三十六話
少しして落ち着くと、ご神体の前に一メートルにも満たない小さな狐が鎮座していることに気付いた。
「落ち着いたか?」
そう投げかけてくる狐の声は四縁の声音で、尻尾の数は四本ある。
何と言葉を選ぶべきか迷っていると、鼻で笑いながら教えてくれる。
「これが本来の姿だ、小僧」
「じゃあ、前に俺に見せていた姿は?」
「あれも儂に違いはないな。強いて言うならあれは神として威厳を出す時の姿だ。――だが今はもう必要あるまい」
「必要ない……?」
――そうだ、結局なにがどうなったんだ?
「まず、澪の楔は無事に解けた」
その言葉で最大の溜飲が下がった気がした。
「そうか……よかった」
心のそこからの安堵が口から漏れ出た。
その余韻を噛みしめる間、四縁は言葉の続きを待ってくれた。
「それから一つ謝っておこう」
首を傾げていると、四縁は愉快そうに笑う。
「別れの挨拶ができぬとか、永遠の別れになると言ったが、あれは嘘だ」
「なっ……」
「厳に、こうやって一緒に居られるだろう」
最初から二人とも助ける気でいたのだろうか。
「ずっとの、四縁の手の平の上だったということなのか?」
四縁は鼻で笑い、その問いを一蹴する。
「余裕をもってそんな事ができるなら、はじめから解決している」
――それは、そうだろう。
「この選択肢の肝は、おぬしだ。黒野翔」
「――俺?」
「魂の質の話は本当だ。質の高い魂があれば実現可能な選択肢だった。だが、質の高い魂なぞ、そう易々と手に入るものではない」
――だから、育てる事にした。
そう四縁はいう。
「魂の質は心理と感性に大きな影響を受ける。長い年月修行を積み、悟りを開いた者の魂などは、まさに質が高いと言えるだろう」
だがそのような時間がないのは自明の理。
「ならば、質を高める感情を抱いてもらう必要があった」
「質の高い、感情?」
「分かるか?」
記憶の中に心当たりがあるか頭を巡らせてみる。
「――愛情、とか?」
「惜しい。その感情も確かに素晴らしい事が多い。だが、その比では無い感情がある」
「――比ではない?」
「『覚悟』だ」
覚悟。この身を挺してでも、投げ打ってでも助けたいという覚悟――
「短期間で劇的に質を変化させるにはこれがもっとも手っ取り早い。まぁ儂の予測はまるで外れたがな」
――外れたというのはどういうことだろうか?
「まさかこんなに早く覚悟を決めるとは思っていなかった。残された二、三ヶ月の内に到達できればと思っていたのだがな」
その為の準備がまるで無駄になったと、四縁は愉快に教えてくれる。
「故に、儂は一時的にかつての力を取り戻すことができた。むろん、おぬしの捧げた魂の質が足りなければ楔は解くことは叶わなかっただろう。あるいは、解放と共に全ての魂を用い消滅しておったかもしれぬ。だがおぬしの魂にて足りた。おぬしの選択は間違いだったが、覚悟は足りていたのだ」
その言葉は褒められいるのか怒られているのか分からなかった。
それでも、澪を救えたと言う現実が今あるのなら、それでいい気がした。
間違えた選択は、今後二度と同じ轍を踏まないよう、糧としていくべきだ。
「だがおぬしは魂の多くを失った。その復活には、さらに多くの力を必要とした」
しかしそれは澪の魂の一部で事足りたという。
「八十年と言う年月のうち五十年以上を贖罪に当てた人生など、並の修行僧など比較にならない魂の質を持っていた。加えて相沢澪のおぬしを助けたいという覚悟は、それはもう凄まじかった。これほどの魂は儂は初めて見たな」
まぁ儂も神としてはまだまだ若造だが――と苦笑いを浮かべつつ。
ゆっくりとした足取りで近づきつつ、四縁は「そうそう」と続ける。
「黒野翔は死んだ。と言うのは事実だ」
どういうことだ? と目を丸くしていると、「人としてはな」を意地悪そうな笑みを浮かべる。
「人から神へと昇華した。いや、儂が昇華させたのだ」
「……そんな事が……?」
「だからこそ魂の一部を力にし、その力を魂の一部にする事ができたのだが、まぁ理論は今はおいておこう」
大事なのはそこではないと四縁は続ける。
「神が人や動物を新たに神として抱え込んだ者を
「――つまり、信仰心を増やす必要があると?」
「そうだ。儂の配下の神使となったのだ。食いぶち分は働いてもらわねばな。もしもそれが上手くいかなければ、今度は三柱全員で消滅だ。そうなったら今度こそ、永久の別れとなるだろう」
――無論それは避けたいだろう?
と四縁が脅し口調で問いかけてくる。
「もちろん、その結末は受け入れられない」
「そうだねっ」
澪も同意し、目を合わせ笑みを零す。
――ああそれから。
と四縁は近づいてくるとその肉球で澪の頬に触れる。
「神使化と魂の復元の副作用で、おぬしらの魂が繋がっておる」
なぜか四縁の肉球の感触が、自分の頬にも伝わってくる。
四縁が触れているわけではないのに、だ。
「つ、つまり?」
「澪の記憶を見たであろう?」
「ああ」
「互いの記憶がのぞける状態にあるのと、感覚や感情が共有されてしまう副作用が起こっている」
「えっ」
「翔君の小さい頃、今と違ってとってもわんぱくで可愛かったですっ」
「えっ、何、これは……このまま?」
「この結末で払った代償がそれなら、十分に安かろう」
そう言いながら澪の頬から肉球を離し、四つの尾をなびかせ離れていく。
「いや、まぁそうだけど……」
すると澪がなぜかムッとした表情を浮かべる。
「翔君は私と一緒は嫌なんですかっ?」
「いや、そういうわけじゃ」
「私に見られたらマズイ記憶があるんですかっ?」
「いや、そういうつもりはないけ――」
俺の言葉は途中で遮られた。
物理的に口を塞がれたからだ。
澪の唇で覆われたからだ。
その感触も、流れてくる澪の感情も初めての感覚だった。
「翔君」
「――ん?」
「私は翔君と出会えて、こうやって一緒にいられて――これからも一緒にいられることが夢のように嬉しいです」
「俺は――これが夢だったら嫌だな。夢じゃなくて現実で、この世界で一緒にいたい。これまでも。これからも」
「はいっ! ふつつか者ですが、よろしくお願いしますっ!」
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