麋角解その三 瀬津姫の頼み

 冬至の日、恵姫の髪を抜こうとした与太郎に罰を与えるため、自分たちの望む物を持って来させる事にした恵姫たち四人。さてどのような品にしようかと四人は協議を重ねた末、


「ねえねえ与太ちゃん、前から気になっていたんだけど『しよくらあと』って南蛮の飲み物があるんだって。小豆餡のように黒く、小豆餡のように甘く、それなのに苦みもあるという不思議な飲み物」

「なんでも百年近く前に陸奥国伊達家の家臣が南蛮に渡った時、そのような飲み物を供されたそうじゃ。黒もお福もそしてわらわも一度口にしてみたいと思っておる。それを持って参れ」

「……!」

「与太、あたしは南蛮の酒が飲みたいね。何でもいいから持ってきな」


 と、このように四人から言われたのでした。


「南蛮の酒となるとビールかワインかなあ」


 どちらも大昔から存在している嗜好品なので、持って来るのに問題はないはずです。一方、恵姫たちに言われた「しよくらあと」は何の事かさっぱり分からなかった与太郎。元の時空に戻ってあれこれ探した結果、どうやらチョコレートらしいと分かりました。そこで売れ残って安くなっているクリスマス菓子を買い込んで持ってきたのでした。


「与太郎、『しよくらあと』は飲む物じゃと聞いておったぞ。これは食う物であろう。間違えたのではないか」

「う~ん、今でも飲んではいるけど、どちらかと言うと固めて食べるのが主流なんだよ。味噌だって汁にしたり味噌玉にしたりするでしょ。あんな感じなんだ」


 これで納得した恵姫。さっそく皆で味わう事になりました。せっかくなので甘党の雁四郎や運よく下城せずに残っていた鷹之丞、亀之助を呼び、ついでに寛右や磯島や小柄女中も招いて、もはや年末の忘年会の如き様相となった表御殿の小居間。与太郎と瀬津姫の話し合いなど其方そっちけで賑やかに盛り上がっています。


「むむっ、奇妙な甘さじゃのう。香りも奇妙、溶け具合も奇妙、じゃが美味い。黒よ、鯛焼きの次はこれを作ってくれ」

「え~、無茶言わないでよ、めぐちゃん。でも本当に不思議な味だねえ」

「泡立つ酒とは愉快じゃないのさ。でもちょっと薄くないかい。これじゃ酔えないねえ」

「長崎では南蛮の赤い酒が飲まれていると聞いておる。恐らくこれがその酒なのであろう」

「与太郎、話があるんだ、いいかい」


 騒がしい小居間の隅で瀬津姫が手招きしています。与太郎は腰を上げると恐る恐る隣に座りました。


「瀬津さん、久しぶりだね。初対面の時みたいに刃物を首に押し当てて脅すような真似は勘弁してよ」


 与太郎が瀬津姫に初めて会ったのは港から城へ帰る小道の途中です。布姫の仕掛けた罠だったとはいえ、一歩間違えば怪我をしかねない状況でした。その後、月見の宴で親しく話し合いはしましたが、まだ若干の警戒心が残っている与太郎なのです。


「安心しな。今のあたしは角を落とした鹿みたいに大人しいのさ」

「それなら安心。で、僕に話したい事って何なの」


 瀬津姫は与太郎に顔を寄せると、声の調子を落として言いました。


「単刀直入に言うよ。あたしたちと一緒に記伊に来て欲しいのさ」

「紀伊? 和歌山県の事? どうして?」

「それは訳あって言えないんだ。とにかく何も訊かずに記伊の斎宗宮に来て欲しい。それがあたしの話、と言うより頼みだね」

「でも紀伊なんてすごく遠いでしょ。僕は半日しかこちらに居られないんだよ。斎宗宮に着く前に自分の時空へ帰っちゃうよ」

「その為に破矢を連れてきたんだ。ここから斎宗宮までは陸路で約五十里。破矢ならあんたを背負っても半日あれば余裕で駆け抜けられる距離さ。今日はもうほうき星が高く昇っているから無理だけどさ、次にこちらに来た時に、あたしたちと斎宗宮まで来て欲しいんだ」


 わざわざ間渡矢まで足を運んだ瀬津姫の頼み。できる事なら訊いてやりたいと思う与太郎ですが、どうにも気乗りがしないのでした。その一番の理由が斎宗宮に連れて行きたがる瀬津姫の狙いが分からないからです。


「めぐ様は何て言うかなあ。一応、僕はめぐ様や才様の家来って事になっているから、勝手に斎宗宮へ行くってのはなあ」

「恵や才なら大丈夫さ。最初に会った時、勝手に記伊へ連れて行っても構わないって言っていただろ。あんたの事なんてあの二人は全然気に掛けちゃいないのさ」


 瀬津姫に苦無を突き付けられた与太郎を助けようともせず「煮るなり焼くなり好きにせよ」と言い放っていた恵姫。確かに与太郎が記伊へ行こうが行くまいが二人にとってはどうでもいい事なのでしょう。

 そもそも与太郎と瀬津姫がこうして話をしているのに、それを気に掛けている者は一人も居ないのです。皆、自分勝手に食べ、飲み、お喋りをしています。このまま与太郎が瀬津姫や破矢姫と一緒に小居間を出て行っても、誰も気には留めないでしょう。


「聞いたよ与太郎。あんたこっちで思い出を作りたいんだってね。だったらこの世のもうひとつの姫衆の本拠地、記伊の斎宗宮を見ておくのも悪くないんじゃないのかい。伊瀬ほどの持て成しはできないにしても、間渡矢よりは間違いなく居心地はいいはずさ」


 その瀬津姫の言葉に偽りはないように思われました。そして与太郎自身も斎宗宮に対して少しばかり好奇心が出てきました。


『どうしよう。確かにこの時代の紀伊の国も見ておきたいけど、めぐ様が一緒に付いて来てくれるはずがないから、僕一人で行く事になるんだよなあ……』


 迷う与太郎。瀬津姫はもう承諾してくれたものと思って、破矢姫と一緒にワインを飲んでいます。こちらも才姫同様、酒にはかなり強いようです。


「ごめん、瀬津様。やっぱり僕は紀伊には行きたくないよ」


 瀬津姫の顔が強張りました。与太郎は如何にも申し訳ないという風に続けます。


「下田で布様から聞いたんだ。僕が本来出現するべき場所は斎宗宮だって。そこにはお福さんと同じ場がある。斎宗宮の敷地の中に居ればほうき星が沈んでも僕はこちらの時空に留まり続けるって」

「何だ、知っているのかい。それなら尚の事、記伊に来るべきじゃないのかい。布も言っていたんだろう、この世でのおまえの本当の住処は間渡矢じゃなく斎宗宮だって」

「うん。でもだからこそ行きたくないんだよ。だって僕をそこに連れて行くって事は、僕を斎宗宮に閉じ込めて元の時空に帰さないつもりなんじゃないの? 僕をこのままこちらの時空に留めておくつもりなんじゃないの?」


 瀬津姫の表情が歪みました。まるで喉に何か詰まらせたかのように言葉が出てきません。それを見て如何に人の心を読めぬ与太郎でも瀬津姫の考えが分かりました。伊瀬も記伊も関係なく恵姫以外の姫たちは嘘を極端に嫌うのです。瀬津姫が返答に窮しているのは与太郎の言葉通りだからに他ありません。


「瀬津様が何を企んでいるのか分からない以上、僕は斎宗宮には行けない。今のまま間渡矢で、もしくは伊勢で立春を迎える事にするよ」

「与太郎、あんたは何も知らないからそんな事が言えるんだよ」


 急に瀬津姫の表情も口調も変わりました。それは港から帰る小道で初めて会った、殺気を帯び敵意を剝き出しにしたあの時の瀬津姫そのままの姿です。


「知らないって言うのなら教えてよ、瀬津様。僕を斎宗宮に留めて何がしたいのか」

「言えないんだよ! あんたたちのために、それは言えないんだ!」


 小居間に響く瀬津姫の怒鳴り声。まるで波が退いて行くように、賑やかだった宴の場が静まり返りました。


「どうしたのさ瀬津、急に大声を出して。びっくりさせないでおくれよ」


 才姫だけでなく恵姫も厳左も、小居間で騒いでいた全員がようやく瀬津姫と与太郎が話をしていた事に気付いたようです。瀬津姫は自らの気持ちを静めるように大きく深呼吸をすると、吐き捨てるように言いました。


「済まないね姉さん。少し頭に血が上っちまったようだ。与太郎、そこまで言うのなら諦めるよ。でも覚えておくんだね。全てあんたの望み通りに事が運ぶと思ったら大間違いだよ。嫌でもあんたは記伊に来るんだ。破矢、帰るよ」


 立ち上がる瀬津姫。少し遅れて破矢姫も続きます。


「むちゃむちゃ。何じゃ瀬津、与太郎との話は終わったのか。それならゆっくりしていけ。南蛮菓子も酒まだ残っておるぞ、むちゃ」


 チョコレートを頬張りながら話し掛けてくる恵姫には何も言わず、静かに小居間を出ていく記伊の姫衆の二人ではありました。

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