山茶始開その三 臨戦態勢

 突然小居間に現れた四人のうち、与太郎が知っているのは布姫だけです。残りの三人は初めて見る顔でした。一体何者なのか訊こうと思う間もなく恵姫が大声を上げながら布姫に駆け寄ります。


「おお、布、来てくれたか。待っておったぞ。与太郎の奴が突然お奉行様の吟味の真似事など始めてのう。少々、面食らっておったのじゃ。布からも何か言うてやれ。間抜けなおのこにお奉行様など似合わぬとな」

「与太郎様、よくぞ気が付かれました」


 布姫は小居間に入ると与太郎の書いた紙を持ち上げ、書かれている文字を読み始めました。


「……何もかもここに書かれている通り。そして与太郎様の時代とは同じで、遅れている、そうなのでしょう」

「あっ、はい。でも理由はまだよく分からなくて」

「御城へ行く前にお話ししましょう。禄姫様、寿姫様、こちらへ」


 呼ばれて与太郎の傍に寄る禄姫と寿姫。左右から与太郎の手を取ると、二人の白髪の先端が淡い墨色に輝きました。


「如何ですか」

「布姫様の言われた通りですじゃ。与太郎様は遡ってはおられませぬ。そうですじゃろ、禄婆さん」

「はいはい、間違いありませんよ、寿婆さん。与太郎様はただ移っただけですじゃ」

「あ、あの、布様。このお婆さんたちは一体、何者?」


 いきなり現れ、手を握られ、意味不明な言葉を喋られては、与太郎でなくても気味悪く感じるのは当たり前でしょう。布姫は頭を下げると二人の紹介を始めました。


「これは失礼致しました。こちらは禄姫様、そちらは寿姫様。二人とも伊瀬の姫衆。与太郎様と共に御城へ上がる事になっております」


 どうやら布姫と共に、自分の江戸留め置きを阻止してくれる仲間のようです。与太郎は俄然元気になりました。


「それは頼もしいなあ。亀の甲より年の功って言うもんね。よろしくお願いします」

「おい、布。話の途中で済まぬが、わらわにも説明してくれぬか。与太郎は何に気付いたのじゃ。禄と寿は何を言っておるのじゃ。さっぱり分からぬぞ」


 さっきから完全に蚊帳の外に置かれたままの恵姫。仲間に入れてくれと言わんばかりに布姫に話し掛けます。


「恵姫様、これに関しては御城にて全てお話しするつもりでございます。それまでお待ちください」


 やはりしばらくの間は蚊帳の外に置かれたままのようです。不満顔で座布団に尻を下ろすと、廊下から慌ただしい足音と声が聞こえてきました。


「与太郎殿、布姫様、恵姫様、左右衛門でございます」


 小居間に入って来た左右衛門は息を切らし、顔中汗だらけ。相当急いでやって来たのでしょう。


「暑苦しいのう左右衛門。布だけでなく禄や寿、そして布が連れて来た供もおるのじゃ。少しは気を使え」

「相済みませぬ。布姫様、禄姫様、寿姫様、供のお方、ようこそお出でくださいました。実は先ほど老中より与太郎殿お目通りの日時を承り、急ぎ御城より舞い戻ったのでございます」

「ほう、公儀にしては素早い取り計らいではないか。して、いつ城に上がればよいのじゃ、明日か、明後日か」

「それが本日、申の刻に登城せよとの事でございます」

「な、何、今日じゃと!」


 恵姫が驚くのも無理はありません。参勤交代で上府した大名でさえ、老中に挨拶した後、将軍に謁見するまでに数日かかるのです。今日来たばかりの与太郎がその日のうちに将軍に会えるなど、到底考えられない事でした。

 布姫は眉をひそめていました。滅多に感情を表さない布姫にしては珍しい事でした。


「公儀の中には私たち姫衆と会うのを心底嫌っておいでの方がいらっしゃるようですね」

「布姫様、それは如何なる意味でありましょうか」


 左右衛門には布姫の言葉が理解できませんでした。それは左右衛門だけでなく恵姫たちも同様です。動揺する一同を見回して布姫が答えます。


「与太郎様召喚は比寿家に命じられたもの。本来、私たち姫衆とは何の関係もありません。しかし半日経てば与太郎様が消えてしまうため、それを防ぐ名目で姫衆の同伴が認められたのです」

「おお、そうじゃ。それについて訊こうと思っておったのじゃが、与太郎はお福の傍に居れば元の世に戻る事はないのであろう」

「はい。その通りです」

「しかし老中の屋敷に届いた文には、与太郎を留めるためには姫の力が必要、そう書かれていたそうではないか。何故与太郎が半日以上留まれる事をわざわざ公儀に教え、しかも姫の力が必要などと書いたのじゃ」

「それは私たち姫衆を与太郎様に同伴させるための方便でございます」


 方便、つまり嘘。これには恵姫も驚かずにはいられませんでした。まさか布姫がそのような姑息な手を使うとは思いもしなかったからです。


「あれまあ、いいのかい布。戒律を破るような真似をして。今度こそ言い逃れはできないよ」


 皮肉めいた口調で才姫に迫られても、布姫は顔色ひとつ変えません。


「いいえ、私は嘘を申してはおりません。戒律も破ってはおりません。なぜならその文は私ではなく寿姫様が書いたからです。いくら私でも他人の嘘は止められませんからね」

「そうですじゃ。あれはこの寿婆がついた嘘。布姫様は何の関係もないのですじゃ」


 恵姫も才姫も呆れてしまいました。布姫の指示で寿姫が書いたに決まっているからです。しかしそれはまた逆に、この件に関して布姫が手段を選ばぬほどの決意で臨んでいる事の表れでもありました。何としても公儀の前に出て、自分の思うところを表明したいのでしょう。


「ああ、分かったよ、そういう事にしておいてやるよ。で、どうして公儀は今日中に与太郎を目通ししたいんだい」

「ほうき星が沈むまでは与太郎様は決して姿を消す事はありません。つまり半日で全ての事を終わらせてしまえば、姫衆の付き添いは必要なくなります。公儀は、いえ、柳沢吉保様はそれを狙ったのです。姫衆に会わずに済むよう、強引に与太郎様のお目通りを今日にしたのです」

「えっ、じゃあ僕ひとりだけで、将軍とか老中とかと遣り取りしなくちゃいけないの」

「これは比寿家に言い付けられたお役目ゆえ、恵姫様、お福様の付き添いは認められましょう。しかしそれ以外の者の付き添いは一切拒否されるはずです」


 お福は口を利かないので同伴したとしても意味はありません。恵姫は同伴したところで、与太郎の援護になるどころか足を引っ張るだけです。結局、与太郎ひとりで頑張るのと同じ事です。


「む、無理だよう。僕がこの時代の偉い人と口論して勝てるわけがないよう」


 情けない声を出す与太郎。布姫は与太郎の傍に近寄り、その手を握りました。


「まだ時はあります。これから御城に上がるまでの間、私が与太郎様に知恵を授けましょう。大事なのは時を稼ぐ事です。与太郎様が消えるのは恐らく日没後しばらく経ってから。暮れ六つになっても話が終わらぬようであれば、与太郎様消失防止を理由に、私たち姫衆が公儀との話し合いに加われます。それまで話を引き延ばすのです」

「は、はい。頑張ります」


 布姫は与太郎の手を固く握り締めています。それだけで何となくやれそうな気になる与太郎です。


「あの、皆様、そろそろお話を切り上げて登城の支度に取り掛かっていただけませぬか。申の刻の謁見となれば、昼前に屋敷を出ねば間に合いませぬ」


 まだ汗が引かない左右衛門は遠慮がちに声を出しました。御城に上るとなれば供を従え行列を仕立てて行かねばなりません。将軍に謁見するとなれば装束も正装。城に着いてから着替える時間も考慮しなくてはなりません。


「分かった。わらわたちは登城に備えてまずは腹ごしらえじゃ。城坊主の機嫌が悪いと茶の一杯も出してくれぬからのう。与太郎は布の話をよく聞いて知恵をしっかり溜め込むのじゃ、良いな。それでは皆の者、かかれ!」


 掛け声と共に勇ましく小居間を出ていく恵姫。その後に続く姫たち。残った与太郎、布姫、そして布姫が連れてきた供の女の三人は、間近に迫った御城での謁見を乗り切るべく秘策を練り続けるのでした。

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