熊蟄穴その三 不見不聞の策

 五日間限定とはいえ姫札を手に入れた恵姫一行。さっそくその日は食えや飲めやの贅沢三昧です。日暮れまで門前町で遊んだ後は、二月の時と同じく伊瀬の姫衆のために用意された宿坊に入りました。


「何じゃ、四人で一部屋なのか。いつもは二人部屋に通してくれるのにどうしたのじゃ」

「それが本日は新嘗祭という事で、都よりお越しの方々が多数居られます。この宿坊もその方々のためにお宿を提供しておりますれば、少々部屋が足りなくなりまして……誠に相済まぬ事でございます」


 恐縮してそう言われては文句も言えません。それに雁四郎ならば相部屋になったとしても遠慮も気兼ねも必要ありません。ここは素直に引き下がる恵姫です。


「しかし姫札の期限が五日と聞かされて胸を撫でおろしましたぞ。恵姫様、今回ばかりは当てが外れましたな」


 雁四郎にしては珍しく揶揄からかい気味の言葉です。これまで恵姫の我儘には相当振り回されてきたので、少し嫌味を言いたくなったのでしょう。それでも茶を飲んでいる恵姫はまるで動じません。そればかりか口元には不気味な笑みが浮かんでいます。


「ふっふっ、甘いな雁四郎よ。先ほども申したであろう。間渡矢へ帰るのは与太郎を斎主宮に連れて行ってからじゃ。それができぬうちは何枚でも姫札を貰える、つまり五日の期限など無いに等しいのじゃ」

「その点については心配なかろうかと思われます。与太郎殿が最後に姿を現してから既に二十日。しかも去り際に『これからはなるべくこちらに来るようにするよ』と申しておりました。うまくいけば今日、明日中にも現れましょう」

「ふっ、それはどうかな、ずずっ」


 相変わらずの悪人面で茶をすする恵姫。また何か悪巧みをしているのは間違いなさそうですが、それがどのようなものなのか一向に思い付かない雁四郎。さすがに疑心暗鬼の念が沸き上がってきました。


『何を考えておられるのだ。まさか与太郎殿をこちらに来させないような手を考え付かれたか? いや、あり得ぬ。そのような事できようはずがない。大丈夫だ、与太郎殿さえ現れてくれれば全てが丸く収まるのだ』


 それから雁四郎は事あるごとに「与太郎」を話題にしました。江戸で左右衛門が毎日与太郎の名を呼んでいたのを真似したのです。そして「噂をすれば与太郎」の諺通り、伊瀬に着いて三日目の朝、お福の隣に与太郎が眠っているのを発見した雁四郎は大喜びで恵姫を起こしました。


「恵姫様、起きてくだされ、与太郎殿が現れましたぞ」

「う~ん、何じゃ。まだ眠いのじゃ」


 寝起きの悪い恵姫、なかなか起きようとしません。その間にお福、才姫、そして与太郎も目を覚ましました。与太郎はいつものように薄い寝巻、そして腕にはこれまたお馴染みの布袋を巻き付けています。


「ふわ~、おはよう。こんな朝早くから雁さんがめぐ様たちと一緒に居るって事は、ここは間渡矢のお座敷じゃないし、江戸でもないし……あれ、どこなんだろう」

「我らは伊瀬に滞在中でござる。与太郎殿をお連れせよとの斎主様の仰せにより、与太郎殿が現れるのを待っておったのです」

「えっ、伊勢! うわ~、凄いや。江戸時代の伊勢神宮を見てみたいと思っていたんだよ。斎主様の用が済んだら連れて行ってよ」

「心得ました。間渡矢へ帰る前に神宮に寄ると致しましょう。恵姫様、異存はありませぬな」


 雁四郎が問い掛けても恵姫の返事はありません。まだ寝ているからです。そろそろ起きてもよい頃合いなので才姫も声を掛けます。


「ほら、恵。いつまで寝てるんだい。伊瀬逗留はお仕舞いだよ、与太が来たんだ」


 才姫に体を揺り動かされ、ようやく身を起こす恵姫。眠そうに目をこすっているその顔目掛けて、与太郎が元気よく挨拶です。


「めぐ様、おはよう。斎主様に会った後は神宮参りをよろしくお願いします」


 返事がありません。どこを見ているのかまるで分らぬ寝惚け眼の恵姫。与太郎はもう一度挨拶です。


「めぐ様、おはよう!」

「ふわ~、今日も与太郎は来ておらぬようじゃのう。伊瀬にはまだまだ留まらねばならぬようじゃ」

「はあ?」


 雁四郎と与太郎が声を揃えて首を傾げました。恵姫は大欠伸をした後、また横になろうとしています。慌てて雁四郎がそれを止めます。


「恵姫様、まだ目が覚めておられぬのですか。与太郎殿はそこに座っております。見えぬのですか」

「与太郎? はて、そのような者どこにおるのじゃ。わらわには与太郎の姿など見えぬぞ」

「もう、何をふざけてるの、めぐ様。僕はここに居るじゃない。ほらほら、僕の声は聞こえるでしょ」

「はて、与太郎の声などさっぱり聞こえぬぞ。やれやれ彼奴はいつ来るのかのう。このままでは師走になるまで間渡矢に帰れぬのう」

「め、恵姫様、まさか……」


 雁四郎はようやく恵姫の企みに気が付きました。姿など見えぬ、声など聞こえぬと言いながら、恵姫は悪人面でほくそ笑んでいるのです。


「まさか、与太郎殿が来ているのを知っていながら、来ていない事にしようとしているのではないでしょうね」

「ん~、雁四郎は何を申しておるのかな。実際に与太郎は来ておらぬのじゃから仕方なかろう。これでは斎主宮に連れては行けぬのう。あ~、いつになったら来るのかなあ~」


 これほど見苦しい悪知恵を働かせてくるとは夢にも思わなかった雁四郎。もはや怒りを通り越して情けなさすら感じてしまいそうです。しかしこのまま放っておいては、本当に師走になるまで恵姫は腰を上げようとしないでしょう。


『まずいな。これほどまでに伊瀬での遊行に執着されるとは、想定外でござった』


 財布の入った胴巻きを撫でる雁四郎。伊瀬滞在三日目にして既に軽くなっています。中野村での約束、浜を海水で満たす報酬を伊瀬で与えるというあの約束のために、昨日雁四郎は土産物屋で鯛車を買わされていたからです。この上、与太郎の滞在費まで負担すれば、どれほど節約しようと銭は底を突いてしまうでしょう。何としても今日中に与太郎を斎主に会わせ、明日にでも伊瀬を発ちたい雁四郎です。


「分かりました。恵姫様がその気なら、拙者が与太郎殿を斎主宮に連れて行きましょう。既に二度足を踏み入れている場所なれば、恵姫様が居らずとも勝手は分かっております」


 若干の怒りを感じさせる雁四郎の言葉。それでも恵姫の不敵な笑みは消えません。悪人面のままで答えます。


「ふっ、甘いな雁四郎。これまでお主が何事もなく斎主宮に入れたのは、わらわたち姫が付き添っていたおかげじゃ。姫を伴わずにおのこが足を踏み入れてみるがいい。鳥居をくぐった瞬間、十数名の女官がお主を取り囲み、即刻立ち去れと命じるはずじゃ」

「しかし与太郎殿を連れてきたと申せば、通していただけるのではないですか。これは斎主様の命なのですよ」

「甘い、甘い。如何なる使命を帯びた者であろうと、姫の同伴無しに足を踏み入れるおのこは問答無用で排斥されるのじゃ。いわば手形を持たずに関所を通ろうとするようなもの。悪い事は言わぬ。無駄な愚行はやめておけ、雁四郎」


 本当だろうか、いつものように出任せを言っているのではないだろうかと不信感で一杯の雁四郎。日頃の恵姫の言動を考えれば疑って掛かるのは当然だとしても、全くの出鱈目とも思えません。それに斎主宮でそんな騒ぎを起こせば比寿家の体面にも関わります。


「迷っておるようじゃのう雁四郎よ。試しに与太郎と二人で鳥居をくぐってみればどうじゃ。下手をすると曲者と思われて斎主宮に監禁されるかもしれぬのう。厳左の困り顔が目に浮かぶわい。ふっふっふ」


 それだけの危険を覚悟して試みるだけの価値はありません。といってこのまま恵姫の言い成りでは銭は減る一方です。こうなれば頼みの綱は才姫だけです。


「あの、才姫様。よろしければ今日拙者と共に与太郎殿を斎主宮まで連れて行ってはくれませぬか」


 お福と一緒に衝立の陰で朝の身支度を整えていた才姫。着替えを済ませて出てきたところで雁四郎が話し掛けました。衝立の向こう側に居たとはいえ、話は全て聞こえていたはずです。


「そうさね、まあ、あたしは伊瀬に居ようが間渡矢に戻ろうがどちらでも構わないし、恵の味方でも雁の味方でもない。だからあんたに手を貸してやらないでもないんだけどさ、人の力を当てにするってのは情けないね」

「はい。それは拙者も不甲斐なく思いますが、さりとてそれ以外の手立てが思いつきませぬ」

「恵を説得すりゃいいだけの事じゃないか。早く間渡矢に帰りたくなるような、一日でも早く斎主宮に行きたくなるような、そんな話をしてやればすぐに解決さね。頑張りな」


 どうやら雁四郎に手を貸すつもりはないようです。困った雁四郎はお福に視線を移しますが、申し訳なさそうに首を振るだけ。お福の立場はあくまでも恵姫に仕える女中なのですから、それも仕方ありません。


「ねえねえ、朝ご飯はまだなの。僕、お腹空いちゃったよ。伊勢の朝は何を食べさせてくれるのかなあ」


 雁四郎の苦悶も知らず呑気に食事の催促をする与太郎。その食事代は雁四郎が支払わねばならない事も分かってはいないのです。


『とにかく飯を食ってから考えよう。与太郎殿にも己の立場を理解してもらわねば』


 財布が入った胴巻きを撫でながら、深いため息をつく雁四郎ではありました。

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