鶏始乳その三 潜入開始

 翌朝、九人は日の出前から出発の準備に取り掛かりました。潜入は夜陰に乗じて行うもの。月は真夜中に沈み、空には薄い雲がかかり、弱々しい星明りが申し訳なそうに小屋の外を照らしています。

 夜通し燃え続けた囲炉裏端で身支度を整える九人。昨日の握り飯の残りを火に焙って食べ、沸かした白湯を飲んで準備万端整うと、布姫が皆の前に出て最後の弁を振るいます。


「皆様、間もなく夜が明けます。そして私たちの新しい世も今日から始まるのです。二千年の長きに渡って繰り返されてきた愚行。その歴史が遂に幕を閉じるのです。寒さの為に卵を産まなかった鶏が春の温かさを感じて卵を産むように、私たち自身の手で新しい世を生み出そうではありませんか」


 布姫の話が終わりました。拍手も歓声もありません。しかし皆の心はひとつにまとまっています。

 昨日と同じく破矢姫が禄姫と寿姫を背負い囲炉裏の火を消すと、九人は小屋の外に出て大日山の奥にある斎宗宮目指して歩き始めました。


「こんな時間に山道を歩く物好きなんて居やしないとは思うけど、用心して獣道を行くよ。歩きにくいが辛抱しておくれ」


 この日の為に毎日入念に歩いていたのでしょう。先頭を行く瀬津姫は星明りだけを頼りに道なき道を迷うことなく進んでいきます。遅れずに付いて行くだけで精一杯の八人も、瀬津姫の確かな足取りには心強さを感じるのでした。


「のう、瀬津よ。ひとつ訊いても良いか」

「何だい。難しい話は止めとくれよ」

「他の五人の姫衆たちはどうしておるのじゃ。斎宗宮には来ておらぬのか」


 伊瀬と同じく記伊にも神器持ちの姫は七人居ます。運悪く恵姫たちの潜入が露見してしまった場合、残り五人の姫衆たちに行く手を阻まれると与太郎救出はかなり難しくなるはずです。


「恵姫様、安心なされませ。五人の姫衆には話を付けてあります。私たちには力を貸さず邪魔立てもせず、中立の立場を取っていただける事になっております」

「ああ、布の言う通りさ。一応、外院御殿に集まってはいるが、今日は一日何もせずに儀式が終わるのを待っているだけなのさ」

「そうか。ならば気にする必要はないな」


 さすがは布姫。手回しの良さは天下一品です。

 暗闇に包まれた獣道をのろのろと進む九人。半時ばかりも歩いた頃、ようやく前方に明かりが見えてきました。斎宗宮の篝火のようです。


「そろそろ斎宗宮の神域だ。姉さん、業を使ってくれないかい」

「はいよ」


 闇の中で仄かな銀の光が二つ浮かび上がりました。才姫の瞳が銀を宿しているのです。


「少なくともこの辺りには人は居ないね。獣なら数匹居るみたいだけどね」

「そりゃ好都合だ。布、もう少し先の辺りから中に入り込もうと思うが、どうだい」

「よろしいかと思います。場を感じるギリギリの境界まで進みましょう」


 斎宗宮の本来の入り口は斎主宮と同じく大鳥居ですが、馬鹿正直にそこから入って行ってはすぐに見付かってしまいます。瀬津姫は藪に覆われた外院西側を潜入地点に選んだのでした。


「ここから先は外玉垣で囲まれているからね。垣を乗り越えずに出入りするにはここが最良だ。布、与太郎を送り返す場所はここでいいだろ」

「はい。丁度あの木の辺りで斎宗宮の場は消失しているようです。それでは寿姫様、破矢姫様と共に木の根元にてしばらく待っていてくださいませ」

「待っているだけならお安い御用じゃて。ここはさほど風も当たらぬし、懐には亀様が下さった温め具もありますれば、うたた寝でもして待っておりますですじゃ」


 今、与太郎をこの世に留めているのは斎宗宮が作り出している場です。その場が途切れるこの地点まで連れ出せば、与太郎は瞬時に元の世へ帰れるはず、寿姫はその目安としてここに残していくのです。


「破矢、寿に万一の事がないよう、しっかり護衛を頼んだよ」

「心得た」


 木の根元に二人を残し、七人は斎宗宮外院へ入り込みました。外玉垣に沿うように内院目指して進みます。外院を抜け、中院に差しかると才姫が小声で警告します。


「まずいね、ここからはかなり人が居る。それにあれだけ篝火を燃やされちゃ身を隠せるほどの闇はないよ。布、ここらで黒を使うか」

「そうですね……禄姫様、ここはまだ業を使えますか」

「寿婆さんからだいぶ離れてしまいましたが、業はまだまだ掛けられる距離ですじゃ。ただこれだけ間が開きますと、入る時空によっては砂が落ち切る前に寿婆さんまでたどり着けないかもしれませぬじゃ」


 毘沙姫に背負われている禄姫の言葉を聞いてしばし考える布姫。が、すぐに決断を下します。


「できれば内院まで連れて行きたいところでしたがやむを得ませんね。では禄姫様と黒姫様はここで待機していただく事にしましょう。黒姫様、お願い致します」

「はあい、やっとあたしの出番だね」


 黒姫は帯に手を差し込むと小槌を取り出しました。髪は扇形に広がり先端が微かに白い光を放ち始めます。


「召す!」


 勢いよく小槌を振り下ろす黒姫。その足元に現れたのは、ふさふさとした冬毛に覆われた一匹の猿でした。


「キキッ!」

「しっ、静かに。まだ声を出しちゃ駄目だよ」


 黒姫は背負っていた風呂敷包みを解くと、中から握り飯を二つ取り出し猿に与えます。同時に小槌を自分の頭に当てて意思疎通も図っているようです。


「呼び寄せたのが猿では、ちと物足りぬのう。二月の逢阪峠越えの時のように熊でも呼ぶのかと思っておったが」

「熊はまだ冬眠中でしょ。それに気を引くだけならお猿さんで十分だよ」


 黒姫は猿に手を当てまだ話を続けています。猿も両手に握り飯を持ったまま大人しく黒姫を見詰めています。しばらくしてようやく黒姫の手が猿から離れました。


「やっと引き受けてくれたよ。斎宗宮にはお世話になっているから気は進まないけど、お腹が空いているからひと暴れしてくれるって」

「それはようございました。それでは黒姫様、お願い致します」

「は~い、じゃあやるね。かかれ!」


 黒姫が合図をすると、呼び出された猿は中院御殿目掛けて駆け出しました。最初に気付いたのは見回りの女官。続いて御殿の中から走り出してきた数名の女官。更には奥からも援護の女官が駆けつけています。


「キキッ、キキッ」


 猿はもらった握り飯を頬張りながら、御殿の縁側を走り、石を掴んで投げつけ、女官の髪を引っ張り、仕舞いには火が燃えている篝籠かがりかごの脚を蹴とばして倒したりと、好き放題に暴れています。

 飛び散った火の粉を払いながら大騒ぎをしている女官たちの様子を見ながら、布姫が尋ねます。


「才姫様、警護の者たちはどうなっておりますか」

「いいね。猿に掛かりっきりだ。これなら見付からずに奥へ進める」

「では参りましょう。黒姫様、禄姫様をお願い致します」

「任せて。早く与太ちゃんを連れてきてね~」


 禄姫の居るこの場所まで与太郎を連れて来れば、業を使って一瞬で寿姫の居る場所まで移動できます。誰にも見付からなければ業を使う必要はありませんが、万一の事を考えて二人を残していく策を取ったのでした。

 黒姫と禄姫を外玉垣の暗がりに残し、五人は中院の更に奥へと進みます。猿の騒ぎに気を取られたのか辺りに人影は見えません。全てが順調に進んでいる事に少し気が緩んだ恵姫、世間話でもするように瀬津姫に尋ねました。


「瀬津よ、与太郎はここでどのように暮らしておるのじゃ。牢にでも入れられておるのか」

「まさか。火鉢が三つある広い座敷で寝起きして、毎日御馳走を鱈腹食っているよ。完全に大名気取りさね」


 予想外の瀬津姫の返答にむっとする恵姫。辛くて寂しくてシクシク泣いている者を助けるならまだしも、そんな贅沢三昧の奴の為に骨を折るのは馬鹿らしい、帰るとするか、と言い掛けたのですが、さすがに言葉にはできませんでした。代わりに毘沙姫が話を継ぎます。


「人身御供となる者だからな。大切に扱われて当然だ。ならば与太郎は毎日遊んで暮らしているのか」

「それがそうでもないのさ。座敷から一歩も出ずにお福や蔵書役の女官と一緒に、毎日書物を読みふけっているんだよ」

「書を?」

「ああ。なんでも『本来なら今頃は大名家の二回目の吟味の為に勉学に励んでなきゃいけない、だからこちらでもそのようにする』なんて言っているらしいよ」


 それを聞いて恵姫たち四人は思い出しました。最後に斎主宮に現れた与太郎が語っていた言葉。「最初の吟味がうまくいったから、二回目に失敗しなければ、ふうちゃんと同じ大名家に奉公できそうなんだ」……与太郎は明るい顔と声でそう言っていたのです。


「まだ、その望みを捨てていないんだねえ、与太の奴……」


 才姫の呟きを聞いて恵姫の不機嫌は吹っ飛びました。自分たちの選択は間違っていなかった、そう感じたのです。


「うむ。やはりわらわたちは与太郎を助けねばならぬ。こちらの世の都合で彼奴の人生を奪ってよいはずがない。与太郎には与太郎の人生を歩ませてやるのじゃ。瀬津、急ごう」


 先頭を行く瀬津姫を追い抜かんばかりの恵姫。少しだけ明るくなってきた空の下、中院を抜け内院の敷地へと入り込む五人の姫衆ではありました。

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