ガダリア脱出 5

 馬車の列に追いついた時、西への移動は止まっていた。

 暗くて危険であることと、夜通し進むには市民の体力が足りないことから、夜明けまで野営することになったという。突然街を追われ、精神的余裕がないことを考えれば当然の判断だろう。

 そして肝心のタックたちは無事合流して今は寝ているらしい。パウエルに報告した際そう聞かされた。


「お前さん、酒は」

「僕はいらないです……」

「何抜かしてんだ。16過ぎたら酒飲めるのは常識だろうが。飲めよ」

「……分かりましたよ」


 そして今、ハーニーはアルコーと焚火を囲んでいる。

 これからどうするか考えている時に声を掛けられて、押しが強いアルコーに逆らうほどの理由がなかったのだ。


「一日の締めは酒じゃねえとな!」


 アルコーは酒をガブガブ飲む。それだけ飲んで顔も赤いのに、どこか冷静に見えるのは気のせいだろうか。


「どうして僕だけ誘うんですか。ネリーは」

「あれは生意気そうだからいいんだよ。ああいうのは好きじゃねぇ」

「別に生意気ってほどじゃないですけど……」

「俺には生意気するだろうさ。……お前も中々生意気だがな」

「僕が?」

「警戒ほっぽり出してガダリアに戻ったろ」

「それは……でも」


 アルコーは鼻で笑った。


「別にガキが一人いようがいまいが変わらねえよ。理由も聞いてるしな。パウエルの奴は何て言ってたんだ?」

「本来なら私が行くべきところだって言ってました」

「へっ、相変わらず堅物な奴だ」


 親しげな物言いはどこか嬉しそうでもある。


「アルコーさんはパウエルさんと仲がいいんですか?」

「仲がいいなんてもんじゃねえよ。相棒さ」


 懐かしそうな目をして語り始めた。


「あいつとはガキの頃から一緒でなあ。共に学び、共に戦った。所謂戦友ってやつよ」

「へえ」

「昔はもっと気楽なやつだったんだがな。あの時から……」

「あの時?」

「あまり話すもんじゃないか……いや。ちょっと人に聞けば分かる話だな。言っても構わんだろ。あいつは妻を亡くしたのさ。大分前の話だが、それ以来堅物になっちまった」

「奥さんを……」


 聞いてはいけないことを聞いた気がして視線が落ちる。アルコーは悔しそうに舌打ちした。


「あいつだって本当は上流階級の仲間になれたんだがなあ」

「パウエルさん、荒れたんですか?」


 アルコーがきょとんとして、笑った。


「ははっ。馬鹿言うなよ。あいつがそんなことできるもんか。逆だ、逆。何に目覚めたのかあいつは義を通そうとしたんだ。汚職、賄賂、貴族らしくないことを片っ端から糾弾しだしたんだ」

「それは……いけないことですか?」

「いや、そんなことはないが、出る杭は打たれるもんさ。国をまとめた先代の王が崩御して、今は貴族も腐っちまってる。その中で正義を通しても目立つだけ。ミミズが太陽を嫌がるのと変わらねえ。……あいつならもっとうまくやれただろうによ」


 自分のことのように惜しむアルコーを見れば親交の深さはよく分かる。


「ガダリア防衛の話、あったろ」

「え、はい」

「あれだって本当は無理じゃねえはずだった。それができるくらいの戦力は用意されてたはずなんだ。けどよ、ガダリアに配備される奴は腰抜けのろくでなしばかり。都市で問題を起こした貴族や、甘い蜜吸いたい奴らにとって邪魔な貴族が、外へ外へ回されていく。ガダリアはゴミの掃き溜めだったんだ」

「国境沿いの街は大事な拠点なのに、そういう人を送り込むんですか」

「パウエルがいるからな」


 返事は簡潔だった。その声色は緊張を含んでいる。


「あいつは貴族としての立ち振る舞いを気にする。思えば昔っからそうだったな。言われたことはちゃんとやる模範生って感じだ。……だからパウエルは邪魔に思われながらも同時に信用されてやがる。裏切ることが出来ない貴族だ。損な役回りを押し付けても大丈夫、ってな。舐められてんだよ。実力は西国でも最高レベルだってのに」

「そう、なんですか……」


 当たり前のことだがパウエルも色々事情を抱えているんだなあと面喰らう。

 正義を通そうとして左遷され、その先で厄介事を押し付けられる。苦労人だ。


「酔っぱらっちまったかな。随分喋った」

「はあ」

「ん、なんだよ」


 アルコーは酔っぱらったと言いながら、ハーニーの視線に目ざとく気付いている。それに目を合わせようとしてこない。


「何か話があったんじゃないんですか」

「あー」


 とぼけた相槌。

 パチパチ弾ける焚火の音だけが響く。やがてアルコーが重々しく尋ねた。


「お前、殺したか?」

「殺す?」

「言葉の通りだ。お前戦ったんだろ? どうなんだ」


 アルコーの目はハーニーの目を見ていなかった。ハーニーの首辺り。顔を合わせないギリギリの位置を向いている。しかしふざけた色があるわけではない。


「僕は大したことは何も……本当に戦ってたのはネリーだけだったと思います。それにネリーも手傷を負わせたくらいで」

「つまりどっちだ」

「殺めてないです」


 数秒の沈黙の後、アルコーは安堵した。


「はぁ~。そうか。ならいいんだ」

「どうしてそんなこと聞くんです?」

「さあなあ。俺は酔っ払いのアルコーだから、酔ってるんだろうなぁ」


 とぼけるアルコーと目が合うことはない。

 だが、僅かに伏せられたそれはどこか理知的だった。


「……それ水じゃないですよね?」

「これが? 酒に決まってるだろ。お前だってどうだ。美味いか」

「うーん。なんだか気持ち悪くなるだけで……どうしてアルコーさんは酔わないんです?」

「俺が酔ってないだと?」


 ビクッとアルコーが震えたのが分かった。動揺したように視線を彷徨わせるアルコーはずっと年上の大人に見えなかった。


「……どうしてそう思った」

「いつも酔った風な動きしてるのに目が冷めているように見えて……酔ってるふりをしてるように見えたから?」


 適当なことを言うな、だとか、疑問形かよ、とか言われる気がしたが、違った。


「チッ」


 舌打ち一つ。忌々し気な様子にハーニーは震える。


「お前いつも人の目見て過ごしてんのか」

「うぐ」


 パウエルやネリーの言葉が思い出される。人の顔色を見て動くのは情けないと、自分の中の男らしさも責める。

 きっとアルコーも責めるんだろう。

 アルコーは予想に反してそっぽを向いた。


「なに傷ついてんだか。いいんじゃねえのか。それでも」

「……そんな傷ついて見えました?」

「ああ、見えたね。気にしてんだな。面倒な生き方してやがる」

「したくてしてるわけじゃないですよ……」


 意識してやってる? 

 違う。自然と、気づいたらそうしてる。相手の雰囲気や目が語ることを感じ取って、勝手に応じてしまうのだ。そうしないと過ごしづらい場所にいて染みついた癖。


「僕だって分かってます……こんなの情けないって」

「お前のことなんざどうでもいいけどよ。そうだな。ほれ」

「うわっ!? 突然酒瓶投げないでくださいよ!」

「それ、パウエルのとこ持っていけ」

「何で僕が。僕だって少しは眠りたいし、パウエルさんのところにはさっき行ったばっかで」

「うるせえなあ! さっさといってこい!」

「暴論だ……」


 渋々立ち上がる。アルコーに背を向けた時だった。


「お前は戦い向いてねえよ」


 暗い声。ハーニーが振り返る。アルコーはよそを向いたままだった。


「お前みたいななあ、人に気を遣う……遣っちまう奴は殺しをしない方がいいんだ」

「でも……」


 でも、の続きは浮かばない。自分がしなければ誰かが代わりにやってくれる。それが甘い考えだと分かっていて、だからこそ出た「でも」。だからといって自分が何とかすると言えるのか。言いたいのか。その答えは見つからない。

 それを見透かしたようにアルコーは嘆息した。


「分からないわけじゃないだろ。若い奴がやるべきじゃねえ。やるなら老いた俺みたいな……」


 アルコーの言葉は中途に切れる。


「チッ」


 何も続くことはなく舌打ちだけが放たれた。


「……いや。ほら、いけよさっさと」


 アルコーはそれ以上話す気はないと言わんばかりに酒を呷った。ハーニーは流れのままにその場を離れる。何度か振り返ってみてもアルコーはただ酒を流し込むだけだった。


「何だったんだろう」

『軟弱な態度に文句があったのではないでしょうか』

「君は直截すぎてたまに嫌だね……」


 話しながらハーニーはパウエルを目指す。

 パウエルは先程と同様、馬車群の中央にある荘厳な馬車の横にいた。馬車の外、焚火から少し離れたところで空を眺めている。何をしても様になるのに感心した。


「何か用かね」


 こちらを見ずにパウエルが言った。周囲を確認した素振りはなかったのにバレている。これが格の違いなのだろうか。


「これ、アルコーさんが持って行けって」

「アルが……ふっ。酒なら何でもいいのは変わらずか」


 受け取りながら苦笑する。銘柄に何か思うことがあるらしい。


「本当なんですね。仲いいの」

「ん? ああ、幼いころからの付き合いでな。あいつはいい奴だ。……一杯やっていくかね」

「え、僕が……ですか?」

「他に誰がいる。若者と酒を酌み交わすのは大人の楽しみだ。それに話したいこともある。少し待っていなさい」


 パウエルは瓶のコルクに手を持っていく。さっと手が動いた瞬間、コルクが煌めき、消えた。凄まじい熱量で消し飛ばしたのだと気付いたのは、焦げた匂いがハーニーに届いてからだった。


「こちらを」

「あ、どうも」


 いつからいたのか分からない執事服を着た老人から木製の容器を受け取る。60代に見える執事は優しく微笑んで下がった。


「何も考えずに誘ってしまったが、体はどうだね」

「寝なきゃいけないのは分かるんですけど、目が冴えてて眠れる気がしません。腕は動かさなければ痛くないし、疲れただけです」

「腕か。アクロイドには湯治の湯もある。そこで少し休むといい」

「はぁ」


 湯治がよく分からず生返事。

 考えてみればガダリアを出たのは始めてだ。記憶がないから新鮮な気がする。

 ちびりちびりと少しずつ酒に口を付けているとパウエルが話題を提示した。


「二度目の実戦はどうだった」

「……なんか必死で、いっぱいいっぱいで何も……。なんだか現実味がないんです。本当に僕がやってきたのか信じられなくて」

「私も最初はそうだったよ」


 パウエルが見たことのない柔らかい笑みを浮かべる。


「私も強い強いと言われるが、最初からそうだったわけではない。怖くて仕方なかったものさ」

「そうなんですか」

「意外かね?」

「あ、いや……」


 動揺する。そんなに顔に出していただろうか。

 どう言えば収まりがつくのか考えている内にパウエルの苦笑が緊張を割った。


「相変わらず人の目を気にするな君は」

「それは……やっぱりそうなってますか?」

「やれ、自覚もない。重症だな」

「……別に、そこまで悪いことですか。アルコーさんだってそれでいいんじゃないかと言ってくれましたよ」


 パウエルは大げさにため息をした。今まで見てきて一番人間らしい振る舞いだった。


「確かにそこまで悪いことではないのかもしれないが、選択を周囲に委ねるところまでいくのがよくないというのだ。今も、自分でそう思えたならよかったな。アルを引き合いに出さなければ何も言わなかった。こう言えば分かるかね?」

「うぐ」


 整然とした理屈に赤面する。悔しいが何も言い返せない。


「若いな」

「すみません……」

「褒めている。真っ直ぐであることは悪いことではないだろう。多少、過ぎる気もするがね」

「僕はそんなに素直じゃないと思いますけど」

「自分は我慢している。そう言いたいのか? それも素直な内だ。隠す必要もあるまい」

「……知りません」


 我慢が自分の性質の一つだと言われた気がして、話をぶつ切りにした。自分でも気づきたくないところまで看破されそうだと感じるが、なぜかこの場を離れようとは思わない。

 不思議な貴族。

 パウエルの印象はこれだった。正義を行う人という肩書は胡散臭く聞こえるのに、全ての振舞いに気品があるパウエルは、正義を為してもおかしくない心象がある。納得させる威厳があるのだ。

 年を重ねればここまで完璧になれるんだろうか。


「パウエルさんは……どうして貴族なんです?」

「どうして。それはまた抽象的な質問だな」

「あっ、えっと、なんでそんなに……そうしていられるんです? あれ? 僕が言いたいのはこんなのじゃなくて……」

「いや、分かった。君の聞きたいことは分かった。だが、君が聞いて納得するかな」


 パウエルは淡々と言ってのけた。


「以前言った通り、私は誇り高く、そして貴族らしくあろうとしているだけだ。そういう誓いを立てたのだよ。もう、随分も前にね」

「……」


 簡潔な言葉には、強い思いが見て取れた。そのせいか言葉を返す気になれず黙っていると、パウエルが頬を緩めた。


「そこで詳しく聞かないところが君らしさなのかもしれんな」

「それって情けなくないですか? 僕らしさがそんなものなんて。踏み込む勇気がないって言われているような気がします」

「君がそう思うのなら、そうなのかもしれん」

「なんですかそれ……」


 パウエルといると自分がとても小さい存在に感じてならない。歯噛みするのは悔しさか。負けたくない気がする。

 ……もしも、もしも父親がいたのならこんな感じなんだろうか。


「さて、本題に移るとしよう」


 パウエルが顔を引き締めた。


「私たちはこれからアクロイドに向かっている。西の方角だ」

「はい」

「だが妙な知らせがあった。君が戦ったウィルの屋敷には死体が二つしかなかったらしい」

「二つだけ?」


 思い出す。二人はウィルが始末したという。もう一人。僕が相手したあの侵入者は……。


「たぶん気絶させただけだ……」

「やはりか。そして目撃情報がもう一つ。黒装束の男が西門から出て行ったというのだ。これを考えるとアクロイドに着いても安心できないかもしれん」

「そうですか……」


 不透明な未来にため息が出た。これからどうなるのだろう。そんな思考をパウエルが止めた。


「話は変わるがアクロイドには私の師がいる」

「え?」

「君は師を持つべきだと思っただけだ。私が口添えしよう」


 急な話にハーニーは動揺する。


「パウエルさんじゃダメなんですか」


 自然と出た言葉。パウエルに見たこともない父親を重ねたせいか、口をついて出たのはそんな言葉だった。

 パウエルは寂しげに「どうだろうな」と笑った。パウエルらしからぬ婉曲な拒絶だった。





 現在位置はアクロイドとガダリアの間。一日歩き続けてアクロイドに着く程度の距離だと聞いた。となれば、当然ここはガダリア領外であり、そう考えるとハーニーの足は浮足立つ。

 ハーニーは一度もガダリアを出たことはない。3年前、気付いたらガダリアにいた。

 最初、流れ着いた記憶のないハーニーをどうするかという問題は街で結構な争いになった。

 魔法を使えるのなら貴族に連なる者だ。今は分からずとも利用価値は出てくるだろう。

 引き取りを申し出た全員の目論見がそれだった。最終的にウィルが引き取ることになったのは、最大の権力者だったからに相違ない。ウィルはハーニーを普通に扱ってきたがガダリアから出したことは一度もなかった。その理由はハーニーも聞かされていない。

 僕を手放したくなかったから、だとかそういう理由だといいな。その程度の認識だ。

 とにもかくにもハーニーはガダリアを出たことがない。外の世界のことは書物などの知識でしかない。そのせいなのか。


「眠れない……」


 身体はこれでもかと疲れて、頭もぼんやりしている。それでも心がざわついて落ち着かない。

 ハーニーは芝が覆う地面の上で横になっていた。頭の辺りに衣服を重ねた枕代わりがあるだけの、大地の寝床。

 周囲にはガダリアの男たちが寝ている姿があった。皆酒で気を紛らせたのだろう。いびきがうるさい。それも眠れない理由の一つだ。


「贅沢だったのかな」


 今までベッドを当然のように使えていたことがどれだけ恵まれていたか実感する。もしもウィルが死ぬ前にそれを感じていたら何か変わったかもしれない。それともたかが寝具の違いだろうで済ましただろうか。


「リアはどうしてるだろう……」


 リアは家政婦とどこかの馬車で休んでいる。ガダリアの中央広場で眠ってからずっと眠りっぱなしらしい。

 ……疲れていて当たり前か。


「だめだ。寝れない」


 ハーニーは立ち上がって近くで起きていた男に水はないか尋ねた。彼は「ああ、それなら向こうの方に清流があったよ」と林の中を指差した。

 言われた通りに進みながら考え事に耽る。

 アクロイドに行くのは初めてだ。いや、これから向かうところ全てが初めてだ。そのどこにでも僕の親や家族がいる可能性がある。どこかで親に会えるかもしれない。それは怖いことだけど、純粋に会ってみたいと思う。会えばそれがきっかけで記憶が戻るかもしれないし、それでウィルさんの願い通りリアを守れるかもしれない。

 ……僕の居場所だってあるかもしれない。

 そういえばパウエルさんの言っていた師のことも気になる。


「……?」


 不意に温かい空気を感じた。湿度を含んだそれは春の夜にそぐわない。気のせいでないと確信したのは、場違いな物を視認したからだ。


「け、煙?」

『いえ、これは湯気ですね』


 無感情な声の言う通り確かに湯気だ。夜闇で黒く見える草木を白く染める湯気。


「なんでこんなところに?」


 恐る恐る湯気の出どころに近づく。発生源は、地面にぽっかり開いた穴だった。そこに温かそうなお湯が溜まっている。知識の上でしか知らない、温泉と呼ばれるものだ。


「はぁ~やっとゆっくり休める~」

「っ?」


 急に声が聞こえてハーニーは最寄りの木に隠れた。そのまま湯気の向こうを窺うと、見知った人物に気付く。

 ネリーがその小さな温泉の横で屈んでいた。


「ネ……」


 呼びかけようとして、見惚れた。

 ただ髪をかきあげて後ろで縛る行為なのに、どこか物憂げな表情も合わせ、普段と異なっていて圧倒された。


『何をしているんですか』


 いつも以上に冷徹に聞こえる声に、はっとした。


「うっ。いや、あの、僕は呼びかけようとして……」

『だったら早くすればいいでしょう』

「そ、そうだよね。僕もそうするつもりだった。……うわ」


 右腕から顔を上げてネリーに目を向けて唖然とする。

 ネリーは服を脱いでいる真っ最中だった。白い空気よりも滑らかな白色が露わになっていく。普段は慎ましいはずの胸が急に主張しだしたように感じて目が引き寄せられた。

 着痩せする方なんだ。

 そんな場違いな感想。そして我に返ると動揺がやってくる。


「え、え、なんで? あ、これ温泉だからおかしくないのか。ど、どうしよう」

『覗きとは最低ですね。私を使う者としても悲しいことです』

「わざとじゃないっ! わざとじゃないよ!」


 動揺で声が大きくなる。それが悪かった。


「誰っ?!」

「うわっ!? ごめん! ごめんなさい!」


 木陰を出て咄嗟に謝る。目を瞑って手をぶんぶん振って訴えるが、内心は身構えていた。

 あのネリーだ。絶対に怒る。烈火のごとく怒って、魔法だって放ちかねない!


「……。……?」


 来ない。戦々恐々としながら目を開ける。

 依然としてネリーはいた。しかし予想とは全く違った形でそこにいた。

 ネリーは身体をかき抱いて隠しながらこちらに背を向けていた。怯えるような背は華奢で純白。なだらかな肩に僅かにかかる金髪は僅かに濡れていて扇情的だ。見返りながら向けられた瞳もまた濡れていたが、数瞬してその色は元通りになった。


「……ハーニー?」

「こ、これは違くて……! 見てない! 見てないよ!」


 ハーニーはあらぬ方を見ながら訴える。


「夜なのに私が気付かなかったなんて……」

「ごめん! 本当に悪気はないんだ! 湯気が見えてそれで」

「誰かがお風呂に入ろうとしているかもしれないと思ったってこと?」

「違う! だっておかしいじゃないか! こんな森の中に突然温泉なんて!」

「ああ、これね。これ私が魔法で作った温泉なのよ。常にお湯取り替えてるんだから」

「ああ、うん。そう……」


 すごいけど感心できない。絶対変だ。


「……とりあえず知らない人じゃなくて良かった。ハーニーね」

「そ、それってどういう……」

「別に他意はないわ。ただ、知らない人に気付けなかったなら私も自信を失うからね。ハーニーだったら気付けなかった理由も頷ける」

「理由って?」


 尋ねるとネリーぼおっとつぶやいた。


「たぶん私は今ハーニーのことを考えていて……」

「僕?」

「……何でもない。とにかくこっち見ないでね。見たら軽蔑する」

「軽蔑」

「ハーニーには魔法より何よりも、きっとそれが怖いでしょ?」

「……うん」


 ネリーは僕のことをよく分かっている。それは嬉しい気がするけど、少し怖い。おかげで冷静になれたけど。

 落ち着いた耳に聞こえたのはザブ、とお湯に浸かる水音だった。


「って、ええっ! ネリーはそれに入るの!? 今僕がここにいるのに!?」

「その方が見えづらいでしょ。それに寒いし、もったいないし」


 さも当然のように言うが、そのせいでハーニーはまた動悸が早くなる。熱気が理由ではない水滴が、頬を伝う。


「も、もしも誰か来たらどうするんだよ」

「来たら私は気付く。それにこっちにくる人なんていないから」

「でもこっちには水が飲める清流が……」

「それって真逆の方よ」

「あの人勘違いしてたのか……」


 内心で恨む。


「というか、僕が来ても気付かなかったじゃないか。それなのに本当に分かるわけ?」

「普通なら分かるのよ」

「今は普通じゃない?」

「誰のせいだと思ってるの、誰の」

「え、僕なの?」

「……はあ」


 ため息一つが返ってくる。


「……」

「……」


 やってきた沈黙に居たたまれなくなる。


「そ、それじゃ僕は……」

「待って」

「え!」


 その場を離れようとしたのを呼び止められ、ハーニーは意図が読めず激しく動揺する。

 しかし浮ついた感情はネリーの言葉で静まった。


「ねえ、これから私リアちゃんに話しかけていい?」

「リアに?」


 唐突すぎて聞き返す。ネリーは声を荒立てることなく、少し細い声で繰り返した。


「私が、リアちゃんに、話しかけていいですか。そう聞いてるの」

「それは……いいんじゃないかな? 僕が決めることじゃないし。でもどうして突然?」

「……私ね、あの子のこと他人って思えないのよ」

「どういうこと?」

「私もね、小さいときにお父さんを亡くしてるの。母親がそれより前にいなかったのも同じ……似てるでしょ? だから、ね。過去の私が今そのまま現れたみたいに感じて」


 すらすらと並びたてられた言葉は、頑張って明るく振る舞っているように聞こえた。


「別に何かしてあげられることがあるわけじゃないの。でも近くに居るだけでいいってことってあるから。私にはそれがよく分かるから……いい?」

「……いいに決まってる。どうしてそんなに不安そうなんだよ。ネリーらしくない」

「何でかしらね」


 ネリーが笑う湯音。から笑いに聞こえた。

 ハーニーは自然と聞いていた。


「落ち込んでる?」

「……なんだか小さい頃のこと思い出しちゃってね。お父さんのこととか。そしたらリアちゃんが私と被ったのよ。だから今はそういう気分。誰かに何かしてあげたいし、自分にも何かしてあげたい」

「どうして突然思い出したのさ?」


 ネリーはぼんやり言った。


「守ってみせるって」

「え?」

「……言ったでしょ。あの時。ハーニーが助けてくれた時」

「ああ。うん。言ったかも」

「……懐かしかったのよ。私、この4年間一人で旅をしてたし、それに全力で守ってもらうなんて小さいころ以来な気がして……うう? 私恥ずかしいこと言ってない?」


 ネリーは恥ずかしがるが、ハーニーはかえって心が穏やかになった。


「……僕は必死でネリーを守ろうとしたけど、それがネリーにお父さんのこととか思い出させちゃったってことだよね? きっと恥ずかしいことなんかじゃないよ。普通だよ」

「こういうことには理解が早いのね。何かムカつく」

「何でだよ……」

「ま、恩返ししたい気分なのよ。助けられたわけだし、それくらいしたいでしょ」

「うん」


 居心地の悪くない静けさが辺りを満たした。湯気が身を包んでくれているような錯覚の中、ハーニーは純粋な疑問が頭に浮かんだ。


「……僕も誰かに抱きしめられたら、懐かしかったり思い出したりできるのかな」


 慌てる水音。


「だ、ダメだからねっ!? 私ほら! 今服着てないし!」

「え。今じゃなかったらしてくれるってこと?」


 ハーニーはネリーの女の子らしい柔らかさを思い出して顔が赤くなる。それを察したのかネリーはすぐに否定した。


「こ、言葉の綾! そういう意味じゃなくて……ハーニーが私にそうしてほしいみたいに聞こえたのよ。だから勘違いしただけ。それだけだから」


 跳ねる水音はネリーの焦りを分かりやすく物語っていた。

 それにしても、僕はネリーにそれを望んでいたのだろうか。……いや、誰にしてもらうとかは考えていなかったはずだ。ただ、抱きしめられたら懐かしさを覚えるのかなって期待しただけで。

 ネリーは少し熱っぽい調子でため息をつく。


「まったく。ハーニーといると妙に調子が狂うわね」

「ごめん」

「別に。ハーニーが謝ることじゃないでしょ? 悪気がないのは分かってるから」

「う、うん」


 分かってるから。

 それは自分の望む、親という存在が言いそうな言葉に感じて動揺する。それは温かく、同時に寂しさも呼んだ。

 そのせいだろう。尋ねたのは親に関することだった。


「お父さんってどんな感じ?」

「どんなって、私の場合はねえ……いい父親だったかな。ずっと一人で私を育ててくれて、それでも夢を捨てなかった。言ったっけ? 私が今調べてることはお父さんの引き継ぎだってこと」

「聞いてない」

「そ。ま、そういうことなの。夢半ばで死んだ父の敵討ち」

「敵って……なんか違くない?」

「いいでしょ別に。それくらい気概があるってことね。お父さんが教えてくれたことは反骨精神だったし」

「なにそれ」

「そのままの意味。お父さんがよく言ってたの。心の中でいつもどこかで抗いなさい、って。どんなにそれが正しいことだとしても心のどこかで違うんじゃないかって考えを持ちなさいって。妄信的になるなってことかしら。たぶん」

「心のどこかで抗いなさいかぁ」

「研究者としての心構えだったのかも。どう? 満足した?」

「あ、うん」


 誰にだって親はいるということが心強い。自分にもいるだろうという希望が輝きを増す。

 「とにかく」ハーニーは振り払うように話を戻した。


「リアと話していいから。いいどころか話してあげてほしい。僕って男だし、それに僕って」


 親のこととか知らないし。その言葉は放たれることなく内に消える。

 ネリーが水音をたてた。


「ん。分かった。話してみる」


 素直でしんみりした言葉。気弱とも取れるような優しい声色。

 その後導かれるように出た言葉は、ネリーの動く音を消した。


「ほんとにネリー?」

「は……?」


 やってしまった。普段から無意識に気を付けている迂闊な発言。会話の落とし穴を踏まないようにいつも気を付けているのに、今に限ってそれを踏み抜いてしまった。

 僕らしくない?


「いつもうるさくて悪かったわね!」

「ごめん! ごめんなさい!」

「私だって思うところくらいあるんだから」

「うん……」

「今ので恩一個帳消しね」

「気にしなくていいのに……ん? 一個って何?」

「一個目は私を蹴っ飛ばしたアレ。もう一個はその後不意打ちから守ってくれたアレ」

「一緒じゃないのか……」

「ふんっ。そのうち礼はさせてもらうから」

「なんかひどい目に遭いそうな気がする」

「なんですって!」

「わわ、それじゃ僕は行くから!」


 そのまま振り返らずに走った。

 湯気も見えなくなるほど離れてからほっと一息。


「皆に人の顔色見てばっかりって言われるのに、どうしてこんな迂闊なこと言っちゃったんだ」

『気が置けるというやつでしょうか』

「っ! も、もう驚かないよ」


 嘘だった。突然話し出されるのにはまだ慣れていない。


「……君はどうしていつも黙ってるのさ。話していいって言ったよ?」

『いけませんか』

「悪いとは言わないけど、なんか不安になる」

『なぜです』

「なぜ……なんでだろ。言いたいことを我慢してるんじゃないかって感じるからかな?」

『……』


 セツには珍しい応答の間の沈黙。


『あなたは道具の機嫌まで窺うんですね』

「なっ」


 怒り、かける。感情が怒りに達することはない。自分を見直す余裕はあった。


「……はあ。やっぱり、そうなのかなあ」

『怒らないのですね』

「怒るには少し……ね」


 最近、いや。たった一日でそればかり言われている。関わる人皆が僕を弱気と評価する。ここまで言われるとそれが僕の本質である気がしてしまう。

 セツは僕のご機嫌伺いはしない。つまりそういうこと、なんだろう。


「なんか別に良い気がしてきたよ。人の気持ちを気にしてばかり。ご機嫌取りだとか言われても、そうすることに納得できる自分がいるのは本当だ。それが間違ってると思わないから、これでいいのかもしれない」

『主体性を失うのは人としてどうかと思います』

「そこまで委ねなければいいんでしょ? パウエルさんも自分で決断できるならいいって言ってたし。だからこのままでいいかな」

『今は自分のみで決断できていない様子ですが』


 痛いところを突かれて苦笑が漏れる。


「君は結構厳しいよね」

『お気に召しませんか』


 肯定の返事を勝手に思い描いていたせいで、言葉が詰まる。しかしすぐに頬は緩んだ。


「そのままで……いいかな」

『はい。それにこれからは積極的になるようにしてみます』


 何に積極的になるのかは分からなかったが、それでいい気がしたのでハーニーは頷いた。


「君は本当に人間みたいだよ」

『人工精神とはいえ、人のものと遜色ないものだと以前は話したと思いますが』

「……そうだったね」


 道具に宿っていたということ。感情を悟らせない平坦な声色。合理的な思考。色々な面が人らしからぬ印象を作り出している。

 でも、なんとなく分かってきていた。

 セツは思うことや考えることができて、人の心の機微を追いかけることだってできる。抑揚のない声は無感情で冷徹な印象を生むけれど、中身はすごく人間らしい。

 まだ曖昧にしか分からないけど、これから関わっていくうちに色々分かっていけるのだろう。

 ハーニーは不思議と胸が高鳴った。

 人間を相手にするのと何も変わらない。

 そう思えた。

 馬車の方へ歩きながら、無言がもったいなく感じてハーニーは話しかける。


「ねえ。親って何だろう」

『育ててくれた人でしょう』

「生んでくれた人じゃなくて?」

『生みの親と育ての親で分けられているので』

「ふうん」


 どっちも似たようなものだとハーニーは思う。どっちにしろいるならいいことだ。それだけでいい。十分幸せだ。


「僕にもいるよね?」

『いなければあなたはここにいません』

「そりゃそうだ」

『……貴族の家だけを探せばいいのなら、ずいぶんと探しやすいと思います』

「ネリーは貴族に限らないかもって考えだったけど……」

『それでもこちらの方が確率は高いでしょう』

「……慰めてくれてる?」

『私にも研究所で創出された以前の記憶はありません。それ以前があるのなら、純粋な知識欲として知りたいと思います』

「へえ」


 セツの明確な意志。願望を唱えるセツに驚きながら考えに耽った。

 セツもまた、自分と同じように過去がないという。自分はあるのに覚えていないだが、セツにはそれ以前があるのか分からないというものだ。それは前世とかそういう次元の話になるのだろう。だからセツの言っていることは、僕の欠けた自分を埋めたいという願望とは違う。

 それでも、自分と似た境遇に思えて親近感が湧いた。


「いつか……探しに行こうか」


 あるかも分からない記憶。どこにいるのか分からない両親。どちらも含めて言った。


『私に決定権はないので』


 あっさりした返答。

 嬉しいだとか、悲しいだとか、そういう感情が見えないのは最初から。それでもどこか嬉しそうに聞こえたのは押し付けではないはず。


「これから先、か」


 あてもない先。不明瞭な未来。

 しかし目標を一つ作っただけで、進むべき道が見えたような安心感が自分を支えてくれる。

 それは欠伸を呼ぶほど心強いものだった。


「眠くなってきた」

『よかったですね』


 セツの言葉が慈しむように聞こえてハーニーは照れ笑った。それから眠りに落ちるのに時間はかからなかった。

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