第十一話 聖なる光
魔法陣の光が弾け飛ぶと、夜の闇よりも暗い影が渦巻くように現れて、ゴドウィンさんの前に立ちはだかった。悪魔を見たのは、生まれて初めてだった。実際、悪魔を見たことがあるという人は稀にいたけれど、彼らの話を聞いていても自分が見るまでは半信半疑だった。
ルリアがオレの手をぎゅっと握った。その手は微かに震えていた。
『望みは何だ?』
突然、頭の中に低い声が鳴り響いて、オレは背筋がぞっとした。
「あいつらを殺してくれ!」
ゴドウィンさんが持っていた箒を投げ飛ばして叫んだ。
「あいつらは、俺の子供たちを奪ったんだ! 殺してくれ!」
少しの間を置いてから、再び声がした。
『何を捧げる?』
「俺の命をくれてやる! だから、だからあいつらを……!」
『よかろう』
次の瞬間、ゴドウィンさんは突然肩の力が抜けたように、ばったりと地面に倒れ込んだ。そして、そのまま動かなかった。悪魔と思われる影は、静かにオレたちの方に振り向いた。
「ど、どうしよう、メグ」
震えた声でルリアが言った。オレは心の中で、落ち着かなければ、と自分自身に言い聞かせた。しかし、どうすればいいのか皆目検討もつかなかった。
「来るぞ!」
ラルフ君が叫んだのと同時に、辺りに冷たい風がすっと流れた。黒い影は一番近くにいた信者に近寄ると、まるで心臓を掴むみたいにその手を伸ばした。手は音もなく肉体をすり抜けて、向こう側へと突き出した。次の瞬間、信者はゴドウィンさん同様にばったりと地面に倒れ込んでしまった。
ルリアが小さな悲鳴をもらした。カウリー聖父をはじめ、セルジオーネやほかの信者たちは恐れおののいて、その場に凍りついたように立ち尽くしていた。
「リーブル先生……」
ルリアがしゃくりあげながら先生の名前を呼んだ。
「泣くな、ガキ!」
ラルフ君が自分の腕をルリアの顔に押し付けて、グイっと涙を拭った。そして、彼はオレの方に振り向いて尋ねた。
「メグ、悪魔から身を守る魔法はないのか?」
気の焦りからオレの頭はますます混乱するばかりだった。だが、倒れているゴドウィンさんに目を走らせて、彼のそばに描かれた魔法陣を見たとたんに、オレはリーブル先生の言葉を思い出した。
『ここに入っていれば、闇の世界に生きるすべての邪悪なものから、その身を守ってくれるはずだよ』
オレは急いでゴドウィンさんが放り投げた箒を拾うと、先生から教わった呪文を唱えながら地面に結界の魔法陣を描き始めた。円形に五角形の星が描かれた魔法陣は、一瞬だけ眩い光りを放った。
「二人とも、この中に入るんだ!」
ルリアは真っ赤になった目をきょとんとさせていたが、すぐに何の魔法陣かに気がついて、ラルフ君の腕を引っ張ってこちらに向かって走って来た。
「この魔法陣は何なんだ?」
描かれた線を踏まないように大股で跨ぎながら、ラルフ君が問う。
「悪魔から身を守る結界だよ」
セルジオーネはオレの真似をして地面に結界を描き出すと、慌ててその中に飛び込んだ。聖父とほかの信者たちも押し合いへし合いしながら、彼の描いた魔法陣の中へ入ろうとしていた。
黒い影はゆらゆらとまるで炎のように縮んだり広がったりしながら、ゆっくりとオレたちの魔法陣に近づいてきた。オレとルリアとラルフ君は、小さな魔法陣の中で互いに寄り添い合うようにして息を潜めた。その身も凍るような恐怖によって、口からは浅い呼吸とともに短い声が何度も漏れた。
黒い影は一定の距離を保って立ち止まると、激しい閃光とともに燃え盛る炎のごとく大きくオレたちの前に広がった。
「きゃあああ!」
ルリアの悲鳴が響き渡り、オレは光の眩しさから一瞬目を閉じた。
次に目を開いたとき、辺りの炎は消え去り、森は薄暗いただの森に戻っていた。不思議なことに、悪魔の姿はおろか、ルリアもラルフ君も、カウリー聖父やセルジオーネ、そして彼の仲間たちも誰もそこにはいなかった。
「ルリア?」
足元の魔法陣は消えていて、倒れているはずのゴドウィンさんの姿もない。
「ルリア! ラルフ君! 二人とも、どこに行っちゃったの?」
そのとき、背後からルリアの叫び声が聞こえたので、オレはすぐに声のした方に向かって走って行った。息を切らせて駆けつけると、ルリアは星降る森の底なし沼に嵌っていた。
「ルリア!」
「助けてメグ! あたし、このままじゃ沼にのみこまれちゃう!」
ルリアは目にいっぱい涙を溜めながら哀願した。
「早く、メグ! その手であたしを捕まえて!」
このあいだ死にかけたばかりだというのに、なんだって再び沼に近づいたりしたのだろう。戸惑いながらも沼の淵から身を乗り出すと、彼女は急かすように声を荒げた。
「お願い、急いで! 早くその手を差し出して! あたし、まだ死にたくない!」
その言葉にふいに違和感を感じ、オレは彼女に伸ばしかけた手を即座に引っ込めた。
「メグ?」
ルリアは悲しそうな顔をして首を傾げた。オレはその顔を見ると、ほんの一瞬躊躇したが、ゆっくりと沼から一歩後ず去った。
「どうしたの、メグ? 何してるの? あたしが死んでも構わないの?」
オレは恐る恐る、しかし確信に満ちた思いで彼女に向かって言った。
「違う。君は……君はルリアじゃない……」
「何言ってるの? メグはあたしを見捨てる気?」
彼女の体は速度を増して沼に引きずり込まれていく。
まるで壊れた人形みたいに、「死にたくない」「見捨てないで」と叫びながら、ルリアはオレに向かって罵詈雑言を浴びせかける。「どうして助けてくれないの? メグの人殺し!」
オレは彼女の叫び声から逃れるように、両手で自分の耳を塞いでその場にしゃがみ込んだ。
「ルリアは絶対にそんなことを言ったりしない!」
次の瞬間、気がつくとオレは再び結界の中にいた。
「大丈夫か?」
少し離れたところからラルフ君が心配そうに尋ねてきた。
慌てて辺りを見回すと、洞窟のそばにはゴドウィンさんと信者のひとりが倒れており、カウリー聖父やセルジオーネとともに、残された信者たちも、皆揃ってこちらを見つめていた。炎は相変わらず激しい様子で燃え続けている。
「ルリアは?」
オレの声に合わせるかのようにして、ルリアはラルフ君の後ろからひょっこりと顔を覗かせた。その姿を見て、オレは安堵の溜息をついた。
「よかった。無事だったんだね。ルリアの姿をした悪魔が、オレのことを捕らえようと幻を見せたんだ」
すると、ラルフ君は穏やかな笑みを湛えた。
「悪魔はどこかに消えたみたいだ。さあメグ、今のうちに森を抜けよう」
そうか、悪魔は消えたのか。――でも、どうして?
そのとき、急に気がついた。辺りの炎は相変わらず勢いよく燃え続けているというのに、先程までのような熱さはこれっぽっちも感じない。
「メグ、行くぞ。また悪魔が現れるかもしれない。早くここから離れるんだ」
ラルフ君とルリアが揃ってオレに呼びかけた。彼らは決してこちらに近づいては来ない。オレは足元の結界を見下ろして、再び彼らに顔を向けた。
「まさか、これも幻なの?」
そう呟いた瞬間に、ラルフ君の顔が実に恐ろしい形相に変化して、彼の中から渦巻くような暗闇が姿を現した。
「メグ!」
はっとして顔を上げると、ラルフ君がオレの両肩を激しく揺さぶりながら、「しっかりしろ!」と叫んでいるところだった。炎の熱がじりじりと痛いほどに肌へと伝わってくる。オレたちは三人とも結界の中にいた。
ルリアが泣きながらオレの首筋に抱きついた。
「まるで悪魔に操られているみたいに、メグは何度も結界から出ようとしたんだよ!」
頬にルリアの生ぬるい涙が触れ、これが幻ではないことを改めて認識することが出来た。どうやら、オレは悪魔の誘惑に勝ったらしい。
黒い影はオレたちの魔法陣から遠ざかり、セルジオーネの描いた魔法陣の周りをうろうろし始めていた。魔法陣の中では醜い小競り合いが始まった。
「我々はマリア様のご意向に従ったのだ! こんなことになったのは貴方が例の魔法使いの言うことを聞いたりしたから……」
カウリー聖父がセルジオーネにいきり立った。すると、青い顔をした信者たちも次々と彼を攻め立てた。
「そうだ! あんたのせいだ! あんな得体の知れない者に従ったからだ! 洞窟に火をつけたらすぐに森から抜け出せばよかったんだ! あんたが禁書の在り処を探ろうとしたばっかりにこんな恐ろしい目に!」
セルジオーネは怒りで顔を真っ赤にさせて、魔法の杖を振り上げた。
「貴様ら、私に責任をなすりつける気か? この魔法陣は私が創り上げたのだ! 文句があるなら今すぐにここから出て行くがいい!」
そう言って、セルジオーネは近くにいた信者の体を結界の外に蹴り飛ばした。信者は慌てて結界に戻ろうとしたが、セルジオーネが杖の先で彼の顔を叩きつけてそれを阻止した。
「助けてくれ! 助けてくれ!」
恐怖ですくんだ体を引きずって、地べたを這いずりながら信者は再び魔法陣の中に入ろうと手を伸ばした。セルジオーネはその手を踵で強く踏みつけた。カウリー聖父やほかの信者たちは加担するでもなく、ただ魔法陣から追い出されないように無言のままその光景を眺めていた。
「この期に及んで、なんて見苦しい奴らなんだ」
ラルフ君が苦々しく吐き捨てた。
「このままじゃ、あの人悪魔に殺されちゃうよ!」
ルリアの視線の先には、獲物を捕らえようと機会を窺う黒い影があった。
「あいつらは魔法教徒を殺した。だから、これはきっと天罰なんだ」
ラルフ君は突き放すようにそう言うと、恐怖に打ち震えた信者の悲鳴に悲痛な面持ちで魔法陣から目をそらした。
信者は四つん這いで滑稽なほどにもたつきながら、必至でオレたちの魔法陣に近づいて来た。
「お願いだ、助けてくれ……!」
すると、それまで様子を窺っていた夜の闇より暗い影が、地面を這い蹲る信者めがけて風のように近づいて来た。
「逃げてえ!」
ルリアが信者に向かってありったけの声を出して叫んだとき、オレはドレスの裾を翻し、魔法陣の中から飛び出していた。
「メグ!」
「あの、馬鹿!」
ルリアとラルフ君の声がかすかに耳に届いた。
そうだ。オレは馬鹿かもしれない。この人たちは魔法教徒を皆殺しにするために火をつけた。ジンとフィズのような何の罪もない子供たちまで巻き添えにして。そんな人間を救って何になる?
これはランズ・エンドの悲劇そのものなのだ。歴史と共に繰り返される悲劇。誰かが止めない限り、争いは続いていく。では、果たして誰がそれを止める? 誰にそれを止めることが出来るだろう――。
「あ……、た、助けて……」
信者は腰が抜けたように地面の上で震えていた。
「早く! 起きて、立ち上がるんだ!」
両手で引っ張り起こすと、彼は足をとられながらもどうにか立ち上がった。その体を押して魔法陣に向かって走り始めたとき、背後から闇が纏わりついて来て、オレは後ろを振り向いた。同時に、氷のような鋭く冷たい感触に胸の辺りを貫かれた。
「メグーっっ!!!」
ルリアの叫び声が、まるで不協和音のように辺りに響き渡った。
―――子供の泣き声がする。幼いオレが、泣きながら階段を下りている。マホガニーの手摺りがついた立派な階段だ。踊り場には金色の淵に装飾の施された大きな鏡が置かれている。ああ、レーンホルムの屋敷だ。
「もう泣くのはおよし」
暖炉の前の揺り椅子に腰をかけていたばあちゃんが、優しい声で言った。オレは体全体で泣きじゃくりながら、ばあちゃんに必至で何かを訴えている。
幼いリーブル先生が、読んでいた本から顔を上げた。先生はオレに寄り添うと、その小さな手をもっと小さなオレの手に重ねて、両手でぎゅっと握り締めた。
「僕が君を守るから」
先生の言葉を受けて、オレは一生懸命に泣くのをやめようと努力した。しかし、激しい嗚咽によって体がおかしいほどに揺れ動く。
「オレ、恐い……んだ……」
過呼吸になるのではと思うほどに大きく息を吸い込みながら、幼いオレは声にならない声を発した。
「……みたいに、……たく……ない」
語尾がしゃっくりと一緒になって上がったり、下がったりして、何を言っているのかよく聞き取れない。
「おいで」
ばあちゃんが揺り椅子にオレを呼び寄せて、自分の膝の上に抱き上げた。彼女はオレの頭を優しく撫でると、まるで昔話でも聞かせるようにこう言った。
「おまえのご先祖様は三人の弟子と共に、世界中を旅して回っていたんだよ。おまえはマリア様の血を引く暁の魔法使いなのだから、自分に自信と誇りを持ちなさい」
次の瞬間、ドレスの胸元から『星の欠片』を繋いだ数珠が光と共に躍り出た。目も眩むような閃光が辺りを貫き、木々が覆い茂る森の一角は大いなる輝きで満ち溢れた。胸を捕らえていた悪魔の手は、光を浴びると音もたてずに煙のように消え去った。光のあまりの神々しさに、オレは一瞬目を瞑った。
次に目を開けたとき、悪魔からオレを守るようにして何者かが立っていた。
「あなたは……」
そのとき、数珠から発する光が一段と強まって、オレは再び目を閉じた。
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