湖畔の魔女 7

 ハーニーは夕食後、リビングの窓際に置いてある長椅子に横になっていた。無骨な木でできているが羊毛で覆われていて寝心地は悪くない。羊毛が経年のせいかところどころ黒ずんでいるのは気になるが、埃か何かだろう。あまり考えないようにしておく。


「……もう少し採ってくるんだったな」


 夕食、といっても小さな果実程度しか用意できなかった。これならユーゴと魚を見つけたかったなと思う。

 連想的に皆の顔も脳裏に浮かんだ。今日は月明かりがきれいな夜だけど、リアはきっと悲しんでいるだろう。皆も心配しているに違いない。今も探し続けている可能性だってある。せめて旧王都に戻ってくれていればいいけれど、伝える術も確かめる術も分からない。

 リインフィルに聞けば分かるのかもしれないが、あれからあまり話をする機会はなかった。リインフィルは夕食を一緒にとらなかったし、話が終わると奥にある寝室へ行ってしまった。リビングは自由に使っていいと言っていたが、あっさり別れると寂しさを覚えてしまう。

 

「……それにしても不用心だなあ」


 気になるのは寝室のドアだ。無造作に開けっ放しで室内が見える。リインフィルは早寝なのか、部屋の灯りはもう消えている。

 起きていてもすることはない。ハーニーも灯りを消す。息を微かに吹きかけるだけで火種のない魔法の火は消えた。何度見ても知らない魔法だ。

 湖が月明りを反射するので室内は淡く明るい。窓から揺れる光が入ってきて天井を波打っている。

 綺麗だが落ち着かない。初めての場所だから、という理由もあるが。


「……セツはいないもんな」


 右腕の重量は変わっていないはずなのに、ひどく軽い気がした。単純な寂しさよりも、感覚からくる寂寥感は孤独を助長する。

 セツの不在は精神的にきついが、他にも心を圧迫することがある。


「……僕は、僕が思っていたよりもセツ頼りだった」


 小声だが口にすれば応えてくれるんじゃないか。ありえなくてもつい試してしまう。当然セツの返事などはない。

 ……今日、セツのいない戦闘を何度か経て身に染みて分かった。サキさんの経験を実戦でそのまま再現できていたのは、セツの補助があったからこそだ。無意識化で身体強化魔法を発動しているから、体力や身のこなしの慣れなどの制約を越えて戦えていた。今日、セツなしで動こうとして、素人に毛が生えた程度しか動けなかったのがその証明だ。それは鍛錬が少しは身になってきているということでもあるが、サキさんにまるで追いついていないということでもある。

 情けない。

 体術もそうだが、魔法も同様だ。魔力の塊すら発現できなかった。薄板一枚が精いっぱい。しかも色もまるでない。

 こうも自分の限界に気づかされると「セツがいれば」ではない思いが胸をこみ上げてくる。


「セツのおかげだけじゃなく、僕自身が……強くなりたい」


 つぶやく。口にしても気持ちは揺れなかった。誰かへの気遣いではなく、自分の心からの思いだと明確に自覚する。

 天井への視線が鋭いものになっていると気づいてハーニーは苦笑した。


「これじゃあ眠れないな」


 身体は疲れているが、心が色々な意味で落ち着かない。

 ハーニーは音を立てないようにリビングから外へ繋がるドアを抜けた。ドアは開けっぱなしでいいと言っていたが、やはり少し気になる。外に出る前一度振り返って確認したが、リインフィルが起きた様子はなかった。

 外に出ても異形の存在は見えない。この付近に結界を張っていると言っていたからそのおかげなのだろう。

 風に揺れる枝葉と湖面の波音しか聞こえない。木々の合間から静かな湖畔の景色が見えた。

 湿った土を踏んで湖に近づく。

 あの異形の存在が人の想いの一端だと知ったからか、結界への安心感からか、マリスが這い出てきた湖に恐怖は覚えなかった。

 畔に立ち湖面に揺れる月をただ眺めた。

 ここはまるで別世界のようだ。でも月は同じものが輝いている。世界が地続きな気がして心強い。


「……ふう」


 清涼な夜の空気で肺を満たして心も多少落ち着いた。


「……ん?」


 戻ろうとして、家の陰で何かが光っている気がした。

 目を凝らすと眩しく見えた何かが音も立てず隠れてしまう。


「セツ……?」


 恐る恐る家を回り込むと光って見えたものの正体が分かった。

 マリスに襲われていた女の子だ。肌の白さが特徴的で、夏では暑そうな厚手の白い服を着ている。髪は薄い茶。まだあどけなさの残る顔をしていた。十代前半だろうか。リアよりは年上に見えた。

 女の子は不安そうに手をもじもじさせて立っていた。

 ちらちらと上目遣いの視線を向けられる。


「あ、あの、こんばんは」


 つい怪訝に思ってしまうほどありがちな挨拶が飛んできた。


「え、ああ。こんばんは……?」

「……」

「……」

「さっき、その助けてくれて……」

「あ、ああ。うん。無事でよかったよ」

「は、はい。ありがとう……あっ。ございます」


 慌てて付け足して、恥ずかしそうに唇をすぼめる。とても女の子らしい所作。

 ……この子がセツだって?

 無機質な声や理性的な言動の印象が強くて、印象が全く一致しない。本当にこの子で間違いないのか。


「名前を聞いてもいい?」

「名前……」


 知りたいあまり唐突に聞いちゃったけど不審に思われたかな……。

 女の子が悩む素振りをしたので自省していたが、そういうことではなかった。


「私の名前──何だろう。分からない……それにここはどこ……ですか?」


 事実に絶望するわけでなく、ただ疑問を述べた口ぶりだった。

 驚くがそれは一瞬のこと。

 そういえば結界にぶつかった影響で自分を見失っているかもしれないとか言ってたっけ。


「ここは、なんていえばいいかな。旧王都の西にあるラダの森、その中の湖だよ」

「ラダの森……知らない。どうしよう、私、自分の名前も今どうしてここにいるのかも分からない。──あの、えと」


 また窺うような視線が向けられる。

 この目はとても親近感が沸くものだ。セツらしくはないが。


「僕の名前はハーニーって言うんだ」

「あ……なんだか聞いたことある気がします……」

「ほ、ほんとに?」


 やっぱりセツなのか?

 女の子は真顔で数秒考え込んで一つ頷いた。


「でも、名前は呼びたくない気がします」

「どうして?」

「私にとってはあなたが世界みたいなものだから。でも最近は他にも関わりが増えて……あれ? 私変なこと言ってます。う。喋り方も私じゃないみたい。こんな格好いい話し方できないはずな気がする」


 動揺しても落ち着いているのはセツらしい。

 先ほどの言葉からして、やはりセツなのだろう。僕が世界みたいなものという感性はセツ以外ありえない。

 ……にしても、あなた、と呼んでくる理由がこれなんて照れるな。


「あなたは私のこと知ってるんですか?」

「たぶん。僕の知るセツは姿がなくて声に抑揚があまりないけど」

「えっ。姿がない?」


 今、明らかに人の姿をしているだけに驚くのも当たり前だ。

 ハーニーは服の右腕を捲って見せる。文字のない肌色は寂しい。


「僕の右腕──ちょうどここに宿ってたんだ。僕はずっと助けられてきた。相談相手にもなってくれていた」

「声だけの存在ってこと……ですか?」

「そう言いたくはないかな。僕は生きていると感じているし、心はあるんだ」

「へええ……ここに私が。なんだか信じられない。……もしかして嘘ついてますか?」


 ジトッとした目に焦る。


「ついてないついてない! そりゃあ僕が君の立場だったら信じられないだろうけど、本当なんだよ。僕からすれば君に女の子の姿があるのが不思議なくらいなんだ。大体こんな嘘ついてどうするのさ」

「記憶のない私をからかってるのかも」

「それだけは絶対にないよ」


 つい真顔になってしまい、女の子が表情を強張らせた。慌てて取り繕う。


「あ、ごめん。怒ったわけじゃないよ? えっと……僕も三年より前の記憶がないんだ。だから、記憶喪失をからかうなんてできない。過剰に反応しちゃったな」

「あなたも記憶が?」

「君と違って腕に宿っていたわけじゃないけどね」


 苦笑すると同じ笑みが返ってきた。女の子の顔から緊張が大分なくなっていた。

 少しは信頼してくれたのか、女の子はととと、と距離を狭めてきた。


「ここに私がいたんだ……」


 間近でじろじろ見られむず痒い。まだ完全に受け入れたわけではないようだが、何か思うところがあるのか首をひねったりしている。

 この子がセツか……。

 正直なところ、この子よりも僕の方が信じがたい話だ。この子は外面的にセツとかけ離れている。目の前にいるのは感情豊かな女の子なのだ。

 それでも彼女をセツなのかもしれないと思えたのは、リインフィルの話があったからだけではない。


「なんていうか、姿や声は違っているけど雰囲気は同じな気がするよ」

「雰囲気って?」

「冷静なのにどこか優し気で、自分を省みる感じ」

「う……私そんな感じですか? 身に余る気がして恥ずかしいですよ……?」

「ご、ごめん。今の君からすれば唐突すぎたよね」


 口説いた風に思われたら嫌だな。

 セツと思われる女の子はこちらを気遣うように話を変えてくれた。


「あの、私セツっていうんですか?」

「うん」

「セツ……セツかぁ」

「何か思いだせそう?」


 女の子は考え込んで、首を横に振った。


「ごめんなさい。何も思いだせない……ハーニーって名前を聞いた時は感じるものがあったのに。あっ! ……ハーニーさんの方がいい、ですか?」

「歳のことなんて気にしなくていいよ。好きな呼び方で」

「……あなた、は恥ずかしいです」


 困ったように言うので吹き出してしまう。


「ハーニーでいいよ」

「じゃあ私はセツということでいいですか?」


 まるで役を演じるみたいで寂しい気もするが、セツなのはほぼ間違いないはず。

 ハーニーは頷いた。

 女の子は自然な動きで握手を求めてきた。ハーニーもそれに倣おうとして──


「あっ」


 声が重なる。目を見合わせるところまで一緒だった。

 先に微笑んだのは女の子の方。


「私、姿がないんですよね。忘れてました。……やっぱり腕の中にいたって本当なんだ」


 握手はできなかった。

 手は重なって見えても、見た目だけ。実体を持たない彼女とは手を繋げない。

 リインフィルは触れば元に戻るだろうと言っていたが、何も起きないということは特別な方法が必要なのかもしれない。


「……ごめんなさい。思いだせなくて」

「え?」


 見ればセツだと思われる少女は俯いていた。


「寂しそうな顔してました。すごく大切な人だったんですね」

「……うん」


 全て忘れて慰めを求めそうになるが堪えた。

 この子だって戸惑っている。記憶がないことの辛さは僕がよく知るもののはずだ。


「ありがとう。君は、でもあまり気にしないでね。記憶はいつか戻るよ。焦ることなんかない。……セツって呼ぶと急かしてるように感じるかな。他の呼び名にしようか」

「で、でもセツさんはあなたの大切な人で、それは私なんじゃ……?」

「いいんだ。君が呼んでほしくなったらそう呼ぶけど、今はやめておく。なんて呼ぼうか?」


 努めて柔らかく聞く。女の子はきょとんとしたあと、耳を赤くして厚着の服にこもるように着直した。


「こんな人の傍に私居たんだ……?」


 これは悪い意味じゃない……よね?

 女の子は数秒悩んだ。


「……あの、名前はまだいいですか? 私、思いつかなくて」

「じゃあ思いついたらでいいよ。それまでは──」

「……あなた、でもいいですよ?」

「っ」


 気のせいだが、本当にセツが言ったことのように聞こえドキッとする。

 目の前にいるのは年下の姿の女の子だ。笑みを作って誤魔化した。


「呼ぶときは君、だったよ。君でいい?」

「はいっ。……えへ」


 ……しかし、これがセツの内面だなんて。これが心のすべてとは限らないだろうけど、こういう一面があるってことだ。ひょっとすると女の子らしくありたい気持ちの表れなのかもしれない。セツもこんな風に姿形が欲しいのかな……。

 女の子との話は中々終わらず、途中から近くの大石に腰かけた。話は主にセツと過ごした時間について。女の子が聞きたがったから、求められるままに話した。彼女にとってセツと乗り越えた困難は物語のように面白かったらしく、目を輝かせていた。

 夜更かしはハーニーが欠伸をし始めるまで続いた。女の子とは一時的に別れることになった。実体のない女の子に眠気はないらしく、また無断でリインフィルの家に入るのは気が引けるからというのが理由で、挨拶は明朝することになった。

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