第10話 陸
澤口陸は疲れ切っていた。
(何なんだ、あの先生は。あんなに抵抗されたのは初めてだ)
夏真っ只中とは言え、深夜のクーラーを効かせた部屋の中だ。なのに、彼は今、汗でびっしょりと濡れたベッドの上にいた。
陸はしばらく動くことができなかった。荒い呼吸が収まるまで数分かかった。頭がぼんやりとして、身体のあちこちが痛い。
あれは確かに時津先生の『魂』だった。それは確実だ。しかし、あの仏像はなんだ?
いつも通りベットに横たわり深呼吸をした。しばらくすると時津先生に触れられた手首がじんわりと熱くなってきた。その熱さが徐々に高温になっていくと、やはりいつも通り、隣にカイチがふらりと現れていた。
カイチとは陸が勝手につけた名前で、本当の名前や種類はわからない。
現れたカイチはすぐに、ある一点を目指して走り出す。その後ろを必死で追うと、そこは陸の手首を掴んだ時津先生の『魂』だった。理屈はわからないが、直感でわかるし、実際にこれまでもそうだった。
いつもなら、その『魂』には沢山の写真がばらまかれている。おそらく、その『魂』の持ち主がこれまで見てきた過去の記憶、経験と言ったものが写真や絵画のような形で残されているのだろう。
そしてその映像の山をカイチは食い尽くす。食い残しなど気にも止めず、食いたい所だけ食い散らかす。それが陸のお気に入りだった。
しかし、今回は全く違っていた。カイチが現れて、先生の『魂』にたどり着くまでは同じだったが、カイチが一声長鳴きをした瞬間、地響きのような音がして、地面が震動し始めた。
そんな事は初めてだったので、陸は慄いた。カイチも尻込みして、尻尾をお腹に巻き込んでしまっている。
すると、目の前の地面が裂けて、中から茜色の光がたち昇った。揺れが酷くなり、陸はなんとか踏ん張って身体を支えた。横に大きく広がる裂け目から、何かが音を立てて隆起してきた。
ちょうど頭の部分が現れて気づいた。それは仏像だった。
陸とカイチは凝然として、その黄金色の物体が全貌を現すまで見守っていた。
その仏像は陸の身長の二倍ぐらいで、金色に輝き、柔らかく微笑みながら座っている。鶴か駝鳥のような首の長い鳥に乗っていた。よく見ると手が四本ある。後ろに光が射しているが、それが羽毛のようになっている。これは普通の仏像ではないようだ。
しかし、全てを見てみて、陸は行けると思った。
こんな虚仮威しにカイチが負けるわけがない。慈愛に満ちた笑顔も、カイチのひと噛みで砕け散るはずだ。
「カイチ、行け! 食い尽くしてしまえ」
陸の掛け声に、カイチは後ろ脚に体重を乗せ、一声鳴くとひとっ飛びに跳躍した。仏像の細い頸部にガブリと噛み付いた。牙がカッチリ食い込み、カイチは身体を回転させた。グルルガルルと唸りながら、二回、三回と回転する。
一旦飛び退いたカイチは荒い息継ぎをした。仏像の喉は抉れるように肉が削がれていた。情けに溢れた微笑みも、心なしか痛みに引きつっているように見えた。
次の瞬間、噛まれた部分が赤く点滅を始めた。喉の破れて綻びた所が赤色灯のように明滅を繰り返し、徐々に修復されていく。明滅が終わった頃には、破れていた箇所は元通りに戻っていた。
陸は驚愕した。頭が真っ白になり、息をしているかどうかもわからなくなり狼狽した。今までの大人の『魂』との余りの違いに愕然とした。
そして、激しく怒った。学校の先生に、大人に、ひいては自分を受け入れなかった全ての人たちに対する恨みが、全て燃え上がった。
カイチはその後、合計で七回トライし、そして七回失敗した。カイチは消えてなくなり、陸は気を失った。
どのくらいそうしていただろう。陸は気だるそうに身体を起こし、隣の部屋の母親を起こさないように気をつけながら、キッチンへと移動した。
水道で直接コップに水を注ぎ、一杯一気に飲み干す。喉から、胃から、全身に水分が浸透していくのがわかる。陸は立て続けに二回、水をコップから飲んだ。部屋の中はクーラーのズーンと響く音だけが聞こえている。
時計を見るとまだ朝の四時頃で、窓の外はほぼ真っ暗だ。全部で七つ建っている大型公営団地の四階。見えるのは、隣に林立する団地の窓だ。ひとの営みが見えないこの時間帯、消し忘れたであろう灯りがひとつふたつ見える。
陸は自分の小さな部屋に戻り、部屋の大部分を占めるベッドに腰掛けた。真ん中辺りはまだ濡れていて、先程までの戦いの凄まじさを物語っているようだった。
正面には小さなさベランダに出れる窓があり、その横に開きっぱなしの数学のノートが置いてある勉強机がある。その下には、スマホの充電器の完了サインが緑色に三つ光っている。
ひと心地着いた陸は、改めて自分の能力、そしてカイチについて考えてみた。
陸のこの能力が芽生えたのは去年の末の事だった。当時、中学一年の陸はいじめられていた。恒常的にという訳ではない。何か理由があった訳でもない。誰かがふとむしゃくしゃした気分になり、誰かをいじめたくなった。その時、同じようにそう思った数人が、とある誰かを無視し始める。
一ヶ月ほどして、誰かをいじめるのに飽きて、他の誰かに標的を変える。さっきまでいじめられていた誰かも、今度はいじめる側につく。さっきまでいじめていた誰かも、次はいじめられる側に回る。そうやって陸の番がきた。ただ、そういう事だった。
背も小さいし、あまり喋らない陸へのいじめは、思いの外長く続いた。
最初のうちはこたえた。学校の行き帰りや、クラスでの話し合い、部活の連絡などの時、相手が普通に接してくれるかどうかは結構重要な事だが、尽く仲間外れにされた。
向こうが喋らないと決めたものを、自分がどうにかできるとは思えない。だったら、こっちだって好きにやるさと、陸は自分の方から積極的に無視してやろうと思った。
そう決めたら楽になった。周りに気を使わなくていい生活は意外に性に合っていたようだった。
すると相手方は次の手を打ってくる。
ある放課後、帰宅途中の陸を五人の同級生が取り囲んだ。陸は無視して通り過ぎようとするが、相手が通してくれない。
そのうちのひとり、鷲頭竜太という少年に肩を組まれ、人通りの少ない公園へ連れていかた。そこで鷲頭にさんざん殴られた。鞄も投げ出され、中身も踏みつけられた。他の四人は見物しているだけだった。おそらく鷲頭に言われて渋々付き合っただけだろう。
次に鷲頭は倒れている陸のズボンを脱がし始めた。鷲頭に強く命令され、他の四人も陸を押さえつけた。必死で抵抗したが無駄だった。パンツも脱がされ、写真に取られた。陸の中で何かが弾けた。
「お前ら、今日のこと覚えておけよ。特に鷲頭。お前だけは絶対に後悔させてやる」
陸は泣きながら、叫んだ。それは負け犬の遠吠えに思えたし、陸自身もその程度のつもりだった。
その最悪な日の夜、陸はなかなか眠れなかった。
ようやくベッドの中でウトウトしだした時、目の前に淡くて白い玉のようなものが浮いていた。玉を追っているうちに、どんどん深い静かな、何かの奥としか形容できない場所へ潜り込んで行った。
そこは理科室に置いてある人体模型の内蔵の中のようなイメージであり、色とりどりの絵の具が混ざりあったイメージでもあり、褶曲を繰り返した地層のようなイメージでもあった。
そこは絶えず動き流れていて、突飛な芸術性を感じさせ、そしてまたドロドロとした淫猥な世界でもあった。
玉は最初、白くてぼんやりとして、フワフワしたものだった。陸がふと「雪の中の狼みたいだ」と思いつくと、本当に牙が生え、耳が立ち、尻尾が伸びて狼に似た形に変形したのだ。
彼は昔、狛犬の元になった「獬豸」という瑞獣の事を本で読んだ。正義や公正の象徴の一角獣だと言うが、陸はその名前が気に入っていた。それで、直感的に、その白い狼を「カイチ」と名づけた。
陸はカイチに導かれるまま、原色の溶け混じる世界を浮き上がったり潜ったり、時には全力で滑るように泳いだりした。最高のひと時だった。
しばらく遊んでいると、カイチがとある一点を睨んでいる。そこには怪しく輝く光があった。なんだろうと思う間もなく、カイチはその光に向かって飛んだ。陸も焦ってついて行った。身体中がポカポカと温まってきた。
光は遠くで瞬く北極星のようで、周りがどんなに揺れ蠢いても、全くぶれることがなかった。
やがてその光は、ひとりと一匹を包み込むほど肥大し、飲み込んだ。その頃には身体のあちこちの、おそらく殴られた部分がズキンズキンと疼いていた。
恒星に飲み込まれた陸とカイチの目前に、澄み切った青空と、少し濃い色合いの青い海が彼方まで広がっていた。
青い空には白い綿のような雲がプクプクと浮かんでおり、太陽が斜め四十五度の角度でギラギラと輝いていた。海は少し沖に白波が立っていて、そこから先は黒と言ってもいいくらいの濃紺が横たわっていた。
久々にギラつく太陽が目に飛び込み、陸が手を掲げて目を細めていると、キュルルルと言う鳥の鳴き声が聞こえた。見上げると鳶が輪を描いて飛んでいた。
その光景を見た瞬間、これは鷲頭竜太の『魂』なんだと天啓的に気付かされた。誰に何と言われようと変えようのない確信だった。
陸の身体に刻まれた怨嗟の跡が益々熱を帯びた。カイチを見ると、その身体が倍ぐらいに膨れ上がり、色も黄色からオレンジ、朱色、そして赤と、目まぐるしく変わっていた。まるで、身体の内部が炎でできている透明な容れ物のようだった。
陸はカイチに鋭く声をかけた。
「カイチ! ゴー!」
するとカイチはひと声咆哮すると、一本の大きな矢となり、七色の閃光を上げながら、鳶に飛びかかった。テレビで見た、どこかの国から上げられるミサイルのようにも見えた。
鳶を咥えて戻ったカイチは、フーフー息を切らせていた。陸もなぜかとても疲れてしまい、その場に横になると、いつしか眠ってしまった。
そして翌朝、学校に行くとクラス中が教卓の前に集まり、異様な空気になっていた。後から来る生徒に紛れて陸も覗いてみると、そこには正座している鷲頭がいた。なんと下半身は裸だった。
「ごめんなさい・・・・・・本当にごめんなさい・・・・・・」
陸を見つけると、鷲頭はそう言って何度も頭を下げた。そして、また次の生徒に対して同じように謝罪を続けた。それらはみな、一度はいじめのターゲットになった事のある生徒だった。
この後、陸に対するいじめはなくなった。
学校では問題になり、一度でもいじめに加担したことのある生徒は謹慎になった。クラスの半分以上の生徒が加わっていた。
地元の新聞でも小さな記事になった。しかし、死人も怪我人も出ていなかったため、大した話題にはならなかった。
PTAも動いたが、被害に遭った生徒が一方で害を加えていて、誰が誰をいじめ、誰が誰にいじめられたのか複雑に絡まっていて整理できなかったこともあり有耶無耶になってしまった。
二週間ほどで学校は通常の状態に戻った。
陸は他の生徒と馴れ合うのを止めた。「誰が誰をいじめた、いじめられたかがわからないから、もういいだろう」って、ふざけるなと思った。 ひとりひとり、いじめた相手に手をついて謝ればいい。許さない人は許さなくていい。みんながそうだから、相殺しましょうでは絶対にないと思った。
その意味では、鷲頭は全員の前で、恥ずかしい思いをしながら、全員に向かって土下座したのは、正しい謝罪だと思っている。
しかしそれもあるが、陸はいじめや友だち関係などに気を取られている暇がなくなったのだ。
陸のこの力について。陸とカイチの関係、陸が訪れたあの原色の世界、殴られた箇所の発熱、空と海と鳶の空間。解明すべき事が山ほどあった。
鷲頭はあれから品行方正になったらしい。品行方正と言えば聞こえはいいが、気分が暗くなり、冗談が通じず、ほんのちょっとの違反行為も許せなくなったと言う。これも何か、陸の能力の源泉を紐解くきっかけになるだろうか。
陸は毎夜、研究とも言える作業に没頭した。いろんなパターンを何回も試してみた。
あの人に相談にも行った。いつも親身になって答えてくれる人だ。そして、陸に指針を与えてくれる人。
その結果、確実にあの状態に反復して突入できる条件を導きだしたのだ。
担任の『魂』に入り込み、撃退された次の日、時津先生が部長を務めているバドミントン部の試合に、時津先生が急遽来なかったと、陸はSNSで知った。
松添恵梨華からはDMが送られていて、「ありがとう。有言実行ね」という言葉をもらっていた。そういう事から判断すると、今回もうまく行ったようだ。
しかし、陸には実感が湧かなかった。いや、正直に言うと、今回は失敗だと思っていた。何もダメージを与えていないし、逆にこちらのダメージがこんなに大きかったのは初めてだったのだ。
その晩、陸は時津あずさ先生の『魂』に再度潜入する事に決めた。一度潜り込んだ『魂』には二度でも三度でも潜入する事ができることは確認している。
今まで一度たりとも失敗したことはない。だから失敗した後の潜入はしたことがない。そういう意味ではこの潜入は初めての試みだ。どう出るかはサイコロを振ってみるまでわからない。
深夜、ベッドに横たわり、静かに目を閉じた。心を落ち着ける。浮かんでくるいろんな雑念を丁寧に消していく。すると、いつの間に隣にカイチが立っていた。よし、いつも通りだ。
陸はカイチをひと撫でし、自ら時津先生に握られた腕を見つめた。熱を帯び、握られた指一本一本の力加減、湿り気、震動などが鮮やかに感じられる。
カイチに「行け!」と短く命じる。カイチは自分の分身だ。自分にできない事、やりたかった事、全てカイチがやってくれる。
カイチは行き先も聞かずに跳ぶ。身体がゴムのように伸びたかと思うと、尻尾が追いつく頃には時津先生の『魂』に到達していた。
そこにはあの仏像がいた。動かないはずのその目が、陸の到着を確認したように輝いた気がした。
陸はしばらく様子を見た。このままではこないだの二の舞に終わる。そう思った。しかし、小一時間かけて周囲を探索したが、攻略する手がかりは何も見つけられなかった。
陸はカイチをけしかけて、仏像を噛みつかせた。結果は昨日と同様で、食いちぎりはするが、すぐに修正される。
何度やっても、こちらが疲れるだけだった。
二度目の敗退は、陸の心を塞ぎこませた。
何という屈辱。何という敗北感。あの仏像の笑顔が、こちらを嘲笑しているように見えた。
現実世界に戻ってきた陸は、ゼーゼー喘ぎながら目を覚ました。疲労感と徒労感が波のように押し寄せてくる。しばらくは動けそうにもない。
今回も失敗だった。前回と同様に、手痛く返り討ちにあってしまった。
しかし、前回は先生も熱を出したらしい。今回もそうならば、まだ望みはあるかも知れない。
そのためには、やはり、あの仏像がキーポイントになるはずだ。あのアルカイックな微笑みを恐怖と苦痛で歪ませたい。陸は心からそう思った。
(これは、あの人に相談するばきかなぁ)
陸は最後の頼みの綱である、あの人物に会おうと決めた。あの人ならきっと何らかの指示を与えてくれるはずだ。
(そして、最悪の場合は・・・・・・)
陸は天啓的に閃いて、その考えを口に出した。
「時津先生が無理なら、その家族に罪を贖ってもらおう」
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