殺人を依頼したのだ。自分の父親を、自分の親友に、社会的に抹殺してくれと頼んだのだ。殺してくれとは言ってないが、『巣食う』ということは事実上死ぬのと同じことだった。

 今まで佑樹の話を聞き、『巣食う』ことの衝撃をわかっていたつもりだったが、自分の事として改めて考えたときに、それをやる佑樹の気持ちが初めてわかったような気がした。いや、それさえも自分の独りよがりだろう。絶対に佑樹にかかる重圧や正義の判断は、絶対に理解できないだろうと知らされた。その判断を今、駿太郎は佑樹に丸投げしたのだ。その重大さに震えたのだった。

 泣いている間、佑樹はずっと横で座っていてくれた。隣で長いこと俯いている男子高校生が注目されないように、普通に空を見あげてボーっとしていてくれている。その心遣いも嬉しかった。

 目の前の電停には、路面電車が何台も何台もやってきて、乗客を吐き出したり飲み込んだりを繰り返していた。そんな人々の生活と、薄い膜で隔たったところで、ふたりの高校生がそれぞれの思いに耽っていた。


駿太郎は何か胸が締め付けられるような夢から醒めた。

時計を見る。二時三十分。三十分ほど眠ってしまったようだ。朝早く起きて、仕事を半分ぐらい済ませ、午前中に集中するよに調整してもらって、午後からは休みをとった。その前日もほとんど眠っていなかったから、ついウトウトとしてしまった。

時計を見ると同時に、鼻と腕に数本の管を差し込まれた妹の様子をうかがった。落ち着いているよだ。

重い頭を振って、一度椅子から腰をあげる。何の気なしに窓際まで移動すると、暗い深原町の全景が目に入る。この郊外に一際目立つように建てられ深原総合病院は、地上九階建ての図体を小高い丘の上に聳えさせ、夜間は看板がライトアップされている。世間の人々はこの病院を「深原のお城」と呼んでいるらしい。

 容態が安定してきたため、あずさは昨日から七階のこの病室に移された。先生としては検査の結果を観て、とは言っているが、原因は不明のようだった。

いろんなケースを考えては見たものの、どうしてもこの症状は『巣食い』のような気がする。しかし、あの力は土雲以外は使えないはずだし、佑樹がそんなことをするはずがない。

そんなことをあれこれと考えていると、病室をノックする音が聞こえた。振り返ると、入口に土雲佑樹が立っていた。

十五年ぶりの彼は、いい意味で普通の大人になっていた。あの尖った雰囲気は消え去り、少しだが貫禄もついたように感じられた。

しかし、ちょっと猫背になりながらちらっとあずさの方に目を配りながら、彼が一歩病室に足を踏み入れた途端、会わなかった期間を飛び越して、高三の土雲が蘇った。

「よ、久しぶりだな。あずさの容態はどうだ」

軽い言い方だがトーンを抑えている。

「おう、久しぶり。容態な安定してるけど熱は下がらない。意識もないままだ」

「そうか。お前は大丈夫か。寝てないんじゃないのか」

そんなに酷い顔かと、自分の頬をなでながら、駿太郎は苦笑いをこらえた。

「お前こそ、まるで誰かの死に際に駆けつけたみたいな顔してるぞ」

佑樹は口をへの字に曲げ、そしてお互い笑いあった。ほんの少しの会話だけだったが、この瞬間、昔と変わらない土雲佑樹が帰ってきたのだと実感した。

駿太郎にとって最も頼りになる親友が戻ってきてくれた。それが嬉しかった。





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