芹乃栄その五 断罪剣
雁四郎は中院御殿
「ふむ、なかなかに面白いものでござるな。倭姫様の話なども書かれておるし、姫についての知識も多少は増えようというもの」
読んでいるのは古事記です。島羽城で氷雨の意味について恵姫から文句を言われた時、才姫が例に出して説明した書。それ以来興味を持った雁四郎は手隙の時などに読んでいたのでした。
「それにしても此度は遅うござるな。余程大切な話をしておられるのであろうか」
「……さーん……」
雁四郎は書から目を離しました。静寂な斎主宮には場違いな叫び声が御殿の外から聞こえてきたのです。
「空耳? いや、しかし……」
「雁さーん、助けてー、雁さーん!」
「これは、与太郎殿の声!」
空耳などではありません。間違いなく自分を呼ぶ声、しかも助けを求めているのです。雁四郎は諸大夫の間を出ると中院御殿の外へ飛び出しました。ざわめきは内院から聞こえてきます。そこに集まっているのは手に杖を持った大勢の女官たち、その向こうには斎主と姫衆、その二つの集団の間に恵姫と与太郎が挟まれています。
「恵姫様―!」
駆け出す雁四郎。取り巻いていた女官の輪が崩れ、数人が雁四郎に対峙します。
「これは何事でござるか。一体何が起きたというのです」
「詳しい話は後じゃ。雁四郎、与太郎を連れて逃げよ。ほうき星が沈むまで与太郎を守るのじゃ」
事態が飲み込めぬ雁四郎は立ち尽くしたままです。如何に恵姫の命令といえど、理由も分からぬまま女官たちに歯向かう事などできません。
「何をしているのです。早く与太郎を捕えるのです」
雁四郎が手出しできぬと分かった斎主は再び女官たちに命じました。じりじりと二人に迫る女官たち。恵姫は髪を広げ、手に持った印籠を高く掲げます。
「近寄るでない。神海水の餌食になりたいのか」
「はったりです。御殿の扉を破るために二度も使ったのです。もう神海水は残っていないはず、騙されてはなりません」
斎主の言葉を聞いても恵姫は髪の発光をやめようとしません。本当に残っていないのか、それともまだ残してあるのか、半信半疑の女官たちは踏み込む事ができません。と、その時、
「雁さん!」
いきなり与太郎が雁四郎目掛けて走り出しました。意図を悟った雁四郎も声を上げて走り出します。一点突破。二人に挟まれた形になった女官が怯んだ隙に、与太郎は女官の囲みを抜けました。
「よくやった、そのまま逃げ続けるのじゃ! 与太郎、二度とこちらに来るでないぞー!」
歓声を上げる恵姫。雁四郎と与太郎を追う女官たち。斎主の顔に怒気が現れました。普段の穏やかな表情は影を潜め、般若の如き鬼相が浮かび上がってきたのです。
「恵姫、斎主の命に逆らったそなたの罪、最早赦す事はできません」
斎主の髪が七色に光りながら扇形に広がりました。同時に懐から引き出された右手には懐剣が握られています。
「あれは、あの剣は!」
傍らに立っていた毘沙姫の切羽詰まった声。斎主の髪の輝きが虹色から赤へと変わりました。鞘を抜かれた懐剣の刀身は毘沙姫の剣の如く赤色の光を放っています。
「姫の犯した罪、断髪によって償うべし!」
「恵、逃げろ!」
毘沙姫の叫びと同時に斎主も声を発し、炎のような赤光をまとった懐剣を放ちました。
「断罪剣!」
手を離れた懐剣は斎主の発した声に乗ると、まるで意思を持っているかのように恵姫に向かって一直線に突き進みます。恵姫が振り向く間もなく襲い掛かる懐剣。まだ青い発光を続けていた恵姫の黒髪は一瞬のうちに肩の辺りから切り落とされ、粉々に砕けて風に散りました。
「わ、わらわの、髪、が……」
自分の生命力を集中させていた髪、それを断ち切られた為、意識を失ってその場に倒れる恵姫。それを見た雁四郎の表情が一変しました。
「恵姫様ー、うおおおー!」
与太郎の手を放して雄叫びを上げると、斎主御殿に向かって走り出す雁四郎。同時に桜色の刀の柄に手が掛かりました。
「やめろ、雁四郎、抜いてはならん」
毘沙姫の静止の声など耳に入りません。勢いよく抜刀し斎主目掛けて突進します。毘沙姫は韋駄天の如き速足で駆け寄ると、振り上げた雁四郎の右手を掴みました。
「馬鹿、何故抜いた。ここは斎主宮の内院。武家にとっての殿中に等しい場所。刀を抜けばどうなるか知らぬおまえではあるまい」
「放してくだされ、毘沙姫様。恵姫様に刃が向けられたのですぞ。主を守るのが我が役目。抜刀は当然でござろう」
「相手は斎主様だ。勝てると思っているのか」
「恵姫様のためなら命など惜しくはない、武家の出である毘沙姫様ならば分かって、ぐふっ……」
いきなり自分の腹に砲弾を撃ち込まれたかのような重い衝撃を感じた雁四郎。毘沙姫の拳を腹にめり込ませたまま両膝を折り、苦悶の表情を浮かべて地に崩れ落ちました。
「少し頭を冷やせ、雁四郎」
「め、めぐみひめ、さま……」
弱弱しく呻きながらも、地に伏している恵姫に這い寄ろうとする雁四郎。毘沙姫は雁四郎の腰から桜色の鞘を抜き、取り上げた刀を収めました。中院の方へ目を遣れば女官たちが所在無さげに立っています。
「与太郎はどうなりました」
斎主の問い掛けに首を横に振る女官たち。その手には与太郎の着ていた旅装束と、寝巻を包んでいた風呂敷が揺れています。ほうき星が沈み与太郎は帰ってしまったのです。
「あと少しのところで……何という失態」
与太郎を取り逃がしたのは斎主にとっては大きな痛手でした。真実を知った与太郎がもう一度こちらに来るとはとても考えられなかったからです。それでも斎主は気を取り直して女官たちに命じました。
「恵姫を外院の仕置き部屋へ運びなさい。雁四郎は縄を掛けて牢へ。二人の裁きは後日行います」
「めぐちゃん、大丈夫」
倒れている恵姫の元へ黒姫が走ります、続いてお福。恵姫は完全に意識を失っていました。女官の用意した戸板に乗せられ、黒姫とお福に付き添われて外院へと運ばれて行きます。
「一番若い姫様になんと酷い仕打ちじゃ。そう思わぬかえ、禄婆さんや」
「まったくじゃて、寿婆さんや。いくら斎主様でも断髪は非道すぎますじゃ。姫の髪は伸びぬ。あの髪のまま一生を過ごせとは……わしらも行きましょうぞ、寿婆さんや」
禄姫と寿姫も戸板に乗せられた恵姫の後を付いて行きます。
「雁四郎は私が運ぶ。縄は不要だ。立て雁四郎、肩を貸してやる」
腹を押さえてふらつきながら立ち上がった雁四郎を毘沙姫が支えました。二人は女官の手を借りず外院へ歩いていきます。
「斎主様、これを」
女官が手渡したのは恵姫の髪を断った懐剣です。斎主はそれを鞘に収め懐に仕舞うと、もう何も言わず斎主御殿へと帰っていきました。
「だから……だから何も知らないまま、お福を記伊へ連れて行きたかったんだ。こうなると分かっていたから……ごめんよ、恵」
瀬津姫が地に両手をつけ背中を震わせています。斎主の後に続いて斎主御殿へ行こうとしている布姫に向かって才姫が言い放ちました。
「お待ちよ、布。あんただって分かっていたはずだ。恵や与太に真実を話せばこうなるって事を。なのにどうして話したのさ。どうして教えたのさ」
才姫の言葉を聞いて一瞬足を止めた布姫。静かな声で答えました。
「斎主様が断罪剣を使うとは思っておりませんでした。恵姫様には気の毒な事を致しました」
「それだけかい。他にも何か言う事があるんじゃないのかい」
重ねて問う才姫。しかし布姫はもう何も答えません。振り返りもせずそのまま斎主御殿へ歩いて行きました。
「何を考えているんだい、布……」
地に伏したままの瀬津姫の背中を撫でながら、静かに去っていく布姫の後姿を見詰め続ける才姫ではありました。
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