鶏始乳その五 お福の最期

 布姫に問われた斎主は薄笑いを浮かべました。


「いいえ、思っていませんでしたよ、布姫。まさかそなたが私に歯向かおうなどとは微塵も考えてはいませんでした。神饌所の身代わりは万一の時を考えた用心に過ぎません。決して仕損じてはならない儀式。失ってはならない生贄。念には念を入れて備えを固めるのは斎主たる者の務め。此度は偶然それが役に立っただけの事。どうやら天運は私に味方してくれたようですね」


 布姫の策が読まれていたわけではなかったのでした。斎主の用心深さが布姫の策を凌駕してしまったのです。しかし理由はどうあれ結果に変わりはありません。斎主の性格をそこまで読み切れなかった自分を歯がゆく感じる布姫です。


「さあ、皆様。諦めてお帰りなさい。そなたたちの与太郎を思う気持ちに免じ、このまま何もせずに帰るのならば此度の件は不問に致しましょう」

「恐れながら斎主様、その御命令に従うわけには参りません」


 斎主の言葉を撥ね退けるように、毅然とした口調で布姫は話し始めました。


「このような悪しき因習をいつまでも続けられるとお思いですか。私は与太郎様からあちらの世の話を詳しく伺いました。そして私たち姫の存在は異端以外の何物でもないと思い至ったのです。これまで与太郎様の世から呼び寄せられた多くの供犠くぎたち。三百年前に呼ばれたのは徳川の世の武士。六百年前は足利の世の僧侶、九百年前は都の公家。皆様いずれも神や仏を信じ、にえを供えるという行為に理解を示し、姫衆たちの為に己の命を捧げてくれました。しかし、今、与太郎様の世に生きる者たちは、最早そのような考えを持ってはおりません。次にほうき星が昇る三百年後、私たちの世も今の与太郎様と同じ世となりましょう。そこでは姫の力に似た、いいえ、姫の力よりも遥かに強力で大きな科学という力と思考が存在しているのです。そんな世では私たち姫の存在も人の命を捧げるという行為も、理解しがたい野蛮で禍々しいものと受け止められるでしょう。三百年後の科学の世では、このような儀式は認められないのです。このような蛮行は此度で終わらせなくてはならないのです」


 布姫の話が終わっても斎主の冷淡な態度に変化はありません。見下した眼差しはまだ残ったままです。


「そなたの考えはよく分かりましたよ、布姫。さりとてそれは想像に過ぎません。何の証拠もなく思い込んでいるだけ。そのような世迷言、信じられるはずがありません」

「想像でも世迷言でもありません。与太郎様から直接聞いた確かな話です」

「もしそうだとしても、三百年後に考えれば良い事ではないのですか。何故私たちが後の世の心配をしなければならないのです」

「三百年後の姫衆たちがどうなっても良いと仰るのですか。辛い立場に追い込まれるのは目に見えているのですよ」

「ならば辛い立場に追い込まれた者がどうにかすれば良いのです。私たちは私たちの務めを果たす事だけを考えれば良いのです」


 布姫は口を閉ざしました。どうあっても斎主を説得するの不可能だと悟ったからです。無念さと口惜しさをにじませながら、布姫は斎主に向かって最後の言葉を告げました。


「残念でございます、斎主様。話せばきっと分かっていただけると思っておりました。が、どうやら無理のようでございますね。かくなる上は……」

「どうするつもりです。ここには斎宗も居るのですよ。如何に伊瀬の姫衆の頂点に立つ四人といえど、この二人を相手に……」

「恵姫様、与太郎様の元へ!」


 斎主が言い終わる前に布姫が叫びました。


「分かっておるわ!」


 直ちに上段の間目掛けて駆け出す恵姫。向き直って懐に手を入れた斎主の前に大剣を構えた毘沙姫が立ちはだかりました。


「どきなさい、毘沙姫」

「失礼ながらそれはできませぬ、斎主様」


 斎主の髪が扇形に広がり虹色に輝きます。同時に毘沙姫の髪も広がって赤色に輝きます。目にも止まらぬ速さで懐から短剣を引き抜く斎主。その短剣を毘沙姫の大剣が受け止めます。互角の力がぶつかり合い、両者は睨み合ったまま動きが取れません。


「ひゅぅぅー」


 毘沙姫と剣を合わせたまま斎主が息を吐きました。その息に乗って巻き起こった風が上段の間へと走る恵姫に襲い掛かろうとしています。


「ふうぅぅー」


 今度は布姫が斎主の前に立ちました。巻き起こった風を打ち消しているのです。


「そなたたち、このような真似をしてただで済むと思っているのですか」

「今となっては伊瀬の斎主宮になど何の未練もございません。断罪剣でも姫衆追放でも、好きなように裁いてくださりませ」


 怒気をはらんだ斎主の瞳が銀色に輝きました。二人の生命力を奪い取るつもりなのです。が、二人に遅れて斎主の前に立った才姫の瞳が銀を宿します。


「反照!」

「くっ! 才姫、そなた返し業を。いつの間に……」


 才姫が使ったのは己の瞳を鏡にして、姫の力を帯びた眼光を相手に返す業です。これで斎主の瞳術は完全に封じられます。


「伊達に何年も青峰山に籠っていたんじゃわけないんだ。恵、急ぎな。あたしらが斎主を押さえている間に与太を連れて逃げるんだ」

「聞いた通りじゃ、与太郎。逃げるぞ」


 白帷子を着せられた与太郎の元に、ようやく恵姫がたどり着きました。腕を掴まれた与太郎はかなり戸惑っています。


「め、めぐ様、どうして。生贄になれって命令したのに……」

「つべこべうるさいわい。気が変わったのじゃ。お主は元の世に帰るのじゃ」

「でも、僕が帰ったら、皆は……この時空は……」

「そんな事は考えずともよい。とにかく立て。ややっ、また髪で縛られておるのか」


 見れば与太郎の右腕とお福の左腕には、細い髪が二本結ばれています。恵姫は帯から印籠を取り出すと、髪を光らせて叫びます。


「波飛沫!」


 印籠から神海水が吐出され二本の髪を鋭く横切ります。しかし切れたのは一本だけでした。もう一本は依然として結ばれたままです。


「な、何故じゃ、何故神海水を使っても切れぬのじゃ」

「二人を繋いでいるのは私と斎宗の髪。伊瀬の姫の力では記伊の斎宗の髪は切れません」


 与太郎をこの世に留めているのは斎宗宮の場とお福の場。髪に繋がれたままお福と一緒に斎宗宮を出ても、お福の傍から離れない限り与太郎は自分の時空には帰れません。何としても髪を切らなければならないのです。


「斎宗、いつまで何もせずに居るつもりなのですか。この三人を打ち倒し、与太郎を恵姫から守るのです」


 斎主の前に立ち塞がっている三人の顔に焦りの色が見え始めました。こうして斎主の力を抑え込むだけで精一杯なのです。ここで斎宗に業を使われては与太郎救出は絶望的です。


「斎宗、早くなさい。何を迷っているのです」


 斎主に檄を飛ばされても斎宗は動こうとしません。お福と同じ優しい表情に困惑の色を浮かべたまま、斎主と姫衆と与太郎とお福を、ただ見詰めているだけなのです。業を煮やした斎主、今度は矛先をお福に向けました。


「お福、そなたは次期斎宗。本来ならこの儀式はそなたが執り行うべきもの。そのように座ったままで何もせずに済ませられるとでも思っているのですか。そなたが制すれば恵姫とて手を引くはず。さあ、お福、いい加減に……」


 斎主の言葉が途切れました。これまで一度も現れなかった声に乗った言葉が、御饌の間全体に響き渡ったのです。


「嫌でございます! お福は与太郎様を助けとうございます!」


 誰もが自分の耳を疑いました。お福が言葉を発したのです。


「お福、そなた……」


 驚いた目でお福を見る恵姫。お福は斎宗に向かって叫んでいました。必死の願いを込めた声を斎宗に向けて発していたのです。その声に動かされるように斎宗の右手が懐に差し込まれました。


「恵、よけろ!」


 毘沙姫が叫ぶのと同時でした。斎宗の懐剣が恵姫目掛けて放たれたのです。恵姫は動けませんでした。それほどに懐剣の速度は早く、狙いは正確だったのです。

 しかし懐剣の狙いは恵姫ではありませんでした。気が付けば与太郎とお福を繋いでいる黒髪は見事に切断されていました。


「斎宗、何をしているのです。そなた、まさか……」


 疑念を込めた目で斎宗を見詰める斎主。斎宗は伏し目がちに答えました。


「斎主様、いいえ姉上様。私の想いも布姫と同じなのです。そして今、お福もまた同じ心を持っていると知りました。次期斎宗であるお福が声に出して命じたのです。私は逆らえません。お福の言葉には誰も逆らえないのです」


 斎主の顔から怒気が消えました。諦めとも口惜しさとも分からぬ冷めた嘲笑の下から、斎主の呟きが聞こえてきます。


「ふふふ……そうですか。二千年の長きに渡って続いてきたお役目すら守り抜く事ができぬと言うのですか。斎宗、それがどのような結果をもたらすか知らぬわけではないでしょうに。それでも罪無き命は奪えないと、あくまで言い張るのですか」


 斎宗は何も言いません。悲しそうな目で斎主を見詰めるだけです。


「分かりました。ならば好きにしなさい。どちらにしても手遅れです。与太郎は元の時空には戻れません。伊瀬の姫衆の皆様、残念でしたね」

「戻れぬじゃと……」


 恵姫には斎主の言葉の意味が分かりませんでした。が、傍に居るお福がもどかしそうに叫びます。


「恵姫様、お急ぎください。間もなくほうき星が昇ります」

「何じゃと!」


 恵姫は東の方角に目を遣りました。空が雲に覆われていようとほうき星は姫の目に映ります。輝きを増したここ数日は、屋敷の中に居てもほうき星の姿を捉えられるようになっていました。


「これは……ほうき星の曙光か」


 恵姫には見えていました。夜明け前に差す日の光と同じく、ほうき星が昇る前に現れる曙光、それが今、東の空を染め始めていたのです。


「そんな……そんなはずがありません。最後のほうき星が昇るのは夕暮れ時のはず……」

「そう、私は確かに以前あなたにそう言いましたね、布姫。けれどもこうも言いました。用心には用心を重ねるのが斎主の務めだと。これもその用心のひとつ。私の言葉が全て真実だとでも思っていたのですか。ほほほ」


 高笑いする斎主。恵姫は与太郎の腕を掴むと引っ張り上げました。


「立て、与太郎。ほうき星が昇る前に斎宗宮を出るのじゃ」

「う、うん」


 三人は立ち上がると上段の間から下りました。御饌の間の扉目掛けて走ります。横を通り過ぎる恵姫に毘沙姫から声が掛かります。


「急げ、恵。斎主様は我ら三人が押さえておく。後ろを気にせず前へ突き進め」

「頼むぞ、毘沙、布、才」

「無駄な足掻きです、恵姫。ほうき星が昇る前にこの広大な斎宗宮から走って出られると思っているのですか」

「出られるかどうか、やってみなければ分からぬ。与太郎、急げ」

「いいえ、行かせはしません」


 いつもとは違う斎主の声。不吉な気配を感じて振り向いた恵姫が見たのは、左手を帯の中に差し込んだ斎主の姿でした。すぐに意図を悟った恵姫もまた帯に手を差し込みます。


「波飛沫!」

「風波!」


 斎主と恵姫の言葉はほぼ同時でした。斎主の左手から放たれた津波のような神海水が三人を襲います。しかしそこには波打つ水の壁が既に作られていました。斎主の神海水は大きな音を立てて打ち当たり、水滴となって砕け散ってしまいました。


「残念じゃったな、斎主様。さすがに此度は天の味方はなかったようじゃのう」

「いいえ、そなたを倒すのが目的ではないのです。今の業で神海水は全て使ったはず。それで十分です」

「めぐ様、扉の外、人で一杯だよお」


 与太郎の情けない声を聞いて扉の外に目を遣れば、数十名の女官たちが行く手を遮っています。そして斎主の言葉通り、神海水はもう一滴も残っていません。


「くっ、この重囲を抜ける良い手立てはないものか。せめて与太郎一人だけでも……」


 唇を噛み締めて脱出の方策を考える恵姫。と、前方から何かが駆けて来る音が聞こえてきました。


「めぐちゃ~ん、来たよ~、どいてどいて」


 黒姫の声です。驚き慌てて隅に寄る女官たち。その間から馬に乗った黒姫が現れました。


「黒ではないか。一体どうしたのじゃ。何故ここに」

「それはこっちが訊きたいよ。いきなりほうき星の曙光が見えてくるし、与太ちゃんは全然戻って来ないし、もう待ちきれなくなっちゃって、厩舎の馬を一頭拝借してここまで来たんだよ」

「有難い。与太郎、この馬に乗って禄の所まで行くのじゃ。急げば間に合う。早く乗れ、行け!」

「む、無理だよ。馬なんて乗った事ないし、禄様がどこに居るか知らないし」

「世話が焼けるのう。ならば、お福、一緒に馬に乗って行ってくれ」

「わ、私がでございますか」

「そうじゃ。この先まだ何があるか分からぬ。神海水を使い切ったわらわは何の役にも立たぬ。黒の業とて似たり寄ったりじゃ。しかしそなたは飛入助を使える。彼奴の力を借りて禄の居る場所まで与太郎を連れて行くのじゃ」


 恵姫の頼みを受けてお福の顔が引き締まりました。これは恵姫から与えられたお役目。城に仕えていた女中としての使命感が蘇ったのです。


「分かりました。さあ、与太郎様、早く」

「えっ、ちょっと待って。どうしてお福ちゃんが言葉を喋っているの」


 驚き顔の黒姫には何も答えず馬に跨るお福と与太郎。その背中に恵姫が声を掛けます。


「禄は中院と外院の境にある外玉垣の西側に居る。お福、与太郎を頼むぞ」

「お任せください!」


 お福は手綱を取り馬を走らせます。遠ざかる恵姫と黒姫の声。疾走する馬に手出しできず見守るだけの女官をやり過ごし、御饌御殿を出たお福と与太郎は内院の敷地を駆け続けます。


「中院に居られる禄姫様までたどり着けば、業を使って一気に斎宗宮を出られるはず。それまでほうき星が昇らなければ良いのですが」


 馬を駆りながら東の空を見ると、ほうき星の曙光は更に明るくなっています。姿を現すまでに残された時間はほとんど無いようです。


「はっ!」


 お福の顔を何かがかすめて飛んでいきました。周囲には弓を持った女官たちがこちらを狙っています。


「わわっ、矢が飛んでくるよ、お福さん、ど、どうしよう」

「落ち着いてくださいませ、与太郎様」


 お福は顔を天に向け、大声で呼び掛けました。


「飛入助!」

「ピピッ!」


 どこからともなく三羽の雀が舞い降りてきました。一番大きな雀、飛入助と、それよりもやや小さいものの雀にしては大きすぎるもう一羽が、飛んでくる矢を正確に弾き飛ばします。頬に傷跡のある雀は矢を持つ女官たちの周囲を飛び回り、狙いを定めにくくしています。


「凄いぞ、飛入助! でも他の二羽は何だろう。手下かな」

「飛入助に忠誠を誓った雀です。小さな雀は間渡矢雀。大きな雀は伊瀬雀。この二羽だけはずっと飛入助と行動を共にしているのです」


 矢を退けながら内院を進み中院へ入った二人。遠くの外玉垣にもたれて座っている禄姫と猿が目に入りました。


「居ました。これなら間に合いそうです」


 喜びの声を上げるお福。しかし同時に馬がいななき、走るのをやめて歩き出しました。


「これは、一体何が……」


 お福の困惑をよそにのろのろと歩いていた馬は、やがて完全に進まなくなってしまいました。


「お福さん、馬の脚に矢が!」


 お福が振り返ると馬の右後ろ脚に矢が刺さっています。将を射んと欲すれば先ず馬を射よの諺を実践した女官が居たようです。


「与太郎様、降りて走りましょう」


 二人は駆け出しました。禄姫もこちらに気付いたようで立ち上がって手を振っています。


「急ぎなされー! ほうき星が昇りますじゃー!」


 禄姫目掛けてひた走る二人。東の空を照らすほうき星の曙光は益々強くなっていきます。


「駄目だ、間に合わないよ。ほうき星の曙光があんなに明るくなっている」

「ここで弱音を吐いてどうなります。与太郎様、走るのです。禄姫様ー、こちらに来ていただけませんかー」

「これ以上、寿婆さんから離れては、砂が落ちる前にたどり着けませぬじゃー」

「入る時空によっては元の距離より短縮される場合もあるはず。今はそれに賭けるしかありません」


 禄姫が猿と一緒に小走りで駆けてきます。背後からは矢を杖に持ち替えた女官たちが追って来ます。東の空の曙光は目を背けたくなるほどに輝きを増しています。


「お福さん、ほうき星が昇る!」

「禄姫様、手を伸ばしてください。与太郎様、禄姫様の手を掴んで!」


 前のめりになる禄姫。その左手を与太郎とお福が掴みました。直ちに禄姫が右手に持った砂時計を反転させます。


「間に合ったか!」


 禄姫の業が発動し、三人の周囲は一気に闇に覆われました。その中を長く仄白い空間が一本、遠くに立つ寿姫の元まで伸びています。


「これは有難い。元の距離より短くなっておりますじゃ。お二人とも、急がれませ」

「与太郎様、禄姫様を背負ってください。さあ、走りましょう」


 言われた通りに与太郎は禄姫を背負い、寿姫目指して走り始めました。思った以上に軽いので背負って走ってもさほど苦にはなりません。


「寿姫様は斎宗宮が作る場の外に居るはず。砂が落ち切る前にあそこへたどり着ければ元の世に戻れます」


 お福は背負われた禄姫の袂を握り締めて走っています。業を掛けられた二人は禄姫の体から手を離すと元の時空に戻ってしまうからです。


「了解、お福さん。寿様がこの駆けっこのゴール地点なんだね。でも、もしほうき星が既に昇っていたとしたら……」


 業を掛ける前にほうき星が昇ってしまったのなら、斎宗宮の外に出ても元の世には戻れません。与太郎に弱気な言葉を聞かされて、お福は励ますように答えます


「とにかく今は走りましょう。まだほうき星が昇っていない事を信じて。さあ、急いで!」


 闇に囲まれた空間をひた走る二人。半分ほど来たところで与太郎がまた口を開きました。


「でも驚いたなあ。お福さん、言葉を喋れたんだね」

「はい。私は音に愛された姫。私が力と意志を込めて音にした言葉は、力と意志に見合った形で実現させる事ができるのです。その業の威力と危うさを恐れた斎宗様の命により、私は言葉を封じておりました」

「そうかあ。じゃあ、僕のせいでその封を破っちゃったんだね。後で斎宗様に怒られないかな」

「怒られるかもしれませんね」


 くすりと笑うお福。これほど追い詰められた状態にもかかわらず、お福の笑顔はいつもと全く変わりません。そんなお福の様子を見て、与太郎は心配そうに尋ねます。


「お福さんが封を破ってまで僕を助けてくれたのは嬉しいけど、本当に僕が元の世に戻ってもいいの? 僕が居なくなったらお福さんもこの世も無くなっちゃうんでしょ。本当にそれでいいの?」


 お福は可笑しくなりました。呆れるほどのお人好し。この期に及んでも尚、与太郎は自分の命よりお福やこの世の事を心配しているのです。そうしてお福は納得するのでした。下田で磁石を見せられた時に感じた疑問、何故金や銀のように優れた者ではなく、与太郎のような平凡な鉄が召喚されたのか……その理由がようやく分かった気がするのでした。


「与太郎様、御饌の間で皆の話を聞いていたでしょう。あなた様をここに留めておきたいと思っているのは斎主様だけ。私も他の姫衆も斎宗様も、皆、あなた様に生きて欲しいと願っているのです。何を気に病む事がありましょう。堂々と胸を張って元の世に帰ればいいのです」

「でも、そしたらお福さんたちは……」

「与太郎様、急いでくだされ。砂はほとんど残っておりませぬじゃ」


 切羽詰まった禄姫の声。あと少しでたどり着けそうな寿姫。息が切れてきた与太郎。そしてお福の声。


「ご案じ召されますな。私は封を破ったのです。次期斎宗としての務めを果たし、必ずこの世をほうき星から守ってみせましょう。そして与太郎様は元の世に戻ったら必ずおふう様を妻に娶り、幸せにしてあげて欲しいのです。私は三百年後に現れるはずのおふう様の存在を、この時空から消し去ってしまうでしょう。この時空で生きられなかったおふう様の分も、与太郎様の世のおふう様には幸せになって欲しいのです。それがお福のただひとつのお願いでございます」

「何を言っているの、お福さん。この時空のふうちゃんが居ないって……」

「砂が落ちまするじゃ!」


 禄姫の叫び声。その言葉が終わらぬうちに業が解け、周囲はたちまちのうちに暗闇から朝の光に包まれた斎宗宮の風景に戻りました。


「おうっ! なんだ!」


 破矢姫の声。お福は立ち止まり、与太郎はそのまま走り続けます。そして二人の距離が座布団三枚分も開いた時、与太郎の姿は消えました。


「驚いた。本当にいきなり現れるのだな」


 宙に浮いた形になった禄姫は、破矢姫の素早い動きで両手に抱えられました。にこにこ顔の寿姫。お福も安堵の吐息を吐きながら、地に落ちている白い帷子を拾い上げました。





「ほうき星が昇りましたね」


 毘沙姫と剣を合わせていた斎主の腕から力が抜けました。剣を下ろす毘沙姫。布姫と才姫もたぎらせていた闘志を静め、顔を東に向けました。御饌御殿の中からでも、輪郭を見せ始めたほうき星の姿がはっきりと見て取れます。


「外院へ行こうぞ。与太郎がどうなったか確かめねば」


 恵姫の呼び掛けに応じて御饌の間を出る五人。斎主と斎宗も風の力を使って滑るように御饌御殿を出ます。内院を出て中院を抜けようやく外院に入ると、寿姫を残してきた場所に大勢の女官たちが見えてきました。お福たちはその女官に囲まれているようです


「お福ー、与太郎はどうなったのじゃー」


 叫びながら駆け寄る恵姫。女官たちは既に戦う意思を失くしているのでしょう、素直に恵姫に道を譲ります。


「無事、戻られました」


 残していった白い帷子を見せるお福。その横には禄姫、寿姫、破矢姫、そして瀬津姫も居ます。全員無事である事を知り安堵する恵姫、しかしその表情はすぐに険しくなりました。ほうき星が尋常ならざる速さで昇っているからです。江戸城大広間で見た姿と同じ禍々しい様相を見せながら、東の空を覆っていくほうき星。


「遂に姿を現しおったか。樹々もざわめいておるわい」


 斎宗宮外院の木立は風に揺れていました。まるで嵐のような強風が四方八方から吹き付けて来るのです。


「お福、これがそなたの答えなのですね。与太郎が帰った今、最早私も斎宗も全ての命を守る事はできません」


 遅れてやって来た斎主の氷のような声。お福は「はい。覚悟のうえでございます」と答えると、斎主の横に立つ自分の母、斎宗に向かって言いました。


「斎宗様。今こそ私に課せられた務めを果たす時。この場で斎宗の引継ぎをし、失われていた力を私にお戻しください」

「……分かりました」


 優しさと悲しさに彩られた眼差しでお福を見詰めながら、斎宗は自分の天冠を外しお福の頭に被せました。


「斎宗譲位!」


 斎宗の言葉を受けて、お福の額にある天冠がほんのりとした虹色に染まりました。長い黒髪は扇形に広がり、まるで孔雀の羽模様のような鮮やかな虹色を宿しています。


「恵姫様、お別れでございます。斎宗となった今、私には果たさねばならないお役目がございます」

「お別れじゃと……な、何を申しておるのじゃ、お福」


 吹く風は益々強くなり、斎宗宮の木々は身もだえるように震えています。葉のないものは梢を鳴らし、葉のあるものは引きちぎられ渦となって舞う葉をその身にまとっています。

 禄姫と寿姫は先ほどからずっと恵姫の腰にしがみついていました。まるで恵姫が風に吹き飛ばされないように引き止めているかのようです。


「布、もしや、与太郎の代わりに差し出す命とは……」


 恵姫が尋ねても布姫は顔を伏せたまま何も答えません。完全に姿を現したほうき星はそれだけでは飽き足りないと言わんばかりに膨張を始めました。空を覆い始めるほうき星の光。


「ピーピー! ピーピー!」


 お福の肩に止まっている飛入助が激しく鳴いています。お福は飛入助を手の平に乗せ、恵姫に差し出しました。


「飛入助、そなたを連れて行く事はできません。恵姫様、飛入助をお願い致します」


 差し出された飛入助を受け取る恵姫。ゴウゴウと唸りをあげて吹き付ける風に乱される姫衆たちの髪。しかしお福の髪だけは扇の形のまま全く崩れる事はありません。


「お福、そなた、何をするつもりなのじゃ」

「私は音に愛された姫。私の言葉を音に乗せほうき星を退けます。恵姫様、あなたに会え、共に暮らし、同じ時を過ごせて、お福は本当に幸せでございました。間渡矢での一年間はどんな宝とも比べられないほど、お福にとっては大切で得難い思い出でございます。どうぞ、これからもその明るさを失うことなく、皆様を導いていってくださいませ」


 お福は天を仰ぎました。膨張するほうき星は既に天の大部分を覆っています。お福の両手が開き天に向かって差し伸べられると、扇形の虹色の輝きは一際激しくなりました。


「待て、お福、そなたを失うなど……」

「滅!」


 恵姫の言葉を遮るように周囲に響き渡ったお福の声。天全体が激しい光を発し、吹き付ける暴風に最早立っている事すらできません。何も見えず、何も聞こえず、言葉を発する事もできず、そうしてうずくまったままどれだけの時が過ぎたでしょう。

 気が付くと、辺りは元の斎宗宮の風景に戻っていました。吹き荒れていた風は収まり、天を覆っていたほうき星は既に無く、大勢の女官も姫衆の皆も斎主も斎宗も元のままです。天も地も人も何もかもこれまで通り、代わり映えしない泰平の世の元禄の風景。ただひとつ、お福の姿が無いことだけを除けば……


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