第九話 異端者と狂信者

「おまえ意外にモテるんだな」

 それまでまったく気づかなかったが、門扉手前の石段に腰をかけ、ラルフ君が煙草を吹かしていた。どうやら今しがたの一部始終を見られていたらしい。

「あいつにはきっといい薬になるから気にするな」

 靴の裏で煙草の火を踏み消しながら、ラルフ君が言った。オレには到底そんな風に思えやしない。確実にマーラさんの胸をナイフでひとつきしてしまったに違いないのだ。

「少し、散歩でもするか?」

 そう言うと、ラルフ君はオレの返事も聞かないうちからすたすた路上を歩き始めた。不器用だが彼なりに気を使ってくれているのだろう。オレは重たい足を引きずるようにしてよろよろと後に続いた。

 二人でこうして肩を並べて道を歩くのも随分と久しぶりだった。レーンホルムで暮らしていた頃は、よく一緒に遊んだものだ。先生とラルフ君は喧嘩ばかりしていたけれど、あの頃は本当に楽しかった。喜びに溢れた輝かしいばかりの幼い日々……。

 歩きながらふと気がついた。もしかしたらラルフ君は、ばあちゃんやリーブル先生が共有している『悲しい思い出』について何か知っているのではないだろうか、と。

 オレは背負っていた鞄の中にじいちゃんの日記帳があったことを思い出し、歩みを止めて鞄の中をがさごそと探し始めた。

「なにしてんだ? メグ」

「このあいだレーンホルムに帰ったときに、じいちゃんが日記帳を託してくれたんだ。オレが過去にあった出来事に関して知りたいのなら、知るべきだって」

「じじいが?」

 ラルフ君は驚いたように目を見開いて、鞄の中から取り出したじいちゃんの日記帳を見つめた。

「オレだけが知らない『悲しい思い出』についてだよ。ラルフ君は昔何があったのか知っているんでしょう?」

 彼は明らかに動揺した様子で、新たにくわえていた煙草を口から落としそうになった。だが、ぎゅっと奥歯を噛み締めて俯くと、聞き取れないくらいの小さな声で何かを呟き、そのまま無言で再び歩き始めた。


『無理に思い出そうとするな』


 確かに、そう聞こえたような気がした。思い出そうとするなとは、一体どういうことなのだろう? それではまるで、オレが『悲しい出来事』を知っているのに、忘れているみたいな言い方じゃないか――?


 ラルフ君を追いかけて歩みを進めると、なんだか見覚えのある界隈に辿り着いた。こじんまりとした可愛らしい庭。黄色い煉瓦の屋根に大きな煙突。どうやらいつの間にか十一番街から五番街へと入っていたようで、前方に佇んでいるのは『魔女の家』に間違いなかった。

 オレは唐突にあることを思い立ち、ラルフ君の手を取って駆け出した。

「おい、メグ? 一体どこに連れて行く気だ?」

「ちょっと付き合ってラルフ君。オレの先祖が誰なのか、真実を知っている人物がいるんだ!」

 その言葉に、ラルフ君は呆れたような顔を向けた。「メグ……」

「ラルフ君が言ってくれたとおり、肝心なのは誰の子孫かじゃなくて、今のオレなんだってわかってるよ。でも、ばあちゃんがオレに嘘を言うはずがないってことを証明したいんだ!」

 店に入って大きな声で奥の方に呼びかけた。だが、返ってきたのは空しい静寂のみで魔女からの返事はない。留守だろうか。

 ラルフ君は店内を興味深げに眺め回し、近くに置いてあった筒状の花に触れようと手を伸ばした。

「あ、ラルフ君、その植物は……」

 オレが言うよりも早く、花の先端が素早くラルフ君の手先を飲み込んだ。

「動くものに敏感なんだ」

「そういうことは早く言え!」

 オレは持っていた日記帳を放り出し、両手で力いっぱいラルフ君の腕を引っ張った。しかし、花はぱっくりと彼の手首に喰いついていて離そうとしない。そのとき、ふいに背後から声がした。

「あと三十分もすれば、おまえさんの手は骨まで溶けてしまうだろうよ」

 驚いて振り向くと、オレたちにぴったりと寄り添うようにして、箒に跨った魔女がすぐ後ろから覗きこんでいた。オレとラルフ君は驚きのあまりその場で仰け反った。一体いつからそこにいたのかと攻めるように問うと、「あんたたちがここに入ってきたときからさ」と魔女は悪戯気に微笑んだ。

『あと三十分』と宣告されたラルフ君は、半ば悲鳴にも近い声を上げながら、植物に飲み込まれた手を植木鉢ごと振り回し始めた。だが、魔女が片目でウィンクすると、彼の手首に喰いついていた植物は瞬く間に勢いをなくし、まるで眠ってしまったかのようにふにゃふにゃと元の位置に戻って行った。

「随分変わった花ばかりあるんだな」

 ラルフ君は真っ赤になった右手をさすりながら、恐る恐る部屋中の植物から離れた。

「うちの亭主は見たことのない花を集めるのが趣味なんだ。死にたくなかったら、これ以上勝手に花に触るんじゃないよ」

 そう言って、魔女はやおら箒から舞い下りると、床に落ちていた俺の日記帳を拾い上げ、ぱらぱらとページを捲った。

「それで、今日は一体何の用だい? 恋人に贈る花でも買いに来てくれたのかい?」

「オレ……その、教えてほしくて……」

 魔女は日記帳に視線を落としたまま問い返す。「教える? 一体何をだね?」

「このあいだここを訪れたときに、あなたはオレの先祖が偉大な聖人だって言いましたよね?」

「ああ、確かに言ったね」

「偉大な聖人って、誰なんですか?」

「それを知ってどうするんだい?」

「別にどうもしません。ただ、知りたいんです。ばあちゃんがオレにデタラメを言ったりしないってことを証明したいだけなんです」

 魔女は三角の目でオレの顔を正面からじっと見据え、再び日記帳に視線を落とした。

「可愛そうに。あんたは何も憶えていないんだね」

「え?」

 彼女はぶつぶつと呪文を唱えると、じいちゃんの日記帳に魔法をかけ始めた。黄ばんだ帳面から眩い光の帯が放たれる。

「自分の目で確かめるんだ。すべてのことをね」

 魔女の言葉が頭の中に響き渡り、オレは光の眩しさに目を瞑った。



 再び目を開けたとき、そこは明らかに『魔女の家』ではなかった。魔女とラルフ君の姿はなく、ローブに身を包んだ魔法使いの老婆が三人、天蓋付の大きなベッドを取り囲むようにして立っていた。

 ベッドに横たわる少女が苦痛に満ちた声を上げると、同時に赤ん坊の泣き声が部屋中に響き渡った。子供が生まれたのだ。そのとき、勢いよく開かれた背後の扉からばあちゃんが部屋に入ってきた。

「ばあちゃん!」

 なんとも信じがたいことに、ばあちゃんはオレの体を風のようにすり抜けた。オレは驚きを通り越し、仰天のあまり口を開けたまま彼女の行く先を振り返る。奇妙なことに、その場にいた誰もがオレの存在に気がついていないようだった。

 助産をしていた老婆が、「なんと恐ろしいことじゃろう!」と恐怖に顔を引きつらせて叫んだ。「満月のようなオレンジ色の髪をしておる!」

 隣にいた同じような顔の老婆も続けて叫ぶ。

「呪われた子じゃ! 殺してしまった方がええ!」

 老婆たちが口々に喚き立てる中、ばあちゃんは優しい笑みを浮かべて赤ん坊を抱き上げた。

「こんなに可愛い子を殺すだって? 迷信に惑わされてはいけないよ」

 赤ん坊はばあちゃんの腕に抱かれると、泣くのをやめて静かになった。

 老婆たちは不吉なことの前兆に違いないと、ばあちゃんに赤ん坊を引き渡すよう訴えた。しかし、ばあちゃんは頑なにそれを拒んだ。すると、老婆たちはこれ見よがしに星十字をきり、「ウィンスレットは呪われるだろう!」と窓から箒で飛び去って行った。

 ばあちゃんは赤ん坊をあやしながら、ベッドに横たわる少女の腕へその子を預けた。「ほらごらん。ハンネ・ローレ、おまえの子だよ」

 疲れきった表情にわずかな笑みを漂わせ、彼女はオレンジ色の髪の子供を抱いた。だが、すぐに子供の体に顔を埋めてすすり泣き、ひたすらばあちゃんに謝り続けた。「申し訳ありません、奥様……。お許し下さい……。お許し下さい……」

 それに合わせるかのようにして、再び赤ん坊も泣き始めた。

「いいかい? 決してここから出て行こうとは思わなくていい。何の心配もせず、ここでその子を育てるんだ。わかったね?」

 オレはその光景を眺めつつ、冷静に考えた。どうやらここは過去の世界のようだった。歳をとらない魔女であるばあちゃんの存在が一瞬判断を迷わせたが、このオレンジ色の髪の赤子はどう考えてもリーブル先生に違いない。ということは、今目の前にいるこの亜麻色の髪の少女が先生の母親ということになる――。

 ふいに、扉の隙間からじいちゃんがこちらを覗いていることに気がついた。この間レーンホルムで会ったときに比べると、彼の容姿はだいぶ若く、白髪に程近かった銀髪には色艶があるし、皺も見当たらない。

「じいちゃん」

 声をかけて駆け寄ったが、同時に急に辺りが真っ白になり、瞬きをした次の瞬間、オレはレーンホルムの屋敷の階段に立っていた。

 金髪の少女が真っ黒なローブを羽織り階段を駆け下りてくる。その姿を捉え、はっとして息をのんだ。目の前を横切る少女の顔をオレは確かに知っていた。古びた写真の中で微笑む、若い頃の母さんに間違いなかった。

「待てよ、ジョアン!」

 母さんに瓜二つの少年がオレの横を通り過ぎた。エリアス叔父さんだ。

「離してエリアス! 私のことを止めようとしたって無駄よ」

 エントランスで揉み合う二人は、やはりオレの姿が全く見えていないようだった。

「サバトになんか行かせない! わからないのかい、ジョアン! 君はあの男に利用されているんだよ!」

「違うわ。聖エセルバート様を呼び出すには私の力が必要なんだって、あの方はおっしゃったのよ!」

「君はマリア様を裏切る気かい? 悪魔喚起はマリア教で最も邪悪な闇の魔術とされているんだ。これを冒すことは、聖女マリアへの冒涜とみなされ、異端者として教会から破門されることになるぞ?」

「結構よ。カストリア国教会は死んでるわ。エリアス、あなただってとっくに気がついているはずでしょう? お金さえあればどんな罪でも許される、そんな独善的な世界なのよ。国教会のやつらに私たちル・マリアの民を弾圧する権利なんてないわ」

 古時計が真夜中の時を刻み、深い音色が空気を巻き込むようにして深夜の屋敷に溶けてゆく。

「確かにパッシェン総主教の建前ばかりの神学論は僕だって好きじゃない。でも、我々ル・マリアの疑念はやがて大いなる力となり、世界をよりよく導くはずだ! マリア様は決して僕らを見捨てたりはしないんだ!」

 エリアス叔父さんは星十字の数珠を懐から取り出すと、両手で母さんの手に握らせた。

「お願いだ、ジョアン! 目を覚ましておくれ。あの男は悪魔の手先だ」

「やめて!」

 母さんは星十字の数珠を階段に向かって投げつけた。

「私のことは放っておいて! あなたは自分の子供のことだけ考えていればいいのよ!」

「こ、子供って何のことさ」

使用人メイドの女が産んだ満月のような髪をした子供のことよ! どうして父様たちに本当のことを言わないの? 呪われた子供だから? 女癖が悪いあなたに天罰があたったのよ! マリア様は相当お怒りのようね!」

「違う! あれは……あんなのは僕の子供なんかじゃない!」

 エリアス叔父さんは真っ青な顔をして叫んだ。

「全部……全部君が悪いんだ。君が僕から離れていこうとするから……。僕には君が必要なんだ。君さえいてくれればいいんだ。お願いだよ、ジョアン! 僕を見捨てないでくれ!」

 エリアス叔父さんは狂ったように母さんに抱きついた。しかし、母さんは彼から逃れると、そのまま走って外に飛び出して行った。

 二人の騒ぎを聞きつけて、屋敷中の人間が目を覚ましたようだった。じいちゃんやばあちゃんも蝋燭の明かりを翳しながら階段を下りてくる。

「こんな時間に何の騒ぎだ? エリアス、一体何があったんだい?」

 エリアス叔父さんは床に視線を落としたまま呟いた。

「ジョアンは魔法教徒のサバトへ行ったよ。そこで悪魔を呼び出すんだ」

「何と言うことだ! それはどこで行われている?」

「さあ、僕にはわからない」

 箒に跨ったばあちゃんが、真っ先に屋敷の外に飛び出て行った。使用人たちに慌しく娘を探すよう指示し、じいちゃんも多くの男たちを引き連れて屋敷から姿を消した。

 失意の表情で彼らを見送るエリアス叔父さんのもとに、オレンジ色の髪の子供を抱いた少女が近づき、そっと彼の手に触れた。

「ハンネ・ローレ……僕は悪くない。僕は間違ってなんかいない。間違っているのはジョアンなんだ……」

 少女はエリアス叔父さんの手をぎゅっと握り締めると、そのままゆっくり自分の頬に押し当てた。彼女は泣いてはいなかったが、今にも泣きそうな顔をして必死に微笑んでいるのだった。


 次の瞬間、瞬きをした途端に再び場面は切り替わり、驚くべきことにオレは森の中に立っていた。

 暗闇の中で不気味に燃える松明の明かり。明かりのもとには真っ黒なローブを纏った魔法使いらしき者たちが集っていて、彼らに向かい合うように母さんが立っていた。

 魔法使いのうちのひとりが母さんに歩み寄り手を差し出した。その顔は闇のようなローブに覆われていて見ることが出来なかった。

「親愛なるジョアン。君は必ず我々の元に来てくれると思っていました」

 透明な鈴の音みたいな男の声。どうやら、このローブの男が例の青年宣教師のようだった。母さんは夢見るような表情で男の手を取った。

「君のその穢れを知らぬ純粋な心と、激しく燃える情熱が大いなる魔法の力を生み出すのです。さあ、祈りなさい。そして心から願うのです。聖エセルバートの復活を……」

 母さんはこくりと頷くと、男に導かれるままに地面に描かれていた魔法陣へ足を踏み入れた。黒いローブの魔法使いたちは失われた言語で何やら呪文を唱え始める。

 複雑な模様の魔法陣は煙立つように光を帯び始め、それに伴いみるみるうちに母さんの体力が消耗していくのが伺えた。顔色は青白さを増し、足元がひどくふらついている。なんだか、おかしい。これではまるで生贄だ。

 母さんは地面に手をつくと、苦しそうな表情で男に向かってもう片方の手を差し伸べた。しかし、男は彼女から視線をそらすようにして顔を背ける。

 このままでは、母さんが死んでしまう! オレはいてもたってもいられなくなって、魔法陣に駆け寄った。

「母さん! しっかりして!」

 支えようと手を伸ばしたが、オレの体はまるで透明にでもなったように、彼女の体をすり抜けるばかりだった。それでも諦めきれなくて、オレは必死に何度も何度も空気を掻き抱くように腕を振り回した。

「無駄だよ。これは日記の記憶なんだ」

 気がつくと、隣にエデンの魔女が立っていた。

「これは生贄の儀式だね。あんたの母さんの持つ生命の力と引き換えに、あの黒いローブの連中は悪魔を喚起しようとしているんだ」

「そんな……」

「おや、あれはあんたのおばあさんじゃないのかい? 反対呪文を唱えているよ」

 魔女の視線の先には、箒に跨り空中で魔法の呪文を唱えるばあちゃんの姿があった。黒いローブの魔法使いたちはばあちゃんの魔法を阻止しようと一層激しく祈りを続けたが、茂みをかきわけて現れたじいちゃんや村の人々に追われ、箒に飛び乗り夜空に逃げ飛んだ。

 例の青年宣教師も空に舞い、魔法陣を挟んでばあちゃんと向き合った。彼がぶつぶつと魔法の呪文を唱え始めると、魔法陣は一層激しく光り輝いた。しかし、ばあちゃんは負けじと両手をかざして反対呪文を唱え続ける。二つの魔法は反発しあい、やがて光の渦が魔法陣を取り巻いた。

「ジョアンの命は渡さない! この子は……あたしの大事な娘なんだ……!」

 光の中で、ばあちゃんの叫び声が鮮明に耳に届いた。それと同時に魔法陣が破裂して、燦然ときらめく魔法の力が弾け飛び、オレはその眩しさに目を瞑った。

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