第四話 偽悪者

 躑躅ヶ崎館の広間は、まさに華やかな笑い声に包まれていた。


 もちろん甲斐自体はあまり豊かな土地ではないこともあり、出された料理の数々は目を引くようなものは少ない。

 しかしながら、家臣の誰もが分け隔てなく談笑するこの空間は、これまで目にしてきた何れの武家とも異なっていた。


「楽しんでくださっておりますかな、天海どの」

「こ、これは信玄どの」

 軽い足取りで、僕の隣へと腰掛けてきた信玄は、ほろ酔いからかほんのりと赤くなった顔で笑いかけてくる。


「いやはや、改めてよくお越しになられました。実は以前から、一度貴公に会ってみたいと思っていたところでしてな」

「信玄どのがですか?」

 信長どのとは異なり、既に日ノ本にその名を轟かせているあの武田信玄。

 そんな彼が僕という存在を認識し、あまつさえ興味を抱いていたということに驚きを覚える。


「然り。何しろ、先立っては織田を操り、あの義元を汝が討ち取ったとの由。その報が伝わった折は、正直言って鳥肌が立ち申した」

「は、はは……操ったというのは誤りですが、いずれにしましても幸運が重なってのことです。もう一度やれと言われても、正直できる自信はありません」

 僕の事がどのように伝わっているのか不安を覚え、あまり過剰な期待を抱かせぬよう正直な内心を伝える。

 だが信玄殿は、すぐに首を左右に振られた。


「ふふ、幸運を呼び寄せることができるのは実力があってこそ。さすが大樹が目をかけた足利の逸材ですな」

「そんな大層なものではありませんよ。それに逸材と言われましても、表向きはまだ足利の家臣では無いことになっておりますので」

「細川どのが直々に配慮の文を送ってこられるにも関わらず、関係ないと言われますか。はは、まあその方が、貴公の本懐を成し遂げやすいのかもしれませんが」

「本懐……一体どういうことでしょうか?」

 信玄どのの発言の真意が掴めず、僕は思わず聞き返す。

 すると、目の前の比類なき武人は、僅かに右の口角を吊り上げた。


「貴公の目は、常に遠くを見据えているかのように思われるますなぁ。それもおそらく、このわしと同じ場所を見ておられる気がするのですよ」

「そんなことは――」

「本当に無いとおっしゃられますか? まあ、それはそれで良いかもしれませぬ。何しろ、その場所には一つしか椅子がありませぬ。あやつらみたいに力比べが好きな者ならともかく、わしは貴公のような手強そうな若者と、真正面から戦いたくはないですからな」

 そう口にしながら、中庭でいつの間にか始められていた相撲に取り組む配下の者たちへと、信玄はその視線を移される。


 その場で競い合っているのは武田二十四将として知られる馬場信房や原昌胤、そして何故か慶次郎が喜色を浮かべながらその中へと混じっていた。

 まったく遠慮なしに、武田の諸将をぶん投げ続ける慶次郎。

 その姿を目にして、僕だけではなく信玄どのも思わず苦笑を浮かべていた。


「あれが音に聞く傾奇者と言うやつか。面白い男を連れておるようですな」

「連れているというよりも、勝手に付いてきたという方が正しいところですが」

「ふふ、若くして、あのような豪の者に好かれるのも、実に良きことです。とまれ、そろそろ本題に入るとしましょうか」

 信玄どのはそう口にするなり、真剣な眼差しを僕へと向ける。そして再びゆっくりとその口を開いた。


「細川さまから届けられた文には、大樹が四度目は許さぬとおっしゃられている由にござった。しかして、その真意は如何に?」

「おそらくですが、大樹は御懸念なされているのだと推察いたします」

「ほう、懸念……ですか」

 僕の言葉を受け、信玄どのは先を促すようそう述べる。


「はい。以前行われた三度目の川中島の戦いの折、大樹自ら和睦を促すため、信玄どのと政虎どののお二方に直接御内書をお送りになられたと伺っております。にも関わらず、再び両者が矛を交える気配が漂っているのは、やはり看過できぬのではなかろうかと」

「確かに、大樹の面子に泥を塗る形になってしまうかもしれませんな。だが聞き分けの良いわしはともかく、あの取り付く島のない頑固者が素直に矛を引きますかのう」

「ええ、それがまさに難題ですな」

 小田原城の戦いを振り返っても、年を跨ぎ明らかに勝利の目が薄くなっても、あの男はなかなかに兵を引くことはなかった。


 もちろんそれは、野戦に置いては圧倒的な自信を有するが故、こらえ切れなくなった北条が飛び出してくることへの期待があったのかもしれない。

 だがしかしそんな一事を持ってしても、かの人物の粘り強さと頑なさを伺い知ることは容易であった。


「……天海どの、もし貴公が武田の立場でしたら、一体どうなさいますかな?」

「それは足利家に多少縁のある天海秀一に対し、お尋ねということでしょうか?」

「いや、あの義元の首を取った、一人の武人である天海秀一どのにお尋ねしております」

 信玄殿は意味ありげな笑みを浮かべながら、僕に向かいそう問いかけてくる。

 それを受けて僕は、一つの考えを口にした。


「そうですね……僕ならおそらく阿弥陀如来に祈りを捧げてみると思います」

「ほう、阿弥陀如来……ですか」

 その言葉の意味するところを理解したためか、信玄どのの口角が僅かに吊り上がる。

 流石だと僕は感じながら、僕は更に言葉を続けてみせた。


「ええ。阿弥陀如来と毘沙門天、なかなか面白い組み合わせだと思われませんか?」

「なるほど、確かにその通りですな。しかし、さすが足利の逸材は切れ味が違いますな。あの厄介な龍に、同じほど厄介な一向宗をぶつけようなどとは」

「はてさて、何をおっしゃっておられるかわかりません。ですが、阿弥陀如来の加護がありましたら、少なくとも毘沙門天どのは身動きが取りづらくなる気がします。もっとも、このことが発覚すれば、後でいずれからも恨まれる羽目になりかねませんが」

 責任を回避するための一言を添えながら、僕は遠回しに一向宗とあの男をぶつける提案を繰り返す。

 すると信玄どのは、敢えて全てを飲み込む覚悟を示された。


「良き考えかと思われます。何しろ恨まれるのはまったく構いませんので」

「そうなのですか?」

「このわしが恨まれるだけで、甲斐と信濃の民が平和に暮らせるというのなら、幾らでも恨まれましょう。実際、これまでにどれだけ呪詛の言葉を浴びせられてきたか、正直数え切れませんからな」

 信玄どののその発言に対し、僕はやや驚きを覚える。

 そして同時に、武田信玄という男の矜持を垣間見た思いがした。


「覚悟は既になされていると?」

「もちろんです。何しろ、この地に生まれたる者は全て我が子も同然。だからこそ、悪の汚名をかぶるだけで子を守れるなら、わしはいくらでも被りましょう」

 一切の迷いなきその言葉。

 それを穏やかな表情を浮かべたまま口にされたことに、僕は感嘆を禁じなかった。


「悪と蔑まれても……つまり名を惜しまれないと?」

「ええ。誰かのように偽善を貫き、民に苦難を与えるよりはよほど良い。少なくとも、わしはそう考えております」

「偽善……それは彼の御仁のことですね」

「善などというものは、見方や視点によっていくらでも虚ろうもの。つまり全ての善は偽善とも言い換えられましょう。ならば、そんなものを求めるは無意味」

 はっきりとした口調で、信玄どのはそう言い切る。


「ですがそれを言うならば、悪などというものも、見方によっては幾らでも虚ろう気がします。言うならば、全ての悪は偽悪。つまり貴方の言う悪は、ただの偽悪かもしれません」

「偽悪ですか……ふふ、良いですな。実に良い響きです」

 信玄どのはそう口にすると、そのままゆっくりと立ち上がる。

 そして周囲をぐるりと見回すと、嬉しそうに笑い声を上げた。


「皆の者よく聞け。このわしは偽悪者だそうだ」

「ほう、偽悪者でござるか。はは、まさにその通りに御座いますな」

「御屋形様が偽悪者でなければ、誰が偽悪となりましょうや」

 宴の場のあらゆるところから、笑い声とともに、そのような冗談めかした言葉が発せられる。


 正直、圧倒された。

 もちろんそれは、信玄どのの冗談の意図を家臣の誰もが汲み取り、その上で自らの主に向かい軽口を放つこの光景に対してである。


 それ故に、僕は武田の強さと恐ろしさをここにはっきりと感じ取っていた。

 一方、そんな僕の動揺を知ってか知らずか、信玄どのは穏やかな笑みを浮かべ、改めてこちたに向かって口を開く。


「ふふ、家臣たちもあの様に申しております。よって、どうやら天海どののご指摘通り、このわしはどうも偽悪者のようですな」

「は、はは……」

 正直言って、苦笑を浮かべながら笑ってごまかす以外にどうしようもなかった。

 するとそんな僕に向かい、信玄どのはさらりと思わぬことを口にされる。


「さて、それでは天海どの。偽悪者たるこのわしから、貴公に一つばかりお願いがあるのです。もしよければ、是非聞いては頂けませんでしょうか?」

「僕にできることでしたら」

 先程の一事を持って、信玄殿にこの場を掌握されてしまったことを強く感じていた。

 だからこそ、僕にはそれ以外の回答を口にしようがなかった。


「では、越後にいる頑固者を説得してきて頂きたいのです?」

「それはつまり……たった一人で龍を押さえよと?」

「はは、そのようなことを申すつもりはありません。ですが、和平を大樹の望みというならば、あの男を説き伏せることが必須ではないかと、わしはそう愚考しましてな」

 押しては引き、そして目の前に残されたものは一つの選択肢のみ。

 僕は小さく溜め息を吐き出すと、目の前の老獪な偽悪者に向かい、小さく首を縦に振った。


「……わかりました。それではあの人物に会ってみるとしましょう。頑固者の偽善者こと、越後の龍どのに」


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