第2話 七月二十日 夜
一冊のノートを、そしてそこに書き連ねられた自分の文字を、私は読むともなしに眺めていた。
部屋は暗く、机の上にあるデスクスタンドの光が私の手元を照らしている。不思議な夜だ。私はほとんど直感的にそう思っていた。
家族全員が寝静まった夜更け。私のページを捲る音だけが全てであるかのような錯覚に襲われる。
まるで私一人だけがこの世界に存在しているかのようだ。
雲が流れて、月が顔を出す。三日月でも、半月でも、そして満月でもない。普通のありふれた月の光が私の部屋に入ってくる。
その月光は、ちっぽけなデスクスタンドの光だけでは決して届かなかった場所を浮かび上がらせる。
掛け時計の下、そこには今日買った黒いワンピースがハンガーに吊るされていた。
私は月の光に誘われるように、そのワンピースの方に顔を向けた。
仄かに浮かびあがるそのワンピースを眺めて、私は今日家に帰ってからのことを思い返した。
家に入るとすぐに、母が私の手に持っていた袋に気付いた。若い女の子向けの洋服を売っている店のロゴが入ったそれを見て、母は驚きの声をあげた。
「あら、アリスがそこのお店に入るなんて。明日は雪でも降るんじゃないかしら」
私は肩を竦めて、恥ずかしさを誤魔化したものの、母にはそんな私の様子などまるで見えていなかった。
「ねぇ、どうせ着替えるなら、それを着て降りて来て頂戴。それで一緒にお祝いしてくれないかしら」
どちらかと言えば、私ではなくリアスに似た笑顔を見せて母はそう言った。
今日の主役にそう言われて、このワンピースに着替えないわけにもいかず。
結局、黒いワンピースに着替えて、夕飯を作っているときに、父親が帰ってきた。彼の手にはホールケーキの入った紙袋が収まっていた。
その後過ごした時間は幸福に満ち溢れていた。
私はその温かな記憶を思って、口の端を上げる。
「今日は、楽しかったな」
そう呟いて、読んでいたノートを閉じる。くすんだ赤い表紙が月光に照らされる。
私は立ち上がって、壁にかけていたワンピースを手に取る。
服を脱いで、もう一度黒いワンピースを着てみる。姿見に映る自分を見て、微笑む。
ジーンズやフレアスカートしか持っていない私にとって、この膝丈のワンピースは未知の挑戦だった。
きらり、私の両の瞳が特異にそれぞれ光を反射させる。片方は深みのある青に、もう片方は黄色と茶色の混ざったような不思議な鈍色に。
「……リアスに、感謝しないとね」
鏡の向こうにそう呟いて、私は勉強机に戻る。先ほど閉じたノートの新しいページを開いて、今度はそこに筆を走らせる。
真っ白いページに落とされていく黒の模様。それは意味を持って、私に問いかけてくる。
これでいいの?
そう問うように囁かれた声は、妹のそれによく似ていた。
「……これで、いいのよ」
私は誰ともなしにそう呟いて、またノートの空白を埋めていく。
何者をも拒むことのない夜が、更けていく。朝に向かって。あるいは、新しい一日に向かって。
時は、残酷なまでに留まることを知らないから。少しの猶予も私たちに与えてはくれないから。
そのことを、私は一番よく知っている。
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