マリア教の魔法使いと鏡の世界
第一話 嵐の夜の訪問者
轟く雷鳴、激しい雨。星型や円筒状の蝋燭に混じって、マリア様の姿を模した蝋燭が薄暗い部屋の一角を灯す。蝋が溶けた彼女の顔はホラー以外の何者でもない。ほの暗い明かりのもと、月桂樹の花冠を頭にのせ、オレは両手を合わせて祈っていた。
「偉大なる聖女マリアよ、どうかこの憐れな子羊をお守り下さい」
そのとき、一筋の稲妻が窓越しに空を裂き、地上を揺るがす雷鳴が辺りに響き渡った。
「ぎゃああああ!」
いてもたってもいられなくなって、一目散にベッドの中に潜り込んだ。頭まですっぽりと布団を被り、両手で耳を塞いで目を閉じる。そう、オレは雷が大の苦手。苦手というより、怖いのだ。あの突き刺すような轟音はこの世のものとは思えない。そもそも、雷って一体何なんだ? その大いなる自然現象をオレは到底理解出来ない。いや、あえて言うならしたくもないが。
ガラガラピッシャーン!
再び雷鳴。きっとどこか近くに落ちたに違いない。オレは首からぶら下げている数珠を両手でぎゅっと握り締めた。大丈夫、落ち着け。落ち着くのだ。昼間一生懸命作り上げた月桂樹の花冠があるではないか! 稲妻よけの神聖なハーブとして古くから人々に親しまれてきた月桂樹。この花冠を頭に乗せている限り、オレのもとに雷が落ちることはないはずだ。
ビリビリビリビリ! ドンガラガッシャーン!
今のは確実に許容能力を超えていた。オレは悲鳴とともに部屋から飛び出し、リーブル先生の部屋に走った。先生は震えるオレを見て意地悪な笑顔を浮かべながら、きっとこう言うに違いない。「メグは男の子のくせに、女の子よりも弱虫だね」。そして、「君、もしかして本当は女の子なんじゃない?」
胸の辺りまで伸ばした流れるような金髪に、翡翠の瞳。色白で細長い手足。確かにオレの容姿はまるで女の子のようであったが、誰がなんと言おうと正真正銘まごうかたなき男である。しかし、雷だけはどうにも駄目だ。先生に何と言われようと怖いものは怖いのだ。
「先生っ……!」
勢いに任せて先生の部屋の扉を叩き、返事も聞かずに押し入った。驚くべきことに、部屋の中には先客がいた。二番弟子のルリアがベッドの上に寝っころがって、巷で流行りの魔法使いのカードを切っていた。
机に向かっていた先生はオレの方を振り返ると、やれやれと溜め息をついて翻訳途中の古書を閉じた。
「なんだいメグ、こんな時間に。もしかして夜這いかい?」
「違うよ!」
オレが真っ赤な顔で否定すると、先生はわざとおどけるように肩を竦め、ベッドの淵に腰を下ろしてルリアの広げたカードを一枚引いた。
「まったく君たちには手を焼くよ。一番弟子は雷が恐くて逃げてくるし、二番弟子は怖い夢を見て僕のところに駆け込んで来るし。本当にいくつになってもお子様なんだから」
引いたカードに視線を落とし、先生はそれを興味無さそうにベッドの上に放り投げた。描かれていたのは大きな屋敷で、意味するところは『帰郷』である。
ルリアは子供扱いされたことに憤り、薔薇色の頬を蒸気させて先生に反論した。
「夢は見たけど、怖い夢だなんて一言も言ってないでしょ。変な物音がしたから気になって眠れなくなっただけだもん」
「なあんだ。ルリアが怖がってるのは幽霊か」
「怖くないです!」
ルリアは苛立った様子で自らもカードを引いた。彼女のカードに描かれていたのは楕円形の魔法の鏡だった。
リーブル先生は首元のリボンを緩めてベッドに横になると、長い足を組んで横柄な態度で言った。
「まあ、仕方ないから僕の部屋にいさせてあげてもいいけどね」
先生が恩着せがましく『仕方ないから』という部分に妙に力を込めたので、ルリアは眉をぴりりと上げて先生を睨みつけた。彼女は勢いよくベッドから立ち上がると、オレの手を取り癇癪めいた口調で叫ぶ。
「行こう、メグ! こんな所にいることないよ。あたしの部屋で朝まで二人でチェスして遊ぼう!」
ズドーン!!! ビリビリビリビリドンガラガッシャーン!!!
ルリアの声を掻き消すように、今までにないほどの大音量で雷鳴が轟いだ。
オレは「ぎゃあ」と悲鳴を上げてルリアの背中に抱きついた。二番弟子の方は驚きから声も出せず、ドアノブに手をかけたままその場にへたり込んでしまった。
リーブル先生はさも意地悪な表情で、ベッドの上からオレたち二人を見下ろした。
「別に無理して僕の部屋にいなくたっていいんだよ。なにもわざわざ好き好んで『こんな所』にいることもないからねえ」
先生はルリアにあてつけるように、『こんな所』という部分に妙に力を込めて言った。
結局、オレたちは先生の部屋で一夜を共にすることになった。ありがたいことに、リーブル先生の部屋のベッドは三人でも余裕で横になれるくらいの大きさなのだ。ベッドの真ん中を陣取っていたルリアは、細い指先でシーツをなぞって先生との間に境界線を作った。
「半径十センチ以内に近寄らないでね」
「それはこっちのセリフだよ。寝相の悪いルリアに蹴飛ばされるのだけはごめんだからな」
オレは兎にも角にも雷の恐怖からいち早く解放されたかったので、耳を塞いで眠りにつこうと壁の方を向いた。
やがて、ようやく眠りにつきかけた頃、突然ルリアが小さな悲鳴を上げた。
「先生、聞こえた? 今何か物音がした!」
リーブル先生はすでに眠っていたようで、面倒くさそうな声で返答した。
「風の音かなんかだろ」
オレも眠気で意識が朦朧としており、いつの間にやらそのまま再び眠ってしまった。しかし、しばらくすると再度ルリアの悲鳴が聞こえ、落ちかけた意識は夢と現実の狭間を行ったり来たりすることとなった。
「先生、また音がした! 誰かが窓を叩いてるみたいな音!」
ルリアは半べそをかきながら眠っていた先生を揺さぶり起こした。オレは眠気眼をうっすら開けて二人の様子を伺った。先生は不機嫌そうな表情で仕方なくベッドから起き上がり、窓の外を覗き見た。
「誰もいないよ。気のせいじゃない? こんな嵐の夜に一体誰が来るって言うんだい」
「だって、確かに聞こえたんだもん」
ルリアは涙混じりに呟いた。
先生はオレンジ色の髪の毛をくしゃくしゃとかき回してから大きな欠伸をひとつした。そして、ルリアの頭に手を伸ばすと、ぽんぽんと優しく撫でた。
「わかったよ。君が眠るまで、僕が起きててあげるから」
本棚から魔法書を一冊取り出すと、先生は布団の中でうつぶせになって眠たそうにそれを読み始めた。なんだかんだ言ったって、結局リーブル先生は優しいのだ。
雷鳴はいつの間にか遠ざかり、遠くの方でゴロゴロと低い音を立てて鳴っている。オレが再びまどろみ始めた頃、ルリアがおもむろに口を開いた。
「ねえ、先生」
「んー……?」
ルリアは少し躊躇ってから、小さな声で言葉を続けた。
「どうしてあたしのこと、引き取ったの?」
突然の問いかけに、リーブル先生は息を飲むかのようにしてしばらく黙っていた。だが、やがて普段どおりの口調で言葉を返す。
「前に言わなかったっけ? ルリアを育てたマザー・エレオノーラがハリエットの親友だったって」
「あたしが知りたいのは、ハリエットおばあちゃんじゃなくて、どうして『先生』があたしのことを引き取ったのかってこと」
「そりゃあ、女の子の弟子が、欲しかった……から」
先生の返す言葉はどことなく歯切れが悪かった。
「それだけ?」
「え?」
「本当にそれだけの理由なの?」
雨音に紛れたルリアの声は、いつになく真剣だった。
「どうして突然そんなことを聞くんだい?」
逆に先生から質問され、ルリアはそのまま口をつぐんでしまった。雨足は先程までに比べれば幾分か弱まってはいたものの、それでも依然として激しく窓を打ち続けている。少し経ってから、ルリアは再び口を開いた。
「夢を見たの。ずっと昔の、あたしがこの家に来たばかりの頃の夢」
先生は黙ってそれを聞いていた。
「覚えてる? あたしがこの家を飛び出して星降る森の入り口で泣いてたとき、先生が言った言葉」
「あたりまえさ。昨日のことのように覚えてるよ」
オレは記憶の糸を手繰り寄せて、ルリアが初めてこの家に来たときのことを思い出した。五年前、突然訪れたマザーの死によって、唯一の愛を失ったルリアは独りぼっちだった。ほかの誰からも心を閉ざし、孤独という名の棺の中で死んだように眠っていた。リーブル先生はそんなルリアに手を差し伸べて、なんて言葉をかけたんだっけ?
そうだ。確か、あのとき先生は、『
「先生があの言葉を言ってくれたとき、ああ、ここがあたしの家なんだって思ったの」
「君の家はここだよ。永遠にね」
本が閉じられる音がして、それから、少し驚いているような先生の声がした。
「どうしたんだい、今日は。本当に怖い夢を見たのかい?」
薄目を開けて様子を見ると、ルリアは頬を濡らして泣いていた。昔の夢のせいで心細くなってしまったのだろうか。いや、もしかすると、彼女は心のどこかで未だに不安なのかもしれない。
「大丈夫。僕がずっとそばにいるよ」
リーブル先生が大きな手でルリアの頭を優しく撫でた。
そのとき、突然階下から窓硝子の割れる音がした。オレは今まさに目が覚めた風を装ってベッドから体を起こす。「何だろう? 今の音」
ルリアは怯えた様子で先生にしがみついていた。
「ほら、やっぱり誰かいるんだよ! もしかして、泥棒?」
先生は靴紐を結んでベッドから立ち上がると、不機嫌な表情で細長い蝋燭を手に取った。
「どこの誰だか知らないけど、エデンの大学を主席で卒表した大魔法使いの家に入ってくるとはいい度胸だ」
「オレも行く!」
先生をひとりで危険な目に合わせるわけにはいかないので、すぐさま後を追いかけた。
「やだ、ひとりにしないで!」
ルリアも慌ててついてきたので、結局オレたちは三人で寄り添いながら真っ暗な階段を下りて行った。階下の食堂で確かに何やら物音がする。食器の触れ合う音とともに、低く呻くような声が聞こえた。先生は後に続くオレたちに静かにするよう人差し指を口元に近づけてから、蝋燭の明かりで音のする方を照らし出した。
「そこにいるのは誰だ!」
先生が叫んだとたんに、黒い影が前方を横切った。オレとルリアは恐怖のあまり悲鳴を上げて互いに抱き合う。
リーブル先生は相変わらず落ち着いた物腰のまま、テーブルの下に向かって蝋燭を傾けた。そんな彼の背後から恐々と照らされた明かりの先を覗き見ると、テーブルの脚に隠れるようにして、小さな銀色のフクロウが丸くなっていた。嵐の中を飛んできたのか全身びっしょりと濡れている。
「君が不審な物音の犯人か」
先生はそう言いながら、割れた窓硝子に無念の表情を傾けた。
「かわいい! どこから飛んできたんだろう」
ルリアが手を差し出してフクロウに触れようとすると、相手はそれを許さず、威厳のある仕草でテーブルの上に羽ばたいた。足には小さな紙が結びつけられている。どうやら手紙のようだった。
雨で濡れた結び目を解き、手紙の内容に目を通した先生は、あからさまにげんなりとした様子で項垂れた。
「何? 誰からの手紙なの?」
ルリアが背伸びをして先生の手から手紙を受け取った。それを横から覗き込んだオレは、驚きと嬉しさのあまり、つい興奮して叫んでしまった。
「じいちゃんからだ!」
手紙はレーンホルム伯爵、つまり、オレとリーブル先生のじいちゃんから送られてきたものだった。
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