第2章 命は缶詰と引き換えられた
僕は辺りを慎重に見回した。
老人イブラヒムは、兵士が集まる店には近付いてはいけないと言っていたが、金目のものを探すには結局ここが一番だ。僕はある一軒の店に目を付けていた。廃れた店だが、缶詰などの食品も売っている。この店は兵士がよく利用するらしく、十分な品物を取り揃えていると聞いた。今の僕を突き動かすにはそれだけで十分だった。賭けに出るしかなかった。
月は雲に隠れている。新月の夜を待つほどの時間が僕にはなかったから、運がいいのだと思った。僕は薄闇の中を歩いていた。
夜になると繁華街から人の姿は消える。セルジュークに戒厳令が敷かれているからだ。兵士たちだけが夜の街を闊歩している。僕は時折り見かける彼らの目をかいくぐるように歩き続けた。
交差点の街灯は消えていた。どこまでも静かな夜だ。交差点を曲がったところにその店はある。僕は建物の陰から店の様子を伺った。
店の前に二人の兵士が立って談笑していた。二人とも銃を担いでいる。僕は迷った。今はまずいんじゃないか。でも、僕には本当に時間がないんだ。アイシャもバドゥルも、もう何日もまともな物を食べていない。それは僕もだ。僕は二人に気付かれないように、静かに店の裏へ回った。
僕は店の裏口を見つけた。足音を立てないように気を付けながら近寄った。音を立てたら表の兵士に気付かれるかもしれない。気付かれたらどうなるんだろう。脂汗が毛穴からにじみ出てくる感覚がする。音を絶対に立ててはいけない。風の音だけが聞こえる。
裏口のドアの横に小さな窓があった。それは少しだけ開いていた。僕はその窓から中を覗いた。
覗いた先は薄暗かったけど、奥の部屋の明かりが薄く広がって、棚が列をなしているのが見えた。奥の部屋に続くドアは建付けが悪いようで、閉まっているのに光が漏れている。いつの間にか月が雲から顔を出し、夜の闇を照らしていた。おかげでこの部屋は電気が消えているにも関わらず、多少の明るさがある。
その棚にはいろんな品物が整然と並べられていた。覗いたまま品定めを始めた。とにかく缶詰が欲しかった。すぐに食べることもできるし、大切にとっておくこともできる。
暗がりに目を凝らしていた僕は、やがてたくさんの缶詰が置かれている棚を見つけた。この部屋に忍び込めば缶詰を手に入れることができる。僕の鼓動は高鳴った。
裏口のドアノブをそっと回してみたけど、やっぱり鍵がかかっている。この窓から侵入するしかない。
幸いなことに僕は大人じゃない。この窓をもう少し開ければ中に入れるだろう。静かに窓を開き始めた。窓はかすかにギイッと軋んだ音を立てたけど、なんとか開けることができた。僕は窓の縁に両手をかけて体を持ち上げ、両足を窓の中に入れて、ゆっくりと部屋の中に侵入した。
僕は棚の陰に身を潜めた。そして棚の下に置いてあった麻袋を拾い上げた。キリムで作られた使い古しのカバンを持ってきていたけれど、この袋も使おう。そうすれば、たくさんの缶詰を持って帰ることができる。奥の部屋から男たちの笑い声が聞こえてくる。大丈夫だ。見つかったりしない。僕は缶詰が並んでいる棚にそっと近づいた。
セサミペースト、トウモロコシ、トマト、豆──。アイシャならどれが好きかな。バドゥルはどれかな。そんなことを考え始めた自分に気が付いて、思わず笑みがこぼれた。呑気に考えている場合じゃない。ラベルを見ることをすぐにやめた。中身なんて気にしていられない。手当たり次第にカバンと麻袋に缶詰を入れ始めた。いつしか僕は夢中になっていた。
突然、ガタンと音がした。僕の心臓に、尖った針が突き刺さったような感覚がした。棚の缶詰に手を伸ばした状態のまま凍りついていた。身動きが取れない。絶対に動いちゃいけない。
恐る恐る、目だけを左に動かしてみた。明かりが漏れてくる奥の部屋の方向だ。人影はない。ドアは開いている。
え? ドアは開いていたっけ?
必死に記憶を辿った。窓の外から部屋の中を覗いていた時はどうだった? あのドアは開いていた? 部屋に侵入したとき、あのドアは開いていた? 僕はドアのことをどうしても思い出せなかった。襲いかかる恐怖に怯える心が、僕にとって都合の悪い記憶を消してしまおうとしているかのようだった。ただ、この部屋に差し込む光がもっと少なかったことだけは思い出した。
僕の背筋にゾクッとした悪寒が走った。背中が凍るような感覚がした。そうだ、それは明らかに硬く冷たいものだった。それが何かすぐにわかった。
「小僧、何やってるんだ?」
地面を這うような低い声がした。冷たい拳銃が僕の背中にさらに強く押し付けられた。
「泥棒のつもりか?」
男は嘲笑した。
「お前、ここがどこかわかってるのか?」
膝が震えて、もう立っている感覚すらないことを知った。座っているのか、それとも宙に浮いているのかさえわからなかった。振り向くこともできず、息の仕方もわからなくなってしまっていた。
男は不意に僕の髪の毛をつかみ、乱暴に引きずり倒した。僕は勢いよく床に叩きつけられた。男はそんな僕を思い切り蹴とばした。僕の腹はぐにゃりと曲がり、空っぽの胃袋から酸っぱい胃液が喉元まで上がってきた。
思わずやめろと叫んだが、声は上ずり、ただの情けない嗚咽にしかならなかった。そんな僕の姿を見て、男は薄く笑った。
「覚悟はできてるんだろうな」
男は僕をどうするつもりなんだ? 僕の頭の中はぐるぐると回って混乱した。ただ缶詰を盗みに来ただけなんだ。腹が減ってるだけなんだ。アイシャとバドゥルが待ってるんだ!
僕は男の足元にひれ伏してかすかな声を出した。
「すみません。許してください──」
そう言い終わる前に、僕の眼前にあったはずの男の右足は高く持ち上げられた。男は、床に這いつくばっている僕の後頭部を上から激しく踏みつけた。
男はニヤニヤ笑いながら言った。
「缶詰を盗むのは大罪だ。死をもって償え」
それは傲慢な声だった。その瞬間、僕の心の中で冷たいドアが閉じられた。
突然、僕は体を右回りにくるりとひねった。男に踏みつけられている頭はその回転によって男の足から抜け出した。体をひねりながら、僕の右手は腰のサックからナイフを取り出していた。ナイフは僕の右手の中で向きを反転した。急に足元から僕が抜け出たことでバランスを崩した男を支えているのは、薄汚れた革靴を履いた左足だけだ。僕の体が回転し終わった瞬間には、ナイフは男の左足の甲を床まで貫いていた。
一瞬、男は何が起きたかわからないようだった。しかし、その激痛が彼の脳天を突き破るのに時間はかからなかった。だがそれよりも早く、僕はナイフを力任せに抜き取り、男の眼前に立ち上がった。冷たい目をして亡霊のように立つ少年の姿を男は見たに違いない。
驚きと恐怖が男の表情を奪った。でもそれもすぐに終わる。僕のナイフは男の首の左の頸動脈を、ただ、スッと切り裂いた。それと同時に僕は自分の体を男の右側に寄せていた。それでも、激しく噴き出た血しぶきは僕の顔を汚し、生理的な嫌悪感を覚えた。
僕には何のためらいもなかった。僕の心はいつの間にか冷たく凍っていた。
奥の部屋から声が聞こえてきた。
「おい、どうした? 何やってんだ?」
足音と共に一人の男が部屋に入ってきた。その男はギョッとして目を見開いた。開け放されたドアの下は、どす黒い大量の血で覆われていた。
僕はその男を窓の向こうから見ていた。僕にあっけなく殺された男と、驚きのあまり呆然と立ち尽くす男。こいつらに一瞥をくれた後、足元の地面に放り出していたずっしりと重いカバンと麻袋を手に取った。人を殺すことなんて何とも思わない。だってそれは大切な命を守るための些細な代償だから。
男の命と引き換えに、たくさんの缶詰を手に入れた。重たくて、僕一人の力で運ぶには少し骨が折れる。死んだ男は大きかったけど、あいつの命の重さはこの程度だな、と一人で苦笑した。これで幼い二人の命をしばらく繋いでいくことができる。それ以上に価値があることなんて何がある?
顔にねっとりと付いた返り血を乱暴に袖で拭い、通りとは反対のほうに向かって茂みの中を歩き出した。
翌日、イブラヒムは僕を叱った。
お前が生きて帰ってこられたのはただ運が良かっただけだ。だから、あの店にはもう二度と近付くな。そう彼は言った。僕はいつものようにふてくされながら、だけどアイシャはおいしいって言ったんだ、と捨て台詞のように言い返した。
そうしたら、イブラヒムはそれ以上何も言わず、笑いながら僕の頭に手を置いて、砂で汚れた僕の黒い髪をくしゃくしゃにした。
不機嫌な顔をした僕は、イブラヒムの手を払いのけて走り出した。路地の角を曲がる前に振り返ったら、老人は髭に手を当てながら、相変わらず笑ってこっちを見ていた。彼が着ている古ぼけたカフタンの長い裾が砂風になびいている。風に含まれた熱気に夏の到来を感じる。もうすぐ三月も終わる。砂で覆われたこの土地の短い春が過ぎ去り、長い残酷な夏がやってくる。
* *
その日の夜のことだ。
夕日が地平線に沈み、西の赤い空が暗闇に押し消されそうになっていた。突然、耳をつんざくような轟音が鳴り響いた。僕たちは驚いて小屋の外に出た。その瞬間、低い空を切り裂くように数機の攻撃ヘリが通り過ぎた。僕たちの小屋の隣にそびえるコトカケヤナギの枝葉が、ヘリが巻き起こす風で激しくはためいた。その直後に眩しい光が幾つも輝き、まるで流星が槍になって降り注ぐ、この世のものとは思えない美しい景色が目の前に広がった。
しかし、僕の幻想は瞬く間に断ち切られた。それは無慈悲な機銃掃射だった。人々の叫び声があちこちであがった。街にサイレンが鳴り響き、駆け寄ってきたアイシャとバドゥルの肩を強く抱き寄せた。何が起きたんだ? そうか、空襲だ。
攻撃ヘリが通り過ぎた夜空に、対空砲が何発も撃ち放たれた。その間隙をつくようにヘリは再びやってきた。飛び交うヘリの轟音が空を占領する。その姿はまるで夜に舞い降りた悪魔のようだった。
ここはイラク北西部にある砂漠の街、セルジュークだ。混沌としたこの世界の底辺で僕たちはひっそりと生きている。
小屋の隅に三人でうずくまり、長い夜が早く過ぎ去ってくれるのを願った。大丈夫だから、と二人に声をかけ続けた。
戦争が起きたのだろうか? 僕は何も知らなかった。
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