魚上氷その五 股引の謎


「おい、また意味不明な言葉を喋っておるぞ。一体どうしたと言うのじゃ」

「頭が悪いだけでなく、気も違えているのではないでしょうか」

「乱心者か、そうなるとますます厄介じゃのう」


 対応に苦慮する恵姫と磯島。そんな二人にお構いなく意味不明な言葉を喋り続ける与太郎。


「それに早く支度しないと遅刻してしまうよ。もしかしたら学校で一日遅れのバレンタインを貰えるかもしれないのに、遅刻なんかしたら台無しだよ。録画撮りはこれで終わりにしてくれませんか」


 与太郎はそう言いながら、体をもじもじさせています。息遣いも少し荒くなっている気もします。恵姫はピンときました。


「おい、与太郎、先程から早く早くとせっついておるが、何をそんなに焦っておるのじゃ」

「べ、別に、何も……」

「隠すな、隠すな。用を足したいのであろう」


 びくりと体を震わす与太郎。やはりな、と言わんばかりに口元をにやつかせる恵姫。


「それは大変でございますな。今、厠へ案内いたします。催したままでは満足に受け答えも出来ぬでしょう」

「待て、磯島」


 立ち上がろうとした磯島を制する恵姫、これには磯島も異を唱えぬわけにはいきません。


「何故にお止めになられます。ここで漏らされては後始末が大変です」

「うむ、それは分かっておる。じゃがな、厠は湯殿や台所と同じく渡り廊下の向こう。あそこには立木も垣根もない。表御殿から丸見えじゃ。そろそろ登城の者がやって来る。見つかって事を大きくしとうはない」

「ならば、どうされます」

「されば……」


 磯島の耳に顔を近付けて何やら囁く恵姫。磯島は頷くと、座敷を出て行きました。


「うう、早くトイレに行かせてよ」


 与太郎が情けない声を出しています。程なく戻って来た磯島は、与太郎の前に何かを置きました。船形をした浅い木製の箱です。恵姫が厳かに命じました。


「それにせよ」


 与太郎の目が点になりました。驚きを通り越してひきつった笑いが顔に現れています。


「あ、あはは、これにするんですか? ここで? 女の子(おばさん一名)の見ている前で、ここに、しろ、と……」

「そうじゃ、外に出て表の番方に見つかりでもしたら大変じゃぞ。良くて百叩き、間者の疑いありとなれば首が飛ぶ。ここで、それに用を足すしかないのじゃ」

「で、でも、こんな箱にするなんて……」

「こんな箱とはなんじゃ。それは名のある職人が木曽檜に漆塗りを施した、滅多に手に入らぬ御小用箱ぞ。箱の底には水戸の御老公様を見習って杉の葉を敷いてある。わらわの幼少の頃は毎日世話になっておった。今でも寒い夜中に厠へ行くのが億劫な時は、そこに……お、おっほん、とにかく、いいから早くそこにせよ」

「それなら、せめて僕一人だけにしてくれませんか。みんなの見ている前でだなんて」

「曲者を一人にできるわけがなかろう。三人でしっかり見張っていてやるから、心置きなくするがよいぞ」


 恵姫にそう言われても、与太郎はもじもじして座ったままでした。しかし、限界に達したのでしょう。綿入れ半纏を脱ぐと、こちらに背を向けてごそごそし始めました。


「これ、その股引は脱がねばできぬであろう」


 しかし、与太郎は股引を脱ごうとはしません。やがて水のほとばしる音が聞こえてきました。恵姫は首を傾げました。


『あやつ、股引を履いたままで、どうやって用を足しておるのだ』


 その疑問は磯島も同様に抱いていました。二人は顔を見合わせて頷き合うと、木箱に跨っている与太郎に近付きました。


「ちょ、ちょっと、二人とも、な、なに、なに」


 恵姫と磯島は与太郎の前に回り込みました。そして、それを見て、脱がずに用を足せるカラクリをようやく理解できたのです。


「なるほど、股引の股の部分に切り込みを入れておるのか。考えたものじゃな。袴にも同じ工夫をしてみるか」

「やめて、見ないで。これはいくら何でも放送禁止でしょ」


 与太郎は顔を真っ赤にして叫んでいますが、恵姫も磯島もお構いなしです。


「しかし、姫様、これはおのこにしかできませぬぞ。おなごの袴に切り込みを入れても引っ張りだすモノがありませぬ」

「もう、いい加減にしてください」

「おいおい、動くな。小水が木箱をはみ出してしまうではないか。じっとしているのじゃ。それにしてもこの切り込みから顔を出しているモノ、随分と可愛いらしいではないか」

「ど、どこを見ているんですか。カワイイなんて言われても嬉しくないですよ」

「まったくでございます。割れた池の氷から顔を出したメダカのようでございますね。くすくす」

「そ、そんなに小さくはないよう」

「そうじゃぞ、磯島。寒くて縮こまっているにしても、メダカは酷すぎる。せめて白魚と言ってやれ。ぷっぷぷ」

「五十歩百歩だよう!」


 与太郎の目が潤んでいます。よっぽど恥ずかしいのでしょう。それでも用を足している間は、それを引っ込めるわけにもいきません。ただただ恥ずかしさを耐え忍び、二人に見られるままになっているしかありません。

 やがて音が小さくなり、勢いも弱まりました。与太郎は急いで股引の中に仕舞うと、綿入れ半纏を被って丸くなりました。


「ひどいよ、こんなの人権蹂躙だよ。消費生活センターに訴えてやる」


 すっかり拗ねてしまった与太郎ですが、恵姫も磯島も全く別の案件について白熱した議論を交わしていました。


「しかしな、磯島よ。股引の切り込みはわかったが、褌はどうなっておるのじゃ」

「やはり褌にも切り込みを入れているのではないでしょうか」

「六尺褌では切り込みを合わせるのが難しくはないか」

「では、越中褌を履いているか、あるいは何も履いていないか……」

「う~む、実際に見てみなければ分からぬのう」


 恵姫は、綿入れ半纏にくるまって畳の上で亀のように丸くなっている与太郎の背中を叩きました。


「おい、与太郎、股引を脱いでみせよ」

「嫌ですよ。これ以上どんな恥をかかせる気ですか。それよりもカメラを止めてください」

「また、何を意味不明なことを言っておるのだ。いいから見せよ。隠し立てするとそちの為にならんぞ」

「嫌だったら嫌です」

「これは、怪しいな」


 頑として言う事を聞かぬ与太郎に、恵姫は初めて不信感を抱きました。


『こやつ、股引の下に何か隠しているのではあるまいな』


「姫様、もしや屋敷に潜り込む時に使った忍具を、股引の下に隠し持っているのでは」

「磯島もそう思うか。これは何としても脱がさねば」

「そんな物、持ってません。パンツを履いているだけです」

「ならば、そのぱんつとやらを見せよ」

「嫌です」

「やむを得ぬな。磯島、半纏を剥ぎ取れ」


 磯島は思い切り半纏を引き剥がすと、四つん這いになっている与太郎の上半身を両腕でがっちりと組み伏しました。


「お福、そなたは足を押さえるのじゃ。与太郎の足の上に乗れ」


 さすがにお福は躊躇しています。しかし、恵姫の剣幕に押され、不本意ながらに与太郎のふくらはぎの上に乗りました。


「痛い、痛いよ。これはもう暴力事件だよ。警察に訴えてやる」


 穴に落ちた亀のようにジタバタする与太郎の股引を、恵姫の両手がむんずと掴みました。


「うるさいわい、曲者が何を偉そうに文句を垂れておるのじゃ。いい加減に観念せい。さあ、股引の下を見せろ、そりゃあー!……ありゃ」


 勢いよく股引をずり下げた恵姫は、唖然とした表情になりました。尻が丸出しになっていたからです。


「ああ、すまんすまん、ぱんつとやらも一緒に下げてしまったわ」

「嫌あああああー!」


 与太郎の叫び声。同時に顔を真っ赤にしたお福が、逃げるように座敷を出て行きました。目の前に丸出しの尻を突き出されたのですから、無理もありません。


「こりゃ、お福、どこへ行く。まだそなたにも聞きたいことが……まったく、尻を見せられたくらいで、何を恥ずかしがっておるのじゃ、仕方ないのう。ふむ、これがぱんつか。なんじゃ、単なる丈の短い股引ではないか。忍具ではなさそうじゃな。ほう、股引と同じように前に切り込みがある。なるほど、二つの切り込みを通して引っ張り出しているわけか」


「姫様、何か怪しい物はございませんか」

「うむ、見たところ、何もないようじゃ。当てが外れたのう」


 恵姫は股引とぱんつを元に戻すと、与太郎から離れて上座に戻りました。磯島も横に座ります。


「もうヤダ。こんなシーン放送されたら生きていけない。せめてモザイクくらいは掛けてくれるんでしょうね」


 与太郎は畳の上でうつ伏せになったまま完全な脱力状態です。恵姫は呆れた顔をして言いました。


「与太郎、いつまでそんな恰好をしておるのじゃ。きちんと座ってこちらを向け。まだ吟味の途中なのじゃぞ」

「知りません。もう何も答えません。これからは一切番組作りに協力しません」

「協力せぬとは聞き捨てならぬな。そち、自分の立場をわきまえているのか。」

「早く家に帰してください。カメラを止めてください。さっきのシーンは完全に消去してください」

「まるで駄々っ子じゃな。やれやれ」


 まったく言う事を聞こうとしない与太郎に、さすがの恵姫もお手上げです。やがて太鼓の音が聞こえてきました。登城の時を告げているのです。


「姫様、どうなされますか」

「この状態では吟味は無理じゃな。人も多くなってきたし、ふーむ……取り敢えず、仕置き部屋に放り込んでおくか。あそこなら外から錠も掛かるし、人目にも付きにくかろう」

「その後はどうなされるおつもりです?」

「まあ、悪い奴ではないようだし、夜になれば東の木戸から逃がしてやろう。かなり懲りているようだから、屋敷に潜り込もうなどとは二度と思うまい」


 恵姫は畳に伏せてすっかり意固地になっている与太郎に近付くと、耳元に囁きました。


「いいか、仕置き部屋では大声を立てずに大人しくしているのじゃぞ。もし騒いだりしたら、お前の恥ずかしいしーんとやらを、もざいくとやらを掛けずに、国中にばら撒いてやるからな」

「わ、わ、わかりました」


 与太郎は立ち上がると、綿入れ半纏を着たまま、磯島と一緒に座敷を出て行きました。恵姫は二人の後姿を見送りながら、悪い顔をしてほくそ笑みました。


「ふっふっふ、今日は愉快な一日になりそうじゃわい」

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