縋る命 1

 アクロイドへ来て七日目の天気は、どんよりと暗い曇り模様だった。黒雲が覆う空はいつ雨が降り出してもおかしくない。湿った風も気分を暗くさせる。

 嫌な天気。ハーニーは起きてまずそう思った。

 既に習慣になり始めている朝の運動。パウエルと合流したハーニーは連れ立って山を登る。最初は辛かった斜面が今は大分楽になっていた。慣れ、とは別に体力がついた実感がある。元々地力がなかったことを考えると、やっと並程度なのかもしれない。

 坂道を越えるといつものようにリオネルの家が見える。

 だが、そこに常とは違う人影が一つ。

 全身黒の正装。喪に服する時の姿でリオネルが曇天の下で待っていた。

 不吉な印象と違和感。いつもならわざわざ外で待っていたりしない。


「来たか」


 開口一番リオネルが放つ言葉は尖っている。優しい老人の面影はない。その目も覚悟を伴った鋭い色をしている。

 悪い予感がした。


「どうしたんです師匠。それにその恰好は……」


 パウエルの質問にリオネルは答えなかった。硬い表情を崩さずに己の話を優先させた。


「今日で一週間。七日になる。最初に言ったな。今日で鍛錬は終わりだ」

「確かにそう仰っていましたが、しかし急では──」

「パウエル。話がある」

「……何です」


 リオネルが言うだろうことを予想するのは容易だった。


「お前は貴族を正そうとは思わないのか」


 パウエルは眉を寄せただけで答えない。


「お前は誇りに生きると言うが、今の貴族にその価値があるか? ……誇れるものか。今の貴族の在り方は間違っている。傲慢が力につながってはならないはずだ。腐敗した世を作るなら貴族は……不要な存在だとは思わんかね」

「否定できない話ですな。しかし、正すというのはどういうことです」

「……弱さを知っている人間こそが上に立つべきだ」

「……そういうことですか」


 パウエルはそう答えただけだった。抑揚はそれほどないのにその音は寂しげに聞こえる。

 そしてリオネルも惜しむようにため息を吐いた。


「やはりお前は変わらないか……」

「頑固なのは師匠譲りでしょう」


 パウエルの皮肉はリオネルの関心を引かなかった。


「どうしてお前はあんな国に尽くすのだ……」


 つぶやきは小さく、しかし肺の奥底から出たような声は心を波立たせる。

 パウエルはそれを聞いてなお毅然とした態度を崩さなかった。


「私にも通さなくてはならないものがあります」

「貴族として民を無下にはできない、だろう?」

「……」


 あからさまなやり取りだ。リオネルの企むものの方向にパウエルは気付いているはず。そうとしか考えられない。なのに、それなのにパウエルはリオネルを止めようとしない。


「残念だよパウエル。息子同然のお前は同じ道を行くと思っていた。いや、願っていた、か」

「私の道は……もう決められています」


 リオネルが「残念だよ、本当に」ともう一度口にした時、その言葉の音の遠さにハーニーは戦慄した。明確な壁ができた瞬間に立ち会ってしまった実感。心細さが背筋を凍らせた。


「鍛錬がないのならここにいる理由はありませんな」

「ああ、そうだな……」

「そんな!」


 やっとの思いで口を挟むが、誰も取り合おうとしない。

 パウエルはリオネルに背を向けた。


「……それでは失礼させてもらう」

「パウエルさんっ?」


 リオネルはぞっとするほど平坦な声色でパウエルを見送る。


「ああ、これでお別れだ」


 パウエルは振り返らない。リオネルは遠ざかるものを眺めるだけ。

 嫌でも分かる。

 このまま放っておいてしまったら終わりだ。これは越えたら戻れない一線。二人の関係が断絶してしまう。

 せっかくの絆が……。


「パウエルさん! パウエルさんっ!」


 呼びかけどもパウエルは反応せず。


「パウエルさん! このままで、このまま終わっていいんですかッ!」


 声は虚しく暗い山に木霊しただけ。パウエルの背は坂道に消えていった。


「く……」

「行ったか……」


 リオネルを睨むように見た。リオネルの顔に悲哀の色はなく、達観した男の顔があった。決意を終えた老人は、齢より遥かに若く映った。


「だからって……」


 自分がもっと早く何か行動していれば。ウィルの時と同じような後悔が先に立つ。

 修業したって何も成長しちゃいないじゃないか。そんな自虐を覚えながら、しかしどうしたって結果は変わらなかったとも思う。リオネルの気持ちは最初から決まっていた。事情を知っているだけに止めようがない。

 それでもハーニーは聞かずにはいられなかった。


「憎まないっていうことはできなかったんですか……」

「憎しみは消せないよ、ハーニー」

「恨み方なんて最初から知らなければっ」

「そんなことは不可能に決まってるだろう。平等など存在しないんだから」

「それでもっ、こんなのは悲し過ぎませんか。二人は師弟の関係なんですよ……」

「お互いに譲れないものがあった。それだけだよ。……君はどうする」

「どうするもこうするも……ッ。勝手ですよ! 皆して!」


 明確な答えを持てないハーニーにリオネルは柔らかい表情を見せた。


「優柔だなお前は。もっと早くお前に会えていれば何か変わっていたかもしれん」

「今からだって変われるでしょう……」

「もう事は始まっているんだよ。私個人の問題を越えている。もう遅いんだ」


 そして改めてリオネルは鋭い視線を飛ばしてきた。


「それで君は貴族の味方をするのかね」


 ハーニーはリオネルを直視できなかった。


「僕は……貴族じゃないんです。貴族じゃないんですよ……っ」


 リオネルは軽く笑った。


「お前みたいな貴族だったら歓迎だったよ。今ここで無理強いする気はない。さあ、行きなさい」


 ハーニーは何も言葉を返せなかった。自分で動かしている気がしない足取りで、リオネルの家を離れていく。

 一度振り向いてみれば、ただ見送るだけのリオネルと家の窓からこちらを睨みつける少年の姿だけがあった。

 リオネルの余裕はどこから来るのか。自分がまた戻ってくると確信しているのだろうか。


「くっ……」


 誰か個人に対するものではない苛立ち。当てもない怒りで唇を噛んだ。悔しさ任せに走る。

 坂道を下るパウエルにはすぐ追いついた。


「パウエルさん! あれでよかったんですか!?」


 パウエルはハーニーの呼び声に背を向けたまま坂を下りるのをやめない。


「師匠は愚かな人間ではない。あそこで師匠を止めたところで事態は好転しないだろう。……勝てる見込みもない」

「そういうことじゃありません! だって……師匠なんでしょう?! それなのにこんなあっさり終わってしまうんなんて寂し過ぎます! 悲し過ぎます!」

「……私も師匠についてある程度知っているつもりだ。姪とその夫のことも耳に入れている。だがな、同情で己を曲げるほど若くもないんだ。信念は曲がらないからこそ意味があるもの。それは誰にとっても変わらない。私も、そして師匠も。貴族として生きた者なら己を曲げることはない。……無理だろう」

「そんな……」

「君がそこまで思い悩む必要はない。私だってこんなことを望んでいたわけではない。……私だって思うことくらいある」

「でも、せっかくの繋がりなんですよ……?」

「そうは言っても私には私自身以外にも背負っているものがある。私は領地を失ったが、いまだ領主であり民を引き連れているのだぞ。果たすべき責任がある。今後のことを早急に考えなければならん」


 大人の言葉だった。それも重いものを抱えた人の。

 それが分かっているからパウエルの決断に物申すことはできなかった。

 誰よりも辛いのはパウエルさんのはずだ。

 そう自分に言い聞かせる。

 しかし、自分にはない長年の絆。欲しくても見つからない親子のような繋がり。そういうものが失われることが悔しくて仕方なかった。





 山を下りたパウエルは、ガダリアからの貴族全員を貸し切った酒場に集めた。全員と言ってもたったの五人。パウエル、アルコー、ネリー、ユーゴ、ハーニーだ。すぐに集まり、事について話される。

 この街で反乱が起ころうとしているということ。反乱が起こるということは既に東国とは話がついていて、迎合する形になるだろうということ。そのため可及的速やかにアクロイドを出たいということ。

 パウエルは最後に重々しい口調で告げた。


「この市民の動きの真意は貴族の有り方に反旗を翻すものだ。そして今の貴族体系が正しいと言えないのは確か。また、我々の戦力は乏しい。アクロイドを出ても過酷な追撃が待っているだろう。……もしも反乱に同調したい者がいれば、それも生き方だ。私は止めない。ただ戦場で会えば容赦はしないということを覚悟して行け」


 抜けたければ抜けろ。そう言っていた。

 一番に応えたのはアルコーだった。酒場に来てすぐ注文した酒を片手に笑う。


「へっ。そういう奴はガダリアを捨てて逃げ出したような奴だろ? 俺はお前についていくぜ相棒」


 そう口にするアルコーの目は濁っていない。

 他の皆も似た顔つきをしていた。


「私は魔法研究をひっくり返さなきゃいけないし、それに私の故郷は旧王都にある。東に肩入れする理由はありませんから」


 ネリーは迷わず断言した。ユーゴは「俺は革命だとか興味ないし、関係ないね。流れに乗るよ」と軽口を叩いた。アルコーがそれに舌打ちするがユーゴは意に介さない。


「この急場だ。そう言ってもらえると助かる。……少数精鋭だな。ガダリア組は」


 パウエルは微笑に安堵の色を浮かべていた。


「そういえばハーニーは?」

「おー、そうだな。ハーニーまだ何も言ってないじゃん」


 ネリーとユーゴの言う通りハーニーはまだ意思表示していない。

 だがパウエルは何も追求しなかった。ただ目を向けるだけ。

 ハーニーは自ら口を開いた。


「僕は……」


 右手に巻かれた包帯に目を落とす。

 本当のところ、どっちが正しいかなんて分からない。そこまで情勢に詳しくないし、貴族が悪い人ばかりだとも思っていない。

 でも確かなのは。


「僕は……リアと一緒にいたい。だから」


 せっかく知り合ったネリーやユーゴと別れたくないのもある。だが何より大事なのはリアがいるからだ。リアはパウエルに引き取られた。その上でリアを守りたいのだから西国にいるべきだろう。それが僕の生きるたった一つのハッキリした理由だから、それに迷いはない。

 そう考えると、パウエルがリオネルに対して、あのように返すことしかできなかったことの訳が分かった。我を通すというのはこういうことなんだろう。


「それでは出発は明朝……いや、早い方がいいな。今晩には出れる用意を徹底させよう。……ガダリア市民にも選択の自由はある。理由は伏せて急遽出立することになったと伝えて、残りたい者には残ってもらおう。もし反乱が起こっても貴族制へのものだ。市民を傷つける意図はない。……そうでなくとも師匠がいるなら大丈夫だ。どう転んでも民に危険はないだろう……」


 苦々しい口調は事実を受け止め難い証拠だった。


「話は以上だ。各々準備をしてくれ。私は皆に伝えてくる」

「そんじゃ俺は馬車でも調達してくるか」


 パウエルとアルコーは迅速に行動を始めた。

 ハーニーはそのまま動けずにいた。

 真っ先に気付いたのはネリーだった。


「どうしたの? 考え事?」


 下から覗き込んでくる仕草にハーニーは数秒悩んで応えた。


「ネリーは貴族とかってどう思う?」


 聞いてどうするのか。参考にするのか。それに従うのか。

 ただ闇雲に分かりやすい答えを探しての質問。周りを窺う心の弱さに自己嫌悪が沸いた。

 ネリーはきょとんとした目になるだけで悩まない。


「どうって、どうとも。最近は確かにひどい貴族が増えてるとは思うけどね」

「ネリーもそう思うんだ」

「も、ってハーニーもそう考えてるわけ?」

「いや……」


 街の総意。リオネルのことを考えての質問だった。

 ネリーはふうと一つ呼吸を整えてキッパリ言う。


「私は名字を奪われて貴族と言えるか分からないけれど、貴族でありたいと思ってる。お父さんのやり残したことを達成するには必要なことだし、魔法が使えるっていう自尊心もあるから。……ま、私は貴族の腐敗を個々人の罪だと思っているから悪印象がないだけかも。ハーニーは何を悩んでるの?」

「僕は正直リオネルさんたちが絶対間違ってるって思えない。でも貴族って言ったっていい人もいるからさ」

「優柔不断ね。そういうの、今はよくないと思う」

「今は?」

「そう。だってあなたにはリアちゃんがいるでしょ? 私はリアちゃんと似た境遇だからなおさら分かるけど、今感じている不安って相当なものよ。こんな状況だったら大人でも怖いのに、リアちゃんが怖くないはずない。それなのに信頼できるハーニーがフラフラしてたらダメよ。虚勢でもいいから強気でいないと」

「……そうだね。リアにとっては戦争も謀反も関係ない。関係ない方がいいのか」


 ネリーは嬉しそうに微笑んだ。


「その方がきっといい。私だったらそれが……」

「それが?」

「ほら、私ってリアちゃんに自分を重ねてるところあるから。境遇が似てて、リアちゃんが喜ぶと嬉しくて、だから私も嬉しくて……あれ?」

「ん? なに?」

「ちょ、ちょっと待って。何か変じゃない? だってこれって……」


 ネリーは急に真面目な顔をして思案を始めた。


「私はリアちゃんに自分を重ねてる。それは独りで寂しかった頃が被るから。リアちゃんに同じ辛さを味わってほしくないからよ? だからハーニーがリアちゃんに優しくするのがすごく嬉しい。……すごく嬉しい。え、何でこんなに喜んじゃうの? 待って待って。それはリアちゃんが幸せだからよ。だから私は……でも、それだけ? ううん、もっと私自身幸せな気がしてる……それはきっと……ハーニーがまるで昔の私に手を差し伸べてくれてるみたいだか……ら?」


 ネリーは結論に近づくほどに顔を朱色に染めていく。


「う、うそ。ありえない。まさか……私にハーニーを嫌う理由がない?」


 なぜか動転した様子でネリーがこちらを見た。


「別に嫌わなくてもよくない?」


 返事とともに目が合う。ネリーの目が泳ぐ。


「え、え、え」

「何でそんな動揺してるんだよ」

「だ、だって人と関わるのあまり好きじゃない私が、こんなに普通にできるのって考えてみたらおかしい……」

「自分で言うのか」


 ふと、ネリーが気付いた。


「分かった! リアちゃんのこともあるし、そのうえハーニーと私は天涯孤独という点で共通してるから何か話しやすいのね」

「そうか。そういえばそうだね」


 僕は家族を知らず、ネリーはリアと似た時期に両親を亡くしているという。


「単純じゃない! ただ、こう、分かってくれそうな感じが……」

「うん」

「……するのよ。ううっ、言わなきゃよかった……」


 半ば独り言だったらしくネリーは顔を両手で覆った。


「なんでこんな恥ずかしいの……? まさか、まさかね……?」

「何の話?」

「な、なんでもないから! ありえないし、ハーニーは何も考えなくていいっ!」


 その慌てぶりはこれまで見たことのない類のものだ。尋常でなく顔が赤いし、声も上ずっている。


「は、話を変えましょ。そうそう。他に大事な話があった。切り替え。切り替えよ私。んんっ。難しい話をするの」


 ネリーは顔を手で数秒覆った。そして顔が見えた時には普段の目に戻っていた。頬は僅かに桜色が残っているが、口調は完全に切り替わっている。


「これからきっと大きなことになりそうだし、情報……というか解釈を共有した方がいいと思ってね。セツ……ううん。身体に宿った精神体について考えたことを話したいのよ」

「何か大げさだなあ」

「大きなことなの。自分の中に自分ではない他人がいるって普通じゃないのよ。元は身体とは別に存在していたんでしょ?」

『はい。元はガントレットに在りました』

「そうでしょ。当たり前よね。魔力は有限と考えられているのが現状。であれば常に魔力を流さなければ動かないようには作らない。戦闘時だけ使えるようにするはずだわ」

「そういえば僕は知らず知らずの内に魔力を流しているんだっけ」

「それで魔力が続いているのは私の理論が根付いたおかげね。やっぱり実証できてる」


 ネリーは得意げに口角を上げた。すぐに話を元に戻す。


「まあそれは今は置いておくわ。私が言いたいのはね、一つの身体を共有しているということ。命と言ってもいいかもしれない。だって片方が死ぬ時はお互いが死ぬ時のようなものでしょ?」


 確かにその通りだ。僕が死ねば魔力が流れずセツは機能しなくなる。つまり死だ。逆にセツが死ぬ時というのは僕が右腕を失う時で、そんな状況でセツがいなくなれば僕はきっと死んでしまう。


「私が言いたいのは一つの命を二つの精神が分かち合ってるってこと。それは常軌を逸したことなのよ。二重人格だってその人の一部でしかなくて、心のどこかで思っていることの発露なの。でもあなたたちは違う。完全に別の精神。心が二つある。それなのに命は一つ。その奇妙な関係は……魔法において強みになると思う」

「強みに?」

「私も最近気づいたけど、この世は思ったよりも不安定なのよ。人の意志に反応して魔素が魔法になるのなら、魔法は不安定な世界を意志によって固定するもの、という解釈が成り立つ。それはつまり、自身が納得できる理屈、理論があれば世界はそのように動いてしまうということなの。……簡潔に言えば魔法は人々が思うほど体系的じゃなくて、自由にできるってことね」


 話を聞いて具体例として浮かんだのはリオネルだった。他者の消えたという認識が自らを消す。そんな考えが魔法になるのだから、魔法は応用が利くものだと分かる。術者が納得できれば魔法は形になるということだ。


「解釈や納得が魔法になるほど不安定な世界に私たちはいる。その上であなたたちの二にして一つの存在を考えると、それはいいことなのよ。特にハーニーにとっては」


 ネリーはあくまで真剣に告げた。


「ハーニー。あなたはね、セツを信じることが自分を信じることに繋がるのよ。それは完全に異なる心の存在でも、自身を守ることに繋がる。相手を自分のように思うことは心理的によくあることだけど、間接的にも自分を他人として信じることができるのはきっとハーニーだけよ。それってあなたにはいいことでしょ? だってハーニーは……私が見る限り自分に自信なんて持てなさそうだもの」

「う……」


 ネリーは柔らかに微笑む。


「魔法使いにとって自信を持てないことは致命的……なんだけど、ハーニーは違うってことを伝えたかったのよ。それが私の見つけた結論。きっとそれって傲慢が力になるよりも人間としていいと思う」


 ハーニーがそれに返事をするより前に、ユーゴが横から割って入り込んだ。


「なーに難しい話してるんだよ。大体お前どこにいたって人を傷つけられる人間じゃないじゃん。それなら強い方についてればいいんだ。戦うことなんか考えずにさ」

「それは他力本願すぎる気がするなあ」


 正直賛同しづらい意見だった。しかし別の意味で心強い言葉でもある。


「でもユーゴがこっち側にいるってことは、貴族側の方が強いってことだ?」

「そりゃそうだろ。貴族の数だけ見ても西の方が多いんだぜ? 東なんて一般市民ばっかりなのに勝てるわけないって」


 ネリーは「それでも戦争を仕掛けてきたって考えると……」とまた自分の世界に入り込もうとする。ハーニーは話が一区切りしたのでやるべきことを考える。


「僕はリアのところに行くよ。街を出ること伝えないといけないし」

「そうね。それがいいわ」

「ああ。それは大事だ」


 賛同も得たし、とハーニーが酒場を出るとネリーもユーゴも一緒だった。


「二人とも来るんだ?」

「私はリアちゃんが心配だし」

「俺は暇だからな。……何でそんな嫌そうな顔すんだよ」

「嫌だからに決まってるじゃない」

「ひでー。なあハーニー。ひでーよなー」

「なっ」


 ネリーがたじろぐ。ユーゴはにやりと笑った。


「お? 何だ、ハーニーに嫌われたくないのかー?」

「邪推めいたことを言うわね……!」

「何のことだか? へへー、ハーニーに言っちゃうぞ~」

「いや、全部聞こえてるからね。それにそんなので嫌いにならないし」

「嫌いにならない……! くっ、優しいわね……!」

「そんな苦渋の顔で言われても……」

「今気を許したら分からなくなるのよ!」

「……全然意味が分からないな」


 さっきから何だか様子がおかしい気がする。


「でもよ、ネリーは俺に辛辣過ぎると思わないか?」


 ユーゴはそう言うが才能の一件から大分態度は軟化している。問題があるとすれ

ばそれは。


「じゃあユーゴ。あんたここ最近どこで何やってたのか言ってみなさい」

「この街の女の子は俺に合わないみたいだ」


 わざとやってるんじゃないかと呆れたくなる。


「そんなことどうでもいいって。さっさとリアちゃんとこ行こうぜ」

「はいはい。行きましょ。ハーニー」

「そうだね」


 結局三人で宿屋へ向かう。見慣れた廊下を歩いて部屋のドアを開けた。


「あれ……? リア? リアー?」


 部屋の奥に進んでもリアの姿は見えない。


「お、おかしいな。一人で部屋を出ることなんて今までなかったのに……」

「落ち着けって。手洗い行っただけかもしれないだろ。外に出ても遠くには行ってないだろうし」

「そうね。焦るのは良くないわ。……ねえ、リアちゃんって一人で出かけたりするの?」


 考え込む。


「一度家の中で家出したことがあったっけ……あ。もしかして」


 ハーニーは部屋に一つだけある木製の衣装棚に歩み寄る。

 ガタッ。


「さてはここだ!」

「み、見つかった?」


 戸を開けると数着の服の陰にしゃがんでいるリアの姿があった。恥ずかしそうに上目遣いで舌をちろりと出している。

 ハーニーは安堵の息を吐いて笑いかける。


「まったく、びっくりしたよ」

「驚かせようと思ったんだもーん」


 リアはそう言った後口をつんとさせて小声でつぶやく。


「……この頃ハーニー山に行ってばっかりなんだもん」

「あー、そりゃハーニーが悪いな」

「ユーゴ? でも確かに僕が悪いか。ごめん。今日はもう帰ってきたから」

「うん! 許してあげよう!」


 リアは上機嫌にふんぞり返って見せる。10歳らしい可愛いお茶目だ。


「……隠れて待ってたって、ハーニーがすぐ帰ってくるって聞いてたの?」


 妙に真剣な顔でネリーが尋ねる。リアは無邪気に笑った。


「ううん! 何となく分かったんだよ!」

「何となく……?」


 ネリーは怪訝な様子だったがユーゴが笑い飛ばした。


「よくやっちゃうことだろ。隠れて待つなんてさ。それにハーニーなら問題ない」

「問題って?」

「見つけられないこと。つーかそんな話してる場合か?」

「そうだった」


 持ち出す物があるわけではないが、心構えはしないといけない。特にリアなんて一度故郷を追われているのだ。


「何かあったの?」


 リアが張り詰めた雰囲気に気付いて心配そうにする。ハーニーは深呼吸して本題に移った。


「えっとね、リア。突然だけどこの街を出ることになったんだ。出発は明日だけどいつでも出られるようにしないといけない」

「……今度はどこに行くの?」


 今度は、という言葉が重くのしかかる。重圧で何も言えずにいるとその隙間をネリーが埋めた。


「西、旧王都ね。私の故郷なの。賑やかで、何でもあって、いいところよ」

「そうそう。女の子も可愛いしな」


 場を和ませようとしてくれる二人に内心で感謝。


「僕も一緒だから。今は少し家を離れてしまうけど、ちゃんと帰れる日が来るから。ね?」


 これから先どうなるか分からない。事実を伝えたくなるのを必死で押し留めた。ネリーが先刻忠告していなかったら言ってしまっていただろう。


「……うん! 着いたらお買い物行こうね!」


 ぎこちない笑顔は気遣いが見て取れた。気を遣わせるのは心苦しい。だからせめて無理してくれていることに気付いてることを伝えないと寂しい。


「……偉いなあリアは!」

「でしょっ!」

「これはいい女になるぞー。間違いない」

「えへへ」


 リアが照れながら喜ぶ。今度は素直に喜んでいた。

 ハーニーはそれからネリーたちに手伝ってもらいながら準備を進める。荷物の少なさは持ってきた思い出の少なさのように感じて寂しくなったが、賑やかにしてくれる皆のおかげで気分が湿ることはない。

 準備も終わりかけという時、部屋にノック音が響いた。ドアを開けるとパウエルが立っていた。


「やはりまだいたか……む? 若者は全員いるようだな。ちょうどいい」

「もうそんな時間ですか?」


 曇り空で分かりづらいがまだ夕暮れ前のはずだ。


「予定では夜だが……少しでも早く出た方が安全なのは確かだからな。三割ほどはアクロイドに残るそうだが市民もあらかた集まっている。いつでも出立できるというわけだ」

「アクロイドのこと放っておいていいんですか?」

「……仕方あるまい。アクロイド防衛へは絶対に参加させないと言われれば、ここにいても邪魔になるだけだ。……それより民は西門に集まっているから、残るは君たちだけだぞ」

「西門に行けばいいんですね」


 パウエルは面食らった顔をした。


「いや、言わなかったか。これから領主に出発することと街の不穏な動きについて報告するところでな。そのついでに君たちを拾って行こうと思ったのだ。つまりは子守だよ。大人として当然だろう?」


 ハーニーは部屋を振り返る。


「リアも連れてっていいですか」

「ああ、もちろん。私もウィルから任された身だ。それが道理だろう。領主の屋敷に行くにはいささか人数が多いが、構わん。精々騒いでくれたまえ」

「結構嫌ってるんですね。領主のこと」

「あれを好く人間がそうそういるものかね。……無駄話だったな。準備を済ませてくれ」


 準備を終え、宿屋を出るとまだ夕時だというのにひどく暗かった。空全体を雲が覆い、べとつく湿気が空気に漂っている。今にも降りだしかねない。

 領主ピエールの屋敷までの道すがら、いやに静かな街中でパウエルが尋ねてきた。


「ハーニー君、君は本当は師匠の味方をしたかったんじゃないのかね」

「……本当は今もよく分かっていないんです。何が良くて何が悪いのか、とか。僕はこれまで外のことなんてろくに気にしないで、自分から何もしようとしなかった。その分が今、自分に返ってきてて……後悔してます。もっと色々知るべきことがあった。そんな気がするんです」


 返事が長いのは質問の中核に触れたくないから。ネリーにはしっかりしろと言われたが、パウエルの前では不思議とそうなれない。


「良い悪いは共存するもので主観によって変わるものだ。難しいのも仕方ない。私には誇りという物差しがあるが、君にはそういうものがないのかね?」

「……あるんでしょうか。自分でもよく……。漠然とした常識は知ってるんですよ? でもそういう自分を動かす根っこみたいなところが自分の中に……」


 ない。

 語尾はため息で流れる。いつだって自分由来の理由はなくて。誰かがいての理由ばかりで。

 パウエルは鼻で笑った。


「かしこまって考えすぎだ。自分が違うと思ったらそうしなければいい」

「でも、もし間違ったら?」

「間違った道だと思ったら引き返せばいい。……私と違って若いのだから取り返しがつく。迷って何もしないでいるのはもうやめたんだろう?」


 慰められている。その事実がむず痒い。


「さて見えたな」


 ピエールの屋敷が視界に入る。黒雲の下に鎮座する巨大な家屋は敵地の城のような威圧感を放っていた。頬を撫でる風は空寒く、夏へ向かう風とは思えない。

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