湖畔の魔女 1

 ハーニーは夢を見る。

 もはや見慣れた雪原の夢。断片的な記憶。現在の自分には遠い世界だ。

 雪原が眼前に広がったとき、ハーニーは「またか」とつぶやいた。しかし夢の中の自分は導線を辿るように決まった行動しかとらない。つぶやいたつもりでも夢の中では内心思うだけだ。

 森の中の雪原の中心で女の子が雪を掘る。すると青い花が現れる。


「見て!」


 雪を掘っていた少女が振り返る。あどけない笑顔だ。しかし見覚えがない。記憶喪失だから当たり前、と言われたらその通りなのだが、過去の記憶なら少しは心が乱れていいと思う。それほど完全に記憶を失っているんだろうか。

 世界が一瞬暗転した。これもまたいつもの夢の筋書き。

 案の定世界は春になった。場所は変わらず、雪は消え花畑が広がっている。いつ見ても綺麗だ。


「──!」


 恐らく自分を呼ぶ声。ここだけいつも聞き取れない。

 視界が動く。振り返ると先ほど雪を掘っていた女の子が笑いかけてきていた。

 その笑顔か、はたまた夢の世界自体か、眩しく感じた瞬間、世界は光に包まれる。

 夢の終わりはいつも光で一杯になる。夢の中で目を瞑った。どういう原理か現実と同じように何も見えなくなる。

 ……今回も分からずじまいか。

 落胆しながらいつも通り目が覚めるのを待っていた。

 が、違和感。

 夢を見ているときの浮遊感が消えない。不思議に思って目を開く。

 あれ……?

 広がる世界は今まで見たことのないものだった。

 まず目に入ったのは暗雲立ち込める空。今にも雨が降りだしそうな曇天だ。しかし周囲は明るい。

 なぜか。

 至る所に火の手が上がっているからだ。夢の中の自分の周囲には木造の家がいくつも立っており、そのほとんどが炎上していた。黒い煙をあげて木の焼ける音を響かせている。

 悲鳴が聞こえた。一つではなく、老若男女様々な悲鳴。見ればこの村──または集落──の住民らしき人たちが逃げまどっていた。

 なんだこれ。夢、だよね? ……あ。

 つぶやいても声が出ない。つまり夢だ。惨状が現実に起きた身の回りのことではないと知り、ハーニーは少し安堵する。完全に安心はできない。目の前で行われている事象が心をかき乱す。

 自分と同じ年頃の少女が転ぶのが遠くに見えた。西国でも東国でもない貴族服を着た男が少女の前に立つ。


「きゃあああっ、やめて! やめて!」


 少女が身体を守るように蹲って懇願する。貴族服を着た男は装備していた長剣を抜いた。

 まずいっ、助けに行かないと!

 四肢に命じて走ろうとする。しかし、夢の中の自分は動かない。

 悔しさに唇を噛む。それも心の中でだけ終息し、本当に唇などは動かない。この世界に干渉できない。

 何で動かないんだこの夢の僕は! あの子を見捨てるのか!?


「──ッ」


 一瞬の金切声。剣を振り抜いた貴族服の男と、倒れた少女で何が起きたか嫌でもわかる。今のは絶命の断末魔だ。

 助けられなかった。

 ……いや、ここは夢、きっと過去なんだ。だとすれば変えようがないんだろう。いつもの雪原の夢と同じでただ決まった道だけを行くんだ。

 苛立ちが募ってくる。だとすればこの夢の自分は何をやっている。ただ見ているだけで何もしない。


「……まだいたか」


 低い声は少女を切り捨てた貴族のもの。男は甲冑をしており人物は特定できない。唯一分かるのは首の方向だけ。この、夢の中の自分を向いているということだけ。


「ひっ」


 最初、その高い声が夢の中の自分だと気づかなかった。視界がぐいと動く。夢の自分は脱兎のごとく逃げ出した。貴族に背を向けて必死に走る。時折足元を見るから、自分がどんな服を着ているか分かった。

 東国の服だ。サキさんが着ていたものに似ている。戦闘向きではなく村娘が着ていそうな服装だ。

 つまり夢の自分は女性なのだ。

 だとするなら、これは……誰の記憶だ?

 疑問符ばかり浮かぶ中、少女は火のついていない家に逃げ込んだ。

 内装はどこか見覚えがある。

 旧王都で似た建物を知っていた。鍛冶屋である。シンセンの鍛冶屋と造りが同じだった。壁に刃物や金物が掛けられており、奥には鍛冶処もある。

 分かったことは、ここが東国のどこかの村であること。


「なんで……どうしてっ……」


 夢の自分が涙混じりの嘆きをつぶやきながら、室内をキョロキョロと見回す。武器になりそうな刀はたくさんあるが、夢の自分は手に取ろうとしない。近づいてくる甲冑の音に追い立てられて、店の奥へ駆けた。


「ううっ、うううっ」


 涙色の唸り声と定まらない焦点。ハーニーも振り回されるように動悸が激しくなる。

 夢の自分は奥へ奥へと逃げた。この家はシンセンの鍛冶屋と違い狭く、すぐに逃げ場が失われる。奥の部屋に入ると続く廊下はない。袋小路だ。

 夢の自分は慌てた。足音が近づいてくる。自然と足は壁の方へ向かった。逃げ場はなくても足音から離れられるから。

 終いには部屋の隅に蹲るしかなくなっていた。


「カナンの貴族がっ、助けが来るって言ってたのにっ……」


 カナンという名は聞いたことがなかった。そして夢の自分の嘆きには答えがあった。


「助けは来ない。この村は見捨てられた。カナンの貴族は既に敗走を始めている」


 甲冑の男が部屋の入り口に立っていた。

 夢の自分の視界が細くなる。睨んだのだ。


「ならどうして村を焼くの! 貴族なのに誇りはないの!?」


 女性の声には張りがある。自分よりいくつも年上だと直感した。

 貴族は誇りがあるから非人道的なことはできない。パウエルはそう言っていたが目の前の貴族は違った。


「私は母国に忠誠を誓った。この村を焼けと命じられればそれに従うまで」


 個としての考えはない。そう断言され、夢の自分は歯噛みした。


「私はただの鍛冶屋の娘よっ?! 魔法も使えないし、戦ったこともないのに殺すのっ?」

「敵国の武器を作る人間は少ない方がいい。また遺恨が残ると後々面倒になる。一人残らず死んでもらう」


 貴族とは思えない言葉。もしかすると僕が知る時代とは異なるのかもしれない。

 甲冑の男が手に持っていた長剣を持ち上げて、近づいてくる。

 その時、別の男の声が遠くから聞こえた。


「シノ! いるのか!?」


 若い男の声だ。夢の自分は鋭敏に反応した。声のした玄関の方に集中する。

シノというのがこの記憶の持ち主の名前か。

 タタタ、と足音が聞こえてくる。

 時を置かず部屋の入り口に若い男が現れた。二十代前半に見える男。村人らしい簡素な服を着ている。貴族ではない。


「シノに手を出すな!」


 男は一振りの刀を構えて叫んだ。


「ユウ君っ!」


 夢の持ち主は救世主に喜びの声を上げる。

 ハーニーは、しかし気分は悪くなる。サキの記憶が教えてくれるのだ。このユウと呼ばれた男に勝機はない。貴族の武装が悪すぎる。甲冑に刀で挑むのは無謀。魔法や卓越した技術があれば別だが、この男に才覚らしきものは窺えない。


「このッ!」


 ユウは刀を振るう。この状況、夢の自分──シノから注意をそらすためには攻撃するしかないのだ。

 だが金属音。甲冑を両断するほどの力はない。


「ぐうっ」


 刀は弾かれ、ユウは体勢を崩す。

 貴族が長剣を横なぎに払った。恐らく魔法で強化された斬撃。ただそれだけでユウの首が切り裂かれた。ユウは声にもならない声を上げて前のめりに倒れる。出血を抑えようと手を首に添えるが傷はあまりに深い。苦悶の表情が浮かぶ。喉を掻きむしるようにもがいた。

 やがて動きは止まった。苦痛と絶望の表情で助けに来た男は地に伏せた。


「ユ、ユウ君……っ」


 記憶の主が涙を流す。一瞬、ハーニーの脳裏にいくつかの映像が流れた。まるでサキの記憶を受け取った時のように、シノの記憶の断片が見える。ユウという男が小さい頃から一緒にいた記憶。幼馴染だったのだ。月日を共にし、お互いに恋をして、結婚の約束までした。幸せだった思い出が明滅する。

 そして今、その相手は死んでいる。目の前で無残にも殺された。


「これも我が国の繁栄のため」


 傲慢な物言いだ。


「傲慢な……!」


 意見が重なる。


「何とでも言うがいい。私はただ正義を行う」

「……ッ」


 貴族が一歩踏み出してきた。夢の自分は憎悪に満たされた心で袂に手を伸ばした。隠し持っていた柴色の短剣を取りだす。

 ……この短剣は、見覚えがある。


「よ、よくもユウ君を……ッ!」


 ダメだ。勝てない。可能性は低いが、生き残るなら短剣を投げて脇から逃げるしかない。突撃だけはだめだ。

 いくら念じても過去の記憶に届かない。夢の自分、シノは短剣を腰だめに構えて突進していく。

 結果は火を見るより明らかだった。

 ザクッ、という長剣の一突き。突進は強制的に留められる。


「うう、ううう……」


 長剣は腹部を貫通した。引き抜かれると大量の血が流れ出る。シノはお腹を押さえて倒れ込んだ。

 感情が、心が、直接ハーニーに流れ込んでくる。

 それは憎悪だ。どす黒い暗い感情だ。


「何が貴族よ……正義よ……!」


 邪悪な、どろどろしたものが心を満たす。


「許さない……許さない……ッ」


 復讐心が綺麗な思い出さえも塗りつぶす。

 純粋な殺意だけがシノの短剣を握る力を強くする。

 シノに戦う力はもうない。あるのはただ、純度の高い殺意のみだった。

 カナンの貴族は致命傷を与えたと判断し背を向けた。それはこの上ない隙だ。今後ろから襲い掛かれば殺せるかもしれない。可能性はゼロではない。

 今なら。


「くううっ……!」


 しかし身体は動かない。傷が深すぎるのだ。内臓が斬り裂かれている。持って数分の命だ。

 シノは血が出るほどに歯を食いしばった。それと連動するようにシノの内心の思考が聞こえてきた。

 ──私の人生をめちゃくちゃした奴に復讐できる唯一の好機なのに。なんで? なんで体が動かないの?


「……ああっ」

 

 やがて甲冑の貴族の背中は見えなくなった。

 シノとユウと呼ばれた男の死体が部屋に残される。

 浅くなっていく呼吸の音だけが響いていた。

 ──私、このまま死ぬんだ。何もできないまま。


「うっ、ううっ」


 シノは嗚咽を垂れ流しながら、握りしめた柴色の短剣を見つめた。

 ──私が打った短刀。ユウ君は猟師だったから喜んでくれると思って打った。でも……今となっては意味がなくなっちゃった。私と同じ。ただ無駄に消えていく。無駄に……。


「貴族のせいだ」


 夢越しでもぞっとするほど冷たい声だった。


「貴族が、貴族なんかいなければ……ッ」


 この気持ち。貴族を皆殺しにしたい気持ちを、なかったことにしたくない。絶対に残してやるんだ。この憎しみを。純然たる殺意を。

 私に鍛冶の才能はなかった。作れたのは凡庸なものばかり。魔の力が宿る霊剣の類はついぞ作れなかったけど、この私の現身になる短刀になら……。


「これは人を殺せるモノ……殺意を一身に受け止められるモノのはずよ……」


 シノは短刀を構えた。もういない貴族に対してではない。自分に向けて。

 ユウの惨い死体を目に焼き付ける。負の感情で自分を満たす。


「無駄じゃない。私たちが死んでも無駄じゃない……ッ!」


 それはまるで自らの命を対価とした契約を果たすかのように。

 迷いなく短刀は己の心臓を貫いた。

 刀身を滴る血はただ流れるのではなく短刀に吸われているように見えた。身体を満たしていた激情も血液越しに短刀が吸収しているように見えた。


「ふふ……あは……きっと、きっとこの刃が、私の代わりに貴族を……」


 暗い笑い声と共に視界も暗くなっていく。

 消え行く世界にハーニーは心が震えた。

 自分までこの記憶の残滓に飲まれて死ぬんじゃないか。

 ハーニーは足掻くように体を動かそうとして、叫びを上げた。

 精神が浮上する──





「──ハアッ、はあっ……!」


 荒い呼吸は生きている実感。死んでいない。胸部を見ても短刀の傷はない。

 夢だ。夢で良かった。


「だ、大丈夫……?」


 リアもベッドの上で身体を起こしていた。不安そうに見つめてきている。


「ちょ、ちょっとこっち来て」

「う、うん……」


 リアは恐る恐る近づいてきた。

 気遣いなどなく、ハーニーは温もりを求めて身体を動かしていた。

 リアの腕を取り抱きしめる。小さい体は簡単に抱擁できた。

 リアの体は温かい。確かに存在を感じる。


「え、ええっ!? ハ、ハーニーっ、どうしたの? え、ええっ?」

「……怖い夢を見た。いや、夢じゃないな、あれは」


 記憶だ。誰の記憶かはもう分かっている。

 柴色の短刀、切四片。シンセンの家にある倉庫で眠っていたいわくつきの代物だ。殺意に反応する特性は知っていたが、込められた想いは知らなかった。

 ……このまま切四片を使い続けて大丈夫なのだろうか。たぶんシノという女性の憎悪を吸い、この短刀は魔力の宿る剣──霊剣の域まで昇華している。戦闘時は心強いが、自分の心まで引きずられるんじゃないか。

 今見た夢はそこまでの疑念を持たせるのに十分なものだった。

 ハーニーはベッドの横の棚に目を向ける。いつも包淡雪と切四片をそこに置いて寝ている。今まで気にならなかったが、今は柴色の短刀が邪気を帯びているように見えた。


「でへへぇ……」

「ん、うわっと」


 だらしない笑顔がすぐ近くにあって慌てて離した。


「ご、ごめん。不安になってそれで……」

「いいよぉー。全然いいよう。もう大丈夫? 怖いならもっとぎゅーっ、していいよ?!」

「い、いや、いい。もう大丈夫」


 リアの瞳は熱に浮かされていてなんだか怖い。最初に求めたのは僕だけど。

 リアは不満そうな顔を一瞬見せた。でもすぐに花が咲くような笑顔に変わる。


「んー、仕方ないね。今日は楽しい日だから!」

「楽しい日? ああ、そっか。今日だっけ」

「そうだよ! だからもっと寝よ? まだ暗いもん」


 外はまだ暗い。もうすぐ日の出だろうが、それにしても起きるには早い。

 今日の予定を考えれば間違いなく寝た方がいい。

 でも……。

 ちらりと短刀を見る。


「んふふ。怖いなら手繋いでてあげよっか」

「う」


 不安を看破されてハーニーは赤面した。


「僕の気持ちが伝わったの?」

「ちょっとね! でも見れば分かるよう。ハーニーのことだもん。……えへ」


 にやけ笑いが好意の強さを示している気がしてハーニーは視線を逸らした。


『そうです。リアが手を繋いでいればいいんです。それでいいではないですか』

「何を怒って──ああ」


 自分には温もりがないって落ち込んでたことがあったっけ。今もそれで悔しいんだ。

 どう声をかけてあげよう。


「じゃあ……セツは子守歌とか?」

『私の人間味のない声で歌って意味ありますか』

「意味ないってこともないと思うけど」

『向き不向きはあります。私はどうせ戦闘用です』


 そんなことないと思うが、今は何を言っても聞いてくれなさそうだ。


「僕は救われてるけどね」


 せめてそれだけは言っておく。ベッドに横になった。


「任せてセツさん! リアが代わりもやるからね!」

『……はい』

「もういいよ。僕は大丈夫だよ」

「強がりだね!」


 リアは僕の気持ちを読めるらしいから、見破られてもおかしくない。


「だとしても男として引けない時があるんだよ。怖くて寝れないなんて言いません! さー寝よ寝よっと」

「むうー!」


 布団をかぶり直してリアに背を向ける。リアがぴったり背中に張り付いてくる。

 口にはしないが、心強かった。


「むっふっふー」

「……ああ、もう」


 とても恥ずかしいが、心強かった。

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