恋は陽炎 ~道化師の初恋~
はるのれいん
第1話 縁結び神社
この長い梅雨が明けたら二十代最後の年となる。
青峰麗子は友人の披露宴の席で孤独となった自分の身を案じながらグラスを傾けた。
亜希美はいつにも増して華やかだった。それでいて謙虚な一面を持つ女性だ。私と比べたらなんて、そんなおこがましいことが言える程のライバル心さえ起こらない。
亜希美は、私の居場所を確認すると、薄い笑みと一緒に白いブーケを投げた。私は、恥じらいながらも舞い落ちる亜希美の気持ちに手を伸ばしたが、それは私の手の平をスルリと抜けると見知らぬ若い女性の手に容易に拾われた。そんな私の様子に、亜希美は哀れみの失笑を浮かべた。
その夜、一部屋だけのアパートでレトルトの食事を済ませると、亜希美の失笑がフラッシュバックして私を切なくさせた。今夜は長い夜になりそうだ。私は、嫉妬と落胆と自己嫌悪の中、現実から逃げ出そうとパソコンを立ち上げてみたりなどした。
古いソフトは気が遠くなるほどの時間を掛けて私を嘲笑う。
そうだ。笑うがいい。そうやって気が済むなら、とことん笑えばいいだろう。
私は、嫌々ながら立ち上がったインターネット上を夢遊病のように彷徨った。
いくつもの街の灯りが点いては消え、そしてまた点いてはボンヤリと暗闇の中に溶けていく。
数えきれない程の街を過ぎた時、ふと右手の動きが何かを察知したように止まった。
縁結び神社・・・・
何故なのだろうと思った。神社が縁結びをする。それは至って不思議でも何でも無い。神社で挙式をするのも古くからの習わしなのであるから。だが、ここに訪れた信者には必ずや御利益があるという謳い文句は、正常な神経が麻痺する深夜には打って付けだった。 麗子は、夜が明けるのを息を殺すようにじっと待った。
幸いにも、縁結び神社はそう遠くでもなく、車で一時間を少し切る程度の所にあった。未踏の地でもナビさえあれば何処にでも行ける。県内の土地勘に疎い麗子には必要不可欠な強い味方であった。
峠を二つ程越えたであろうか。細い一本道には行き交う車は殆んど無かった。小さな農村のような集落の先の小道に入り、そこをニキロ程ゆっくりと進んだ突き当たりにひっそりと佇んでいたのだ。
車を四台も停めれば満杯になりそうな土の地面のままの小さな駐車場。そこの一番奥に車を停めた。入り口は通りすがりに見つけたあそこだろう。麗子は助手席のバッグを掴むと、腰を少し折りながら低い姿勢で入り口に向かった。
擦りガラスの引き戸を半分程開き中を覗いた。陽当たりの悪い山の中の建物だからか、室内の空気が湿っぽい匂いで鼻を突いてきた。私は、遠慮がちな細い声で「ごめんください」と言ってみた。応答が無い。もう一度、ごめんくだ....奥のほうから廊下を踏むような軋む音が聞こえた。私は思わず開いた口を手の平で押さえた。軋む音が次第に近づいて来るのが分かる。私は、覗かせていた頭を少しばかり引っ込めた。 軋む音は突然に姿を現した。その瞬間、私の心臓は内部から強く叩かれたように弾けた。
「どなただ?」
背の低い初老の女性の突然の問い掛けに、私は返事に詰まった。
「どうしたのだ。そんなに目を丸くして。何か脅かしてしまったのだろうか。それならば申し訳ない」
初老の女性は顔の前に右手の手の平を立てた。
「あ、いいえ・・・とんでも無いです」
こんな返事しか出来なかった。
「何かご用か?」
初老の女性は、心配顔で私に問い掛けた。私は、サイトでここを見つけた旨を説明した。
「サイトとは何だね?」
一通りの説明を聞いた初老の女性は首を捻った。私はサイトとは何かを説明しようとしたが、初老の女性はその話を遮るかのように「まあ、とにかく上がりなさい」と言い、私に背を向けてゆっくりと歩きだした。私は慌てて靴を脱ぎ、廊下に上がろとしたが、開けっ放しのままの引き戸のことを思い出し、まだ新し目の自分の靴を無惨に踏みつけて戸を閉めた。廊下は室内の空気と同じくひんやりとしたものであった。
初老の女性は私を待つかのようにゆっくりと歩いていた。私は小走りで追い付き、初老の女性の背について進んだ。廊下は二人分の軋み音で煩かった。
廊下は縁側へと繋がっており、初老の女性はその辺りの襖を一枚開けた。
「お入りなさい」
私は初老の女性より先に部屋へと足を踏み入れた。左手が上座であろうか。何やら祭壇めいたものが置かれている。私が立ったままでいると、部屋の隅に積まれた座布団を一枚手に取り、「ここへお座りなさい」と導いてきた。私は言われたままにそこに腰を下ろした。
「少しお待ちを」
初老の女性は、一言そう言い残すと部屋を出ていった。襖は閉められた。
私は祭壇のようなものを眺め、これは仏壇かと思ったが、神社であることから、これは何かの神様なんだろうと一人推測したりしていた。再び襖が開けられた。初老の女性の手にはお盆に乗せられた急須と湯呑みがあった。
「それで、何をどうしたいのだ?」
初老の女性は、私の目前に湯呑みを置きながら問い掛けた。
「えっと、何て言ったら良いのか・・・」
「何でも思っている事を言ってみなされ」
初老の女性は、右手でお茶を勧める仕草をしながらそう言った。
外からポツリポツリと雨音が聞こえ始めた。
「お恥ずかしい話なんですが、実は私は生まれてこのかた男性とお付き合いをした事が無く、歳も歳なのでこの辺で結婚したいと思い、絶対に御利益があるというこの神社にお願いに来たのですが・・・」
初老の女性は暫くの間黙り込んだ。その様子に私は不安を感じ、「あの、私は無理なんでしょうか」と少しばかり身を乗り出した。湯呑みのお茶が少し揺らいで波を打った。
「いや、そうでは無いのだが・・・」
初老の女性は歯に物が詰まった言い方をした。
「でしたら・・・」
初老の女性は言いにくそうにしていたが、やっとのことで口を開いた。
「実はの、ここは確かに縁結びの神が居られるところなのだが、自分自身の事をお願いする場所ではないのだ」
私は理解出来なかった。
「どういう事なんですか?」
湯呑みのお茶は再び揺れた。
「他人の縁を結ぶところだと言えば分かるかの?」
「他人の?」
「そうだ。他人のだ・・・・」
他人の縁結びしか駄目だという事か。だとしたら、友達でも親でも連れて来てお願いさせればそれで済むこと。私は、改めて出直そうと思った。私がバッグに手を伸ばすと、初老の女性は言った。
「縁結びと言っても良縁では無く、その逆だ」
バッグを掴んだ手が止まった。
「逆?」
「そうだ。逆だ」
今度は意味が判らなかった。
「つまり、憎しみのある他人が不幸に陥るように、それなりの相手と縁を結ばせる。そういうことだ」
私の脳裏に亜希美の哀れみを帯びた失笑の姿が浮かんだ。
一度、二度、三度、強く頭を左右に振った。
「駄目よ、駄目。これは駄目なのよ。お願い、消えてよ亜希美」
心の奥で叫んだ。だが、身体はその場を離れようとはしない。膝の上に大きな岩でも乗せられているかのように重く微動だにしなかった。
あれから三日後に私は二人の名前を紙に記し、あの神社に祭られた神様にお渡しして来た。
正直、今だ持って半信半疑なところはあるが、だからこそお願いして来れたのかも知れないと思う。だが、時折気を許した隙にあの場面が私の前に現れては失笑していく。その時だけは、半信半疑どころか全力で手を合わせるのだ。
二週間が経過した。亜希美からは何の連絡も無く、やはり眉唾物だったかと不信感が角を出し始めた。 携帯に電話する事も考えたが、普段頻繁に連絡を取り合う程の仲には程遠い。着信履歴に自分の名前を残すことは避けるべきだろう。
新婚旅行からは既に帰って来ているはずだ。何処に行ったのかは知らないが、三週間近くも旅行する事は無いだろう。とにかく、そろそろ何かの動きは起きてても可笑しくは無い。いや、起きていないほうが可笑しいだろう。
私は、インターネットで公衆電話の設置箇所を検索し、駅の北側にある病院へと向かった。電話は検索通りにロビーの片隅に設置されていた。
ありったけの百円玉を電話の横に置き、携帯を見ながら番号を押した。電話の向こうから、電波の届かない場所か電源が入っていませんというアナウンスが流れる。
やっぱり何か起こっているに違いない。私はそう確信し、応答しない受話器を切った。
ロビーの長椅子には八割程の患者が頭を並べている。たいていは、角にあるテレビを観ているか雑誌をペラペラと捲っている。
そんな群衆を横目にロビーをすり抜けようとした時、テレビからアナウンサーの声が聞こえた。私は足を止め、テレビの画面に目を移した。
事件のようだ。場所はここと同じ市内だが詳細は分からない。マザーマートというス―パーの駐車場で人が刺されたという。
車が陰となり目撃者は遠目に見た主婦が一人だけで、赤いシャツを着た男性が走って逃げている後ろ姿が確認されているようだ。従って、犯人は逃走中でまだ捕まっていない。
犯行時刻は一時間前。刺された女性は知らない名前だった。
次のニュースに画面が変わると、私は玄関から外へ出た。刺されたのは亜希美かと期待もしたが、そんな都合の良い話でも無かったことに、何だか馬鹿らしくさえ思えてきた。
そうなると、亜希美の携帯は単なる充電切れか、本当に電波の届かない場所に遊びにでも行っているのか。そんな事を考えたら、少しだけ冷静さが戻ったように感じ、胸を軽く擦っては深く空気を吸って吐いた。 駐車場の車に戻り、キ―を差し込んで回す。エンジンが掛かるとギアをドライブへと入れたが、バッグの中の携帯の呼び出し音が鳴り、ギアをニュートラルへと戻した。
バッグを開き携帯を取り出す。送信者の名前は亜希美だった。やっぱり私は騙されたみたいだ。苦笑いと共に受信ボタンを押した。
「はい」
「・・・・」
無言だった。私は、続けざまに「もしもし」と繰り返した。
「急いでATMから金を降ろせ。ありったけの金、全てだ」
「えっ、誰?」
「誰でもいい。警察や他の人間に連絡でもしたら、この女の命は保証しないからな。いいか、今すぐに金を降ろして折り返し電話をしろ」
電話は切れた。すぐにもう一度掛けようとしたが、勇気が出なかった。
私は、車の中で事の次第を整理した。先ず、亜希美の電話が通じなかった。そして、近い所で人を刺す事件が発生し、犯人は捕まっていない。容疑者は男性。それから一時間後に亜希美の携帯から電話が掛かってきた。声は男性である。
もしや、この推測が当たっているとしたら、亜希美と犯人は一緒に居るはずだ。携帯も取り上げられ、何処かで拉致されている。 私は震える手でギアをドライブに入れた。しかし、車は発車しなかった。
私は、シ―トに背中を付け、遠くの空をボンヤリと見た。
亜希美と犯人の縁が結ばれた・・・・
きっとそうだ。それ以外には考えられない。
もしも、私が自分の金を犯人に差し出したとして、その後の展開はどうなるのだろうか。亜希美は助かり、私に深い感謝をするだろうか。いや、そんな事はしないだろう。それよりも、そんな少ない額しかお金を持っていないのかと、あの時と同じような顔で失笑するに決まっている。
憎たらしい顔。私はこのまま無視をしようと考えた。だが、亜希美の携帯には今の履歴が記録されている。このまま私が無視をしたとして、どうなるのか。
いずれ、亜希美や警察からは問われる事になるだろう。フロントガラス越しにゆっくりと流れる雲をボンヤリと眺めた。
「そうだ」
これだったらどうだろうか。お金を用意した後、それを伝えるべく、亜希美の携帯に電話しようとした。しかし、運悪く私の携帯の充電が切れていた。亜希美の番号は携帯が無いと分からない。それで慌てふためいた私は警察へと駆け込んだ。何故、家に充電しに帰らなかったのかと問われたら、慌てた私には警察の事しか浮かばなかったと言おう。それにはとにかく、ATMに行かなければ。防犯カメラに私だとハッキリ映るように注意しよう。
ATMには他に客は居なかった。バッグからキャッシュカードを取出し、機械へと差し込む。先ずは一万円だけ降ろして残金の確認をしよう。機械の画面に表示された残金は31万円だった。仕方ないか。定期は降ろせないし、これだけでも降ろしておこう。レシートも出しておいたほうが都合が良いかも知れない。
降ろしたお金を財布に入れ、車に乗った。
さあ、警察に向かおうか。エンジンを掛けた時、突如後席のドアが開いた。私の思考回路は空転を始め、何がどうしたのか判断に苦しんだ。すぐに喉元に冷たい刃が当たった。
「車を出せ。騒いだら殺すぞ」
思考出来ない私は、その声のまま車を発進させた。
「よし。じゃあ、俺の言う通りに進め。変な真似はするな。いきなり殺すからな」
麻痺した思考が少しずつ回復してくると、私の顔は蒼白となった。
ATMには他に客は居なかった。バッグからキャッシュカードを取出し、機械へと差し込む。先ずは一万円だけ降ろして残金の確認をしよう。機械の画面に表示された残金は31万円だった。仕方ないか。定期は降ろせないし、これだけでも降ろしておこう。レシートも出しておいたほうが都合が良いかも知れない。
降ろしたお金を財布に入れ、車に乗った。
さあ、警察に向かおうか。エンジンを掛けた時、突如後席のドアが開いた。私の思考回路は空転を始め、何がどうしたのか判断に苦しんだ。すぐに喉元に冷たい刃が当たった。
「車を出せ。騒いだら殺すぞ」
思考出来ない私は、その声のまま車を発進させた。
「よし。じゃあ、俺の言う通りに進め。変な真似はするな。いきなり殺すからな」
麻痺した思考が少しずつ回復してくると、私の顔は蒼白となった。」
私は言われるがままにお金を渡した。
「お前、一人暮らしか?」
「ええ、まあ・・・・」
それを聞いた男はニヤリとした。
しまった。とんでも無いことを口走った、慌てて家族と一緒だと訂正したが、男は聞く耳を持たなかった。
「降りろ」
「嫌です」
私は強く拒否したが、喉の皮膚を少し切られたことで言うことを聞くしか残された手は無かった。
この時期の河原は薮だらけだった。
「あのう・・・・」
「何だ?」
「どうして私があの電話の相手だと分かったんですか?」
「何のことだ?」
「金を用意しろと電話して来たでしょ?」
男はニヤリとして「なるほど」と言った。
「あの後、思い直したんだよ。どうせなら確実に金を持っている人間のほうが手間が掛からないって事を。ATMを見張れば金を降ろしたばかりの人間を捕まえられる。たまたまそれがあんただったってことさ」
「えっ、じゃあ、あの電話に従わなくても良かったってこと?」
「あの電話は既に壊されて川の中に沈んでいる。連絡の取りようも無いさ」
「でも・・・・あの電話の持ち主の女性は何処に?」
「知らん」
「知らんって・・・・」
「電話は駅の階段で拾った」
私は絶句した。
あの子、もう死んだかな。
亜希美は、公衆電話から麗子の携帯へと電話を掛けた。だが、電波の繋がらない場所か電源が切られていますというアナウンスにほくそ笑んだ。
新婚旅行に行く前日に縁結び神社で書いた日にちは今日だ。絶対に今日、あの子は指名手配犯に遭遇し、そして殺されるはずだ。
旅行や新居への引っ越しが落ち着いた時期にゆっくりと楽しもうと選んだ日にちが此れ程までに待ち遠しかったとは・・・・
全てはあの子が悪いんだ。あの子さえ余計な事をあの時の彼氏に言わなければ、今ごろ私は金持ちの彼と結婚しているはず。平々凡々としたこんな普通の旦那なんかじゃなくて・・・・亜希美は、今後のニュースが楽しみで仕方なかった。
「あの方、何を慌てたのか日にちを入れてないようだ・・・・連絡の取りようも無いし、このまま保管しておくしか無いか。そのうち、また顔を出すだろう」
初老の女性は、呆れた顔でその紙を祭壇の傍らの小さな箱の中に保管した。
箱は、二度と開けられることは無かった。
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