湖畔の魔女 6

 リインフィルの家の周りに女の子の姿はなかった。迷ってしまったのかもしれないと思い探しに行こうとすると、リインフィルに「大丈夫よ。あなたは伝えたんでしょう?」と玄関で引き留められた。


「でもあの子、小さかったんですよ。十二、三歳くらいに見えました」

「この湖には、あなたは特例だけど、人は入れないのよ。それにここは魂が形を持つ場所と言ったわ。つまりその子も霊体なの」

「あの子が?」


 詳しく見ていないが、生きている人と何も変わらず見えた。

 ……いや、シノも同様に見分けがつかなかった。リインフィルが正しいのだろう。

 だとしても。


「あの子は化け物に襲われてましたよ」

「マリちゃん」

「え?」

「マリちゃん。マリスでもいいわ。化け物って言わないであげて」


 リインフィルは怒っていない。ただ間違いを指摘するように言った。

 このことも後で説明してもらわなくちゃな、と思いながら言い直す。


「その、マリスは女の子を襲ってました。幽霊でも危ないんじゃないですか」

「言い方が悪かったわ。私が言いたかったのは幽霊だから大丈夫ってことじゃないの。その幽霊、魂が誰か分かるんだから大丈夫でしょう、ってこと」

「誰です?」

「セツちゃんでしょう?」


 一瞬、意味が分からなくなった。


「え、どうしてです?」

「湖の結界は人であれば生死を問わず拒絶しているわ。そしてこの湖には元々私しかいないの。ということは、魂があればそれはあなたが連れてきたもの。シノちゃんでないなら一人しかいないわ」


 リインフィルからすれば当然のことだったのかもしれない。だがハーニーはすぐに受け入れられなかった。

 あれは女の子だったのだ。どこからどう見ても生きている女の子。声だって悲鳴しか聞いていないが無機質ではなかった。自分の知るセツとあまりに違いすぎる。


「その、魂ってどう形になるんです?」

「そのままでしょう?」

「いや、セツには元々形がなくて、僕の腕にいたんです」

「……心の形と言った方があなたには分かりやすいかしら。その子にとってその姿が一番ふさわしいと思えるもののはずよ。他に言いようがないわ」

「あれがセツ……」

「きっと結界に衝突した影響で自分を見失っていると思うけど、あなたの言うことは聞くでしょう。繋がっているんだから。大丈夫って言ったのはそういう意味」

「今は離れてますよ」

「心の話よ。さ、入って。話はきっと長くなるわ」


 ハーニーはドアを抜ける前、一度空を見上げた。もうほとんど夜になっている。明かりがないから月や星が輝いていた。湖は異形の出どころなのに、湖面に映し出す月は空のものと美しさは変わらない。

 ……今頃皆はどうしているだろう。ユーゴは皆と合流したとして、僕のことを探しているだろうか。それとも一旦旧王都に戻っただろうか。どちらにせよ急に消えたのだから、皆心配しているに違いない。リアは泣いているかもしれない。楽しいお出かけになるはずだったのに。

 目を戻すと暗い家の中でリインフィルが目を伏せていた。


「……あなたはすぐに帰すわ。セツちゃんもすぐに見つかる。朝探しましょう」

「あ……ごめんなさい。気を遣わせて」

「私は約束通り心を読んでいないフリもできるのよ。気にしないで」


 私がしたくてやっていること。そう遠回しに言うのは彼女なりの優しさだろう。僕は気を遣われると申し訳なく感じるから、それを分かっているんだ。

 この性格も直していきたいな。

 少し前向きになってハーニーはドアを閉めた。室内は暗い。


「今火を付けるわ。──リルファイア」


 部屋の壁に掛かっている燭台に火が付く。蝋などないのに火が灯るのは、魔法のおかげだ。


「変わった名前の魔法ですよね」

「あら? 今はないの? リルファイア」

「そうじゃなくて、古西語ですよね。皆、魔法は共通語だから珍しくて」

「そうなの。じゃあ東のあれが流行ったのね。なんだったかしら。八色四層?」

「魔法の基本って教わりましたけど、リインフィルさんは違うんですか?」

「ええ。でも似たようなものよ。魔法の過程なんて変わらない。私はあなたでいう……一層赤魔法? をファイアボールって言うけど、呼び名は違うだけで同じものでしょうし」


 文化が根底から違うようだ。しかし、聞く限り数百年はこの魔法常識で続いている。


「ラ・エスタって遠いところなんですか?」

「……そうね。とっても遠いのかもしれない」


 感傷的な言い方に聞こえたが、すぐにその調子はなくなる。


「まあ、この話はいいわ。あなたには必要なことだけ説明してあげる。セツちゃんを見つけたらこの地を離れるでしょうから」


 まるでこの地に残らないと全て教えてくれないような言い方だ。


「あら? ずっといてくれるの?」

 からかうような笑みが飛んでくる。

ハーニーは柔らかな表情に誤魔化せない眩しさを覚えて、目を下に背けた。


「あ、いや、その」

「分かってる。冗談よ」


 本当に?

 人を窺い見てばかりいた自分の感性は疑っている。

 でも言えない。僕には帰る場所がある。


「うふふ、感応背景を見れないならもっと鈍感でいればいいのに」


 くすぐったそうに笑う。暗にこの地にいてほしいと肯定していた。

 僕は何て言えばいいんだろう。

 分かる前にリインフィルは話を変えた。


「マリちゃんの話。簡単に説明するわ。あれはね、人の一部なのよ」

「あれが人?」

「人、というよりも人の持つ感情の一端。喜びや幸せと逆に位置する想いが形となったもの。何度も言ったから覚えたでしょう? この土地は魂が──想いが力になるの。それは魂魄もそうだし、そういった負の感情も同じ」


 想いが力になる場所。意味は分かる。シノのように殺意が形になるということだ。

 納得できないのはあの異形の存在が想いの結晶という点。あまりに邪悪な気配をしていた。暴力性を体現したかのような暴れ方だった。

 あれが人の持つ感情だって?


「あなたの直感は正しいわ。あれは個人の持つ感情じゃない。あれは今を生きる人々全体の想いの悪意の発露だから」

「人全体? 皆の想う悪意なんですか? あれが」

「いい? 感応背景があるように、この世界の人たちは皆繋がっているの。正確に言えば、この世界には魔法を形作る空気みたいなものがあってね、想いによって形を変えるのよ。つまりそれが魔法」

「ちょ、ちょっと待ってください。それって魔素のことですか?」

「マソ? エーテルとエレスとか呼び名は色々あるから知らないわ。でも魔法を知っている人なら常識でしょう?」

「え」


 心底不思議そうにされるがハーニーは寒気すら覚えた。


「どうかしたかしら」

「い、いえ。僕の友人が親子二代で証明しようとしていることをリインフィルさんは簡単に言う。僕の知る常識だと魔法は発現者の内にある魔力を元としているんです。それが当然のように皆に受け入れられている」

「変ね。根源を知ろうとすれば気づくものなのに。……まあ、ね。世界は変わり行くものだから、今はそういう時代なんでしょう。私は作為的なものを感じるけれど」

「時代って、リインフィルさんはまだ若いでしょう」

「あら、嬉しいこと言ってくれるのね? 二十七歳にしては若く見えるでしょうけど」


 二十七!?

 驚きを表に出さないようにするが、リンフィルには通じない。少しだらしない笑顔が驚愕を喜んでいた。


「話を戻すわ。で、あなたのいう魔素があるとして、魔法が想いの発露であるなら、人々の無意識化の感情はどうなるかしら? 例えば……戦争で家族を亡くした人は、辛い苦しみと憎しみを覚えるでしょう。でも人には理性があって、力のない者は我慢する。せざるを得ないのね。その時抱えた悪意はあて先がない。結果、世界に溜まるのよ」

「感情が世界に残るっていうんですか?」


 リンフィルは目を瞑って思いだす素ぶりをしながら語る。


「もちろん悪意がそのまま形になるわけじゃないわ。でもね、想いが魔法になるということは、想いすなわちエネルギーということなの。誰かが蹴とばした小石は、何かにぶつかるか、空気の抵抗を受けないと止まらない。悪意も同じで、想いが生まれた以上、エネルギーは受け止めるものがないと消えずに堆積するのよ」


 話を見失いそうになる。


「ええと、その蹴りだされた小石が悪意で、魔素によって力になり、受け止めるものがないから溜まって……?」

「溢れだしたのがマリちゃん。この湖は世界のおへそなの。だから私はここを閉じて、マリちゃんが外界に出られないようにした。ほら、マリちゃんって悪意で出来ているから暴力の権化でしょう? 外に出ていったら破壊の限りを尽くして、また負の感情が溜まる。悪循環で世界は暗くなっていくわ。そうなれば生への諦念が蔓延する。世界の継続には前進する気持ちが必要なのに、ね」


 ハーニーは口をぽかんと開けたまま聞いていた。

 荒唐無稽な話だ。ネリーの魔素は第三者から肯定され、その上人の悪意が化け物になっているという。


「化け物って言い方は好きじゃないわ。あの存在も私たち人より出でたものなのよ? だから私は悪く言わない。……極端な話、仕方ないでしょう? 悪意なんて自然災害と同じで制御できるものじゃないんだから」

「そうかもしれませんけど……人の姿をしていないからいまいちピンと来ないんです」

「誰も己の汚い部分は見たくないから、悪いものは全部別世界の形にしたいのよ」


 確かに、人の悪意が異形であることにほっとしている自分がいる。人の姿をしていたら、悪意こそが人を構成するもののように思えてしまいそうで怖い。


「じゃあ、リインフィルさんはこの湖で一人、マリスたちを諫めてるんですか?」

「諫めるなんて清いものじゃないわ。マリちゃんはつまりエネルギーなのよ。その想いの分だけ行動したら消えるし別のエネルギーを与えれば対消滅する。私の魔法とか」

「一人で……戦ってるんですか」

「言ったでしょう。私は世界を守る救世主って。すごいでしょう」


 子供っぽい言い方をするが、笑えない。

 実際にマリスを見た今、彼女を疑う気は全くなかった。だから衝撃は大きかった。

 こんな世界規模の問題を一手に引き受けている人がいるのに、誰もそれを知らないのだ。生き物のいない湖でたった一人悪意と対峙する人生は……どれほど寂しいのだろうか。


「あなたはいいお客様よ。私の継続の意志の源になってくれるわ」


 心を読まれることに抵抗はなくなっていた。むしろ、自分の同情が伝わってくれればと思った。少しでも励ましになりたいと思った。

 リインフィルは頂き物を遠慮するように手をひらひらさせた。


「あら、大げさに考えないで。マリちゃんは絶えず現れるわけじゃなくて、世界に不安が満ちたら出てくるの。今は戦争中だからか活発になっているけどね。この様子だと近いうちに戦わないといけないかしら」


 まるで買い物に行こうかしら、と悩むような気楽さだ。

 ……あれほど強ければ苦戦しないのかな。

 リインフィルは優し気に微笑んで一息ついた。


「ふう。話すぎちゃった。あなたも情報を詰め込まれて頭が痛いでしょう? 簡単に分かってくれればいいのよ。私は世界を守っていて、マリちゃんはやり場のない負の感情の蓄積。その表れ。ほら、分かりやすい」


 そんな単純な話ではないと思うが、リインフィルは話を切り上げたいらしく、立ち上がった。


「最後に一つ聞きたいんですけど、悪意が形になるなら幸せな気持ちも形になるんじゃ? それで相殺できないんですか?」


 リインフィルは一瞬呆けた後くすくすと笑った。


「人は幸せを形にするのが得意でしょう? 笑ったり喜んだり。──それに私は幸福感が魔法的に発露している時があると思うわ」

「いつですか?」

「景色が綺麗に見える瞬間。ただ目が認識する以上に美しさを覚える瞬間ってあるじゃない? きっと皆の幸福感が演出しているのよ。とっても綺麗な世界を」


 「私はそれが好きなの」。続くその言葉にリインフィルの献身の理由があるような気がした。


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