マリア教の魔法使いと聖地巡礼
第一話 闇から呼ぶ声
「助けて」
闇の中に響く声。
「助けて。誰かここへ来て」
立ち止まり、声のした方へと振り返る。そこには真の暗闇が広がっているだけで何も見えることはない。不思議に思いながらも、オレは再び歩みを進めた。
ふいに目を覚ましてベッドから体を起こした。まだ深夜のようだった。風に舞うカーテンの隙間から、揺らめくように青白い月の光が差し込んでいる。なんだか妙な夢を見たような気がした。
喉の渇きを感じて水を飲もうと階下へ降りて行くと、食堂にリーブル先生の姿があった。窓辺に立つ彼の左腕には、一羽の赤茶けたフクロウがとまっている。
足元に小さな羊皮紙を巻き付けたフクロウは、先生の腕から羽ばたくと、開いていた窓の隙間からあっという間に夜空へ飛び立った。しばらくのあいだ、思わし気な表情でフクロウの行方を見守っていた先生は、やがてオレのいる方へと振り向いて、ぎくりとしたように後ず去った。
「驚いた。メグ、いつからそこにいたんだい?」
「たった今だよ」
オレはグラスに水を注ぎながら尋ねる。
「誰に手紙を出してたの?」
すると、先生は曖昧にはぐらかすような口ぶりで、「古い知り合いさ」とだけ言い、すぐに話題を変えた。「こんな時間に起きてくるなんてめずらしいね。恐い夢でも見たのかな? 一緒に寝てあげたいところだけど、あいにく僕の隣は予約制でね」
「自分の部屋で寝ますからご心配なく」
オレはしかめっ面で舌を出すと、水の入ったグラスを持って自分の部屋へと戻って行った。
星明りも月の光も見当たらない。風の音や、鳥の鳴き声も聞こえない。もしも、世界に終わりがあるとしたら、きっとこういう所だろう。無音の暗闇の中、オレはただひたすら歩き続けていた。
「助けて」
また、誰かの声がした。さっき見たおかしな夢の中で聞こえた声と同じだ。
「助けて。お願い、誰かここへ来て」
振り返ると、闇の中で小さな子供が泣いていた。姿勢よくつっ立ったまま、その子は顔を両手にうずめて震えている。
「君は誰? どうして泣いているの?」
「……ここから出られないんだ」
紡ぎ出された小さな声。その声に合わせて、あっという間に眩い光がオレたちの周りを取り囲み、大きな円といにしえの言葉が浮かび上がった。それは、まぎれもなく魔法陣だった。
オレはたちまち恐怖にかられ、喉の奥から搾り出すように悲鳴を上げた。
「わああああ!」
気がつくと、そこは暗闇でも何でもない、朝を迎えたいつものオレの部屋だった。カーテンの隙間から溢れる柔らかな陽光が、凍りついた恐怖心をわずかながらに和らげる。
「夢か……」
すでにベッドから上半身起き上がっていたオレは、右手で額に滲んだ汗を拭い、安堵の溜息をついた。それから、床に一歩足を踏み出して、そこでようやくルリアが部屋にいることに気がついた。
深い瑠璃色の瞳を大きく見開き、口をあんぐりと開けた状態でルリアは床の上に座っていた。座っているというよりは、驚いて後方に尻餅をついたといったところだろうか。ほとんど涙目になりながら、彼女は抗議の声を上げる。
「びっくりした! メグのこと起こしに来たら、急に大きな声を出すんだもん!」
「ごめんね」
オレは彼女を立ち上がらせるべく、慌てて片手を差し出した。
温めたミルクに小麦胚芽を少しずつ加えながら、ぼんやりと鍋の中をかき回していると、隣でナツメグを下ろしていたルリアに声をかけられた。
「メグ?」
気がつくと、魔法にかけられた干し葡萄がぐるぐると頭上を旋回していた。どうやら無意識のままに浮遊術を操っていたらしい。
「さっきからなんだかぼうっとしてるけど、大丈夫?」
「うん。大丈夫……」
シナモンを振りかけようと瓶を握ったのだが、するりと手から抜け落ちて鍋の底へ沈んでしまった。ルリアはそんなオレの様子を唖然とした表情で見つめている。
「一体どうしたの? 何かあった?」
「……何もないよ」
テーブル席についたルリアは出来上がったばかりのミルク粥を口にして顔をしかめた。彼女と向かい合わせで席に着いたオレも、一口食べた途端に咽込んだ。スパイスが効きすぎた粥はひどく苦い薬のような味がした。
「メグが寝坊するなんてめずらしいね」
ルリアの言葉に、オレはスプーンで掬った粥を無理矢理喉の奥に流し込みながら言葉を返す。
「変な夢を見たせいかも」
「夢?」
ルリアは粥のまずさに身震いしつつオレに尋ねた。
「どんな夢だったの?」
「暗闇の中で、誰かが泣いてた」
『誰か』と言い切ってしまったが、本当はあれが誰だったのかわかってる。たぶん、あれは幼い頃のオレだ。
夢の中の幼い自分が泣きながら助けを求めていたことも、魔法陣に閉じ込められ恐怖に悲鳴を上げたことも、オレはこの場でルリアに話す気はなかった。
実の母親によって魔法陣へ閉じ込められそうになり、自らその悲しい記憶を閉ざしたオレが、再びすべての出来事を思い出したのはつい最近のことだった。今ルリアや先生に夢の話をすれば、過去のトラウマに囚われているのではないかと、余計な心配をさせるだけに違いない。
だが、幸いにもルリアはそれ以上話を掘り下げようとはしなかった。それよりも、彼女は何か思いつめたようにスープ皿に視線を落とし、スプーンを持つ手を止めていた。
「どうかした?」
「ううん、別に。なんでもない」
なんでもないとは言いながらも、沈鬱とした表情は払えないようだった。何か悩み事でもあるのだろうか? いや、まてよ。もしかすると、単にこのミルク粥が相当まずいせいかもしれない。
「無理に食べなくていいよ。代わりに果物でも切ってくるから」
そう言ってオレが立ち上がったとき、目を覚ましたリーブル先生が寝癖のついたぼさぼさ頭で階段を下りて来た。
先生が食堂に姿を現すなり、ルリアはそそくさと立ち上がる。「あたし、裏庭の花にお水あげてくるね」
起き立てでぼんやりとした表情のまま、先生は「待ちなさい」と、庭へ向かおうとしていたルリアを呼び止めた。
「ルリア、君、なんだかここのところ僕の事を避けてない?」
先生の問いかけに、ルリアの表情はあっという間に落ち着きのない物へと変化した。
「別にそんなことないけど?」
「いいや、絶対に避けてる」
食堂の椅子を引いた先生は、そこへ足を組んで腰をかけ、テーブルに片方の手で頬杖をつきながら言う。「三日くらい前からずっと気になってたんだ」
オレもなんとなく気がついていたのだが、確かに先生の言うとおり、ここのところルリアは極力先生と接点を持たないようにしていたような気がする。
探るようなオレたちの視線から逃れようと、ルリアは顔をそらして叫んだ。
「別に避けてなんかないってば! ちょっと先生、自意識過剰なんじゃない?」
「なんだって?」
あっという間に先生の声色が変わったので、不機嫌さを察したルリアは慌てて裏庭へと駆けて行ってしまった。
オレはスープ皿を片付けながら、師匠の姿を横目で軽く睨む。
「先生、ルリアに何かしたの?」
すると、彼は心外だとでも言うように肩を竦めた。
「人聞きの悪いこと言わないでくれないか? 何かしたどころか、何もしてないっていうのに。何もしてなくてもこれなら、何かした方がよっぽど得だ。今からでも遅くないな」
「先生!」
オレが怒ったように声を上げると、彼は「冗談だよ」と星十字を切ってから、ルリアの食べかけのミルク粥をスプーンでひと掬いした。そして、口に入れた途端に大袈裟なほどむせ込んでオレを見た。
「なんだい、これ。一体何の薬を煎じたの? 頭痛薬? 胃薬? まさか惚れ薬じゃないだろうね?」
「ただのミルク粥です!」
そのとき、食堂の小窓を叩く音がした。嘴に手紙をくわえた銀色のフクロウが、七色に輝く朝陽の中に佇んでいる。じいちゃんのフクロウだ。オレは窓を開けフクロウの足に結び付けられていた羊皮紙を開いた。
「聖地でじいちゃんとばあちゃんが宿泊している宿の名前が書いてあるよ。『カルマの宿』だって。二人とももう着いてるんだ。ルリアの洗礼式の後で誕生日のパーティーを開こうだって!」
「誕生日のパーティー? ただの酔っ払いのドンチャン騒ぎだろ?」
先生はテーブルに置いてあった缶からビスケットを取り出すと、掌で細かく砕いてフクロウに与えた。
「とうとう明日から聖地巡礼の旅か。そういえば君たち荷造りはもう済んでるの?」
「もちろん!」
「ルリアの洗礼のことも含めて、聖地では色々と忙しくなりそうだ。何より、君たちは『魔法使いの試練』を受けるんだっけ」
ビスケットを平らげたフクロウは満足そうにひと鳴きすると、あっという間に大空へと羽ばたいた。それを見送った先生は、「さてと」と鼻歌交じりにテーブル席から立ち上がる。
「裏庭で可愛い弟子と戯れてくるかな」
「あんまり意地悪なことすると嫌われるよ!」
ルリアのために一応師匠を嗜めつつも、頭の中は明日からの旅のことでいっぱいだった。オレは自然にうつってしまった先生の鼻歌を口ずさみながら、弾む手つきでテーブルの上に残っていた出来損ないの朝食を片付けた。
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