水沢腹堅その五 間渡矢丸出港
玄関を塞ぐように端座している磯島。いつもならば出任せを言って誤魔化そうとする恵姫ですが、今日ばかりはそんな気にはなれませんでした。何もかも正直に話そう、そう思った時、磯島の方から話し掛けてきました。
「記伊の斎宗宮へ参られるのですね。与太郎殿を救う為に」
「知っておったのか、磯島」
「布姫様がこの城で一夜を過ごされると聞いた時、何をするおつもりなのか分かったのです。それを確かめたくて一晩寝ずにここに座っておりました。恵姫様、行くのはおやめくださいませ!」
磯島は勢いよく立ち上がると恵姫の体を抱き締めました。驚く恵姫。これほどまで情に溢れた磯島を見るのは初めてでした。
「磯島は奥方様に約束したのです。恵姫様を必ずや三国一の立派な花嫁にしてみせると。その約束、まだ果たしてはおりませぬ。記伊になど行ってはなりませぬ」
「済まぬ、磯島。もう決めたのじゃ。その手を放してくれぬか」
「いいえ、放しませぬ。行かせませぬ」
磯島にきつく抱き締められて恵姫の心に再び迷いが生じました。このまま与太郎を見捨てれば万事解決するのです。ほうき星は消え、世を覆っていた不作不漁や姫の力の減衰は無くなり、恵姫は松平家へ嫁ぎ、誰もが今まで通りの日々を送れるのです。
けれども恵姫の本心はそれを望んではいませんでした。磯島の背中を撫でながら静かな声で答えます。
「磯島の気持ちは分かる。しかしここで与太郎を見捨てれば、わらわは一生後悔するに違いないのじゃ。たとえ三国一の花嫁になったとしても、わらわは死ぬまで己の不甲斐なさを悔やみながら生きていく事になろう。磯島はわらわにそのような人生を送れと申すのか」
磯島の腕の力が弱まりました。分かっていたのです、磯島自身も。どれほど止めようと言い聞かせようと、恵姫を翻意させるのは無理なのだと。
「ならば磯島と約束してくださいませ。必ずここに戻って来ると。再びその姿を磯島に見せてくれると」
「分かった、約束する。わらわは必ずここに戻る。磯島を悲しませるような真似はせぬ。安心して待っておるがよい」
磯島の腕が離れました。膝を曲げ、両手を板に付け、深々と頭を下げます。何の保証もない約束。守られなかったとしても相手を責める事すらできない約束。それでも恵姫が口にした以上、それを信じるしかないのです。
「これまでずっと心配の掛け通しであったな、磯島。こんなわらわの世話をよくぞ今まで見てくれた。礼を申すぞ」
磯島は何も言いません。まるで別れの悲しみに押し潰されたかのように廊下にうずくまっています。無言の見送りを受けて二人は外へ出ました。冬の冷気が顔を刺します。
「庭の池が凍っておるのう。夜明け前の寒さは芯まで冷える。息まで凍りそうじゃ」
「今が一番寒い時刻。夜が明ける前に城下を抜けねば厄介です。急ぎましょう」
閉じている城門横の潜り戸を抜け山道を下る二人。城下に入り、厳左の屋敷を過ぎ、庄屋の屋敷を過ぎ、土起こしを待っている田の畦道に入った頃、東の空が明るくなってきました。
「どうされました、恵姫様」
声を掛ける布姫。急に恵姫が立ち止まったのです。背中に仄かな朝日を受け、自分たちが歩いて来た西の方角を眺めています。
生まれてから今日まで過ごしてきた間渡矢の城下。その姿をこの目に焼き付けておきたい、恵姫の背中はそう言っているように思われました。が、それは長くは続きませんでした。すぐに向きを変え、畦道を歩き出します。
「間渡矢城下との別れは済ませられましたか」
「うむ。余り見ていると長くもない後ろ髪を引かれるからのう。未練が募らぬうちにお別れじゃ」
田園地帯を抜け林に入る二人。ここまで来れば間渡矢港はもうすぐです。人目に付かない気楽さからか恵姫の口も軽くなります。
「川のせせらぎが微かに聞こえるわい。さすがに池と違って川は凍らぬようじゃ」
「はい。されど山深き沢ならば川が凍り付く事もございます。それどころか瀑布がそのままの姿で氷に変わる事すらあるのです」
「ほう、滝まで凍るか」
凍て付く北の大地から灼熱の南の砂浜まで旅を続けている布姫。そのような光景を見たのは一度だけではないのでしょう。
「
普段と変わらぬ布姫の穏やかな言葉。しかし恵姫は静かな怒りを感じました。恐らく布姫はずっと以前から斎主に反旗を翻す心積りをしていたのでしょう。
二人は林を抜け、野を抜け、ようやく間渡矢港の外れにやって来ました。朝日に照らされた沖合には間渡矢丸。そしてすぐ近くの岸壁には布姫の帆掛け船が横付けにされ波に揺れています。
「布の起こす風で走る船か。乗るのは初めてじゃな。お手柔らかに頼むぞ」
「恵姫様がご自分の髪を巻き付けたりしなければ、快適な乗り心地をお約束できます」
海の上ですから恵姫の影響を受けた波や潮風が若干船に作用しますが、布姫の風に比べれば無視できる程度のものです。
「ふうぅぅー……」
漂っていた大気がその息にまとわりつき、やがて大きな風となって帆を膨らませました。船は海面を滑るように走り始めます。船端に腰掛けた恵姫は遠ざかる間渡矢港の岸壁を眺めました。残してきた城の者たち、伊瀬の姫衆の五人、城下の領民、これまで共に過ごしてきた人々の顔が浮かんでは消えていきます。
「本当にこれが最後の見納めじゃな。考えてみればこうして布と二人だけで時を過ごす事など、これまで一度もなかったのう。何やら新鮮な気持ちになるわい」
「私も恵姫様とご一緒できて大変嬉しく思っております。一人旅より二人旅の方が心強いですからね。道中、頼りにしておりますよ」
「買い被りじゃ。毘沙ならいざ知らず道連れがわらわでは頼りにならぬであろう。むしろこちらが布の足を引っ張りそうじゃ」
「いいえ、恵姫様さえ居ていただけるなら、それは他の姫衆が居るのと同じでございます。さればこそ恵姫様をお連れしたのです」
布姫らしからぬお世辞に苦笑いしかできない恵姫。けれども褒められているのですから悪い気はしません。
沖に停泊している間渡矢丸目掛けて、帆掛け船は一直線に進んでいきます。やがてその船尾に近付くと布姫が逆風を起こして帆掛け船を止めました。間渡矢丸からは既に掛け梯子が垂れさがっています。これも寛右があらかじめ用意しておいてくれたのでしょう。
「この船は間渡矢丸に乗せるには大きすぎます。綱を渡して曳いて行く事に致しましょう」
布姫は船首に括り付けられている綱を持ち、吐いた息に乗せてその先端を間渡矢丸目掛けて放り上げました。まるで何かに引っ張られていくかのように間渡矢丸の船尾へ舞い上がっていく綱。
「やっと来たか」
声と同時に腕が現れ、舞い上がった綱を掴みました。続いて現れた姿を見て、恵姫は驚きの声を上げました。
「び、毘沙ではないか。何故ここに」
「んっ、いや、記伊に攻め込むと聞いたのでな。戦いとなれば行かざるを得ぬなと思ったのだ」
「だ、誰からそのような事を……」
「あたしだよ」
毘沙姫の横に才姫が現れました。湯呑を持っているのでどうやら船で一杯やっていたようです。
「乾神社に餅を持って行った日、何かあるなと感じたのさ。榊の場所から布や宮司殿と一緒に帰って来ただろ。しかも行く前とは打って変わって驚くくらい元気になって帰って来た。与太郎を助ける気になったんだとすぐに分かったよ。
「一緒に行くと言うのか。しかし船にはわらわたち二人分の水と食い物しか……」
「やだなあ、毘沙ちゃんに頼んで積み込んでもらったに決まってるじゃない。めぐちゃんと遊んで城から帰った後、そのまま皆で荷物を持って船に乗り込んだんだよ」
今度は黒姫が現れました。きつね色に焼けた餅を持っています。
「く、黒。そなたまで……しかもまた餅を食っておるのか」
「もう、めぐちゃんったら水臭いんだからあ。あたしだって与太ちゃんを助けてあげたいってずっと思っていたんだよ。少しは協力させてよ」
「い、いや、しかし……」
「恵様、我ら伊瀬の姫衆の間で何を遠慮なさっておいでじゃ、のう寿婆さんや」
「まったくですじゃて禄婆さん。斎主様に腹を立てているのは恵様、布様のお二人だけではないのですじゃ。わしらも一泡吹かせてやらねば気が済みまぬじゃて」
禄姫と寿姫は頭巾を被っています。明け方の潮風はさすがに老体に堪えるのでしょう。
「禄、寿、年寄りの冷や水という言葉があるのを知らぬのか。無茶にもほどがあるぞ」
「恵様、それを言うなら、老いては益々壮なるべし、でございますじゃて、のう禄婆さんや」
「老い木に花が咲く、とも申しますじゃ。わしらも一花咲かせてやりましょうぞ、寿婆さん」
「おーい、綱を結び終わったぞ。二人とも早く上がって来い」
毘沙姫の言葉を受けて掛け梯子を上がる恵姫。布姫は自分の荷物を風で間渡矢丸に投げ上げてから、同じように登って来ます。
甲板に立った恵姫の前には五人の姫衆。毘沙姫、才姫、黒姫、禄姫、寿姫。そして掛け梯子を登り切って横に並んだ布姫。
「そなたたち、本当の良いのか。与太郎を助けるのは斎主様に歯向かうのと同じ。間違いなく伊瀬の姫衆を追放されよう。いや、それどころか生きて帰れるかどうかも定かではないのじゃ。それでもわらわと共に行くと言うのか」
六人は笑っています。笑ったまま頷いています。余計な事を訊くんじゃない、六人の笑顔はそう言っているのです。
張り詰めていた恵姫も笑顔に変わりました。そして自分の髪を一本引き抜くと間渡矢丸の舵に括り付けました。
「ならばわらわと共に参ろうぞ、六人の姫衆よ。これよりわらわたちは記伊の斎宗宮へ向かう。与太郎を助け出し、ほうき星の縛りからこの世を解放するのじゃ。間渡矢丸、出港ぞ!」
恵姫の言葉を受けて、間渡矢丸の船体が身震いするように揺れました。船首を南東に向け、勢いよく走り出す間渡矢丸。
『与太郎、待っておれ。必ずわらわが助け出す。この命に代えても……』
昇りくる朝日を浴びながら、今一度決意を新たにする恵姫ではありました。
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