第六十五話 さわしかのつの おつる

麋角解その一 才姫の頼み

 寒い日に外へ出るのが億劫になるのは、恵姫だけでなく誰にでも共通する気持ちでございましょう。本日は曇り空で日差しがなく、その上冷たい北風が吹いているとあっては、釣りをしに浜へ下りる意欲がすっかり萎えてしまうのも仕方のない事と言えましょう。


「ふは~、このように寒い日は座敷に籠もっておるに限るのう」


 今日の恵姫は殊の外だらけています。実は昨日、磯島に置炬燵を出してもらったのです。この置炬燵は細工好きの亀之助が冬に向けて工夫を凝らした新作で、炭を燃やす火鉢を囲むように木で櫓を組み、その上に布団を被せた物なのです。掘炬燵と違って櫓は持ち運び自由なので、好きな場所に置けるのが特徴です。

 座っている時には腰から下が、寝転がれば体全体が暖まる優れた暖房道具、炬燵。今、恵姫は炬燵から頭だけ出して、釣り上げられたマグロのように座敷に転がっています。


「はふ~、なんという心地よさじゃ。夏の扇風機もなかなかのものであったが、冬の炬燵は極楽浄土であるな。身も心も腑抜けにされそうじゃ」


 時代の今昔を問わず、世の東西を問わず、炬燵が人を駄目にするのは永遠の真理と言えそうです。


「おや、恵姫様、今日は釣りには行かれないのですか」


 またしても磯島が挨拶なしに襖を開けて座敷へ入ってきました。気のない声で答える恵姫。


「本日は休みじゃ。風が強くて海も荒れておる。このような日に釣りはできぬ」

「困りましたねえ。間渡矢丸の修理代を稼いでいただかねばならないと言うのに。これでは今日の夕食は菜無し、汁のみとなりましょう」

「そ、そこまでわらわをこき使うのか。先日は小雨の降る中、寒さに震えながら蓑を着て釣りをしたではないか。少しくらいわらわを労わってくれても良いのではないか」


 間渡矢丸の修理のために、釣った魚は全て銭に換えられている恵姫。冬至の日に庄屋の屋敷で魚を御馳走になってから今日で五日目。その間に魚を口にできたのは一度だけ、しかも干物です。余りの待遇の悪さに最近は島羽城への逃亡を本気で考え始めたりもしているのでした。


「おや、それほどまでに辛く感じておられたのですか。失礼致しました。確かに寒風吹きすさぶ中、釣竿を握ってじっと立っているのは、厳しい鍛錬を積んでいる修行僧ですら音を上げそうな荒行かもしれませんね。分かりました。それでは明日への鋭気を養うために本日はお休みください。夕食もきちんとお菜を付けましょう」

「うむ、分かってくれればよいのじゃ、ふわ~」


 このまま昼寝に移行しようとする恵姫。しかし磯島が単に恵姫の様子を見るためだけに座敷に来るはずがありません。すぐに起こしにかかります。


「お昼寝は後回しにしていただけませんか、恵姫様」

「何故じゃ。何か用でもあるのか」

「あるよ。才姫様が来たのさ。おや、炬燵かい。これは有難い」


 磯島の背後から声が聞こえたと思う間もなく、才姫が姿を現しました。こちらも遠慮なく座敷に上がりこみ、炬燵に足を突っ込んでいます。


「へえ、亀の奴が新しい炬燵を作ったと聞いていたけど、これはなかなか気持ちいいじゃないのさ。あたしにもひとつ作ってもらおうかね」


 才姫が足を突っ込んできたので、炬燵の中が少々窮屈になった恵姫。仕方なく起き上がって座布団に尻を乗せました。


「こんな風の強い寒い日に何用じゃ、才。城で急な病に罹った者でもおるのか」

「ちょいと、誰かが病にならなきゃ城に来ちゃいけないのかい。ああ、磯島、お茶を一杯もらえないかね。熱いのを頼むよ」

「かしこまりました」


 そのまま何も言わずに出ていく磯島。詳しい事は才姫に訊けと言いたいのでしょう。


「病でなければ何の用で来たのじゃ。ま、まさか明日のお稽古事のために来たとか申すのではなかろうな」


 以前、才姫は三味線の稽古を付けるために、黒姫と一緒に城へ来た事がありました。あの時は下手だの不器用だの情けなくなるだのと散々に罵倒され、三味線を見るのも嫌になってしまったのでした。あの悪夢がまた繰り返されるのかと思うと、知らず身震いしてしまう恵姫です。


「そうじゃないよ。恵に三味線を教えるのは猫にお手を教えるよりも難しいと分かったからね。ちょっとお願いがあって来たのさ」


 用件がお稽古事ではないと分かって安心の恵姫ですが、お願いがあるとなると気を緩めるわけにもいきません。面倒事でなければ良いがと思いながら尋ねます。


「才がわらわに願い事とは珍しいではないか。まあ、そなたには色々面倒を掛けておるからのう。余程の事でない限り聞いてやろうではないか。どのような頼みじゃ」

「簡単な話さね。与太がこっちに来たら教えて欲しいのさ」

「失礼致します」


 ここで磯島が女中を連れて座敷に入ってきました。女中は炬燵の上に二人分の湯呑と茶請けを乗せた盆を置き、頭を下げて出ていきます。才姫は待ちかねたように湯呑を握り、茶をすすります。


「ふう、寒い日に熱い茶を飲むとほっとするね。磯島、ありがとよ」

「どう致しまして」


 そう言って出ていこうとする磯島ですが、才島が引き留めます。


「お待ち、あんたもここで恵の返事を聞いとくれ。恵、早く答えなよ。頼みを聞いてくれるのかい、どうなんだい」


 背を丸めて才姫の話の続きを待っていた恵姫。これで話が終わりと知ってすっかり拍子抜けしてしまった様子です。


「何じゃ、この寒い中、城までの山道を登ってわざわざ頼みに来たのは、与太郎が来たら教えてくれ、それだけなのか」

「そうさ」


 ますます呆れ顔になる恵姫。自分の茶をすすりながら答えます。


「ずずっ、そんな物、お願いでも何でもないではないか。与太郎はそなたの家来。家来参上を知るのはあるじとして当然の権利。これからずっと知らせて欲しいならそうしてやるぞ。ずずず、ぷは~」

「有難い。なら頼んだよ。しかしこの炬燵ってのは一度入ると出たくなくなるね。しばらく休んでいってもいいかい」


 湯呑を持ったまま、意味ありげに磯島の顔色を窺う才姫。


「それは構いませぬが、ひとつ尋ねたい事がございます」


 いつの間にか磯島は二人と同じく炬燵に足を突っ込んで暖を取っています。炬燵の中はますます窮屈になってきました。


「何だい、まさかあんたは嫌だって言うんじゃないだろうね」

「そんな事は申しません。何故、与太郎殿参上を知りたいのか、その理由をお聞かせいただけないかと思いまして」

「おう、そうじゃ。これまで与太郎なんぞには全く関心がなかったのに、急にどのような風の吹き回しなのじゃ。わらわも知りたくなったぞ、ずずっ」


 才姫がにやりと笑いました。それを訊いて欲しくて磯島を座敷に残した、そんな感じさえする表情です。持っていた湯呑を盆に置くと、才姫は声の調子を落として答えました。


「大きな声じゃ言えないんだけどね、実はあたしの所に瀬津が来ているんだよ」

「瀬津! 記伊の瀬津が来ておると言うのか!」


 炬燵の暖かさによって春の霞が掛かっていた恵姫の頭の中は、この才姫の一言でたちまちのうちに晴れ渡りました。葦原で厳左に怪我を負わせ、布姫の罠に嵌まって捕らえられた記伊の姫衆のひとり、瀬津姫。既に間渡矢の面々と和解したとはいえ、伊瀬の姫衆を仲間に取り込もうという野望は捨てていないはずです。


「それで、瀬津姫様滞在と、与太郎殿参上を教える事と、どのような関係があると言うのですか」


 磯島は冷静です。瀬津姫の名を聞いていも少しも心乱される事なく、話を進めようとしています。


「瀬津が与太に会いたがっているのさ。話をしたいってね。そうそう、来ているのは瀬津だけじゃない。破矢はやも来ている。厳左たちもすっかり警戒の手を緩めているようだね。間渡矢城下に二人も記伊の姫衆が入り込んでいるのに気が付かないなんてさ」


 それについては言い訳できませんでした。公儀隠密による間渡矢襲撃の後は、三カ所に置かれていた土鳩を引き上げ、寛右が呼び寄せた伊賀の忍たちも里へ帰らせていました。厳左たちの関心事は破壊された城内の立て直しと江戸の恵姫たちの動向に集まっていたのですから、領内の警備が若干手薄になっていたのは致し方のない事だったのです。

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