第五十一話 きりぎりす とにあり

蟋蟀在戸その一 孤軍奮闘!雁四郎

 島羽を発って六日が過ぎていました。御座船、間渡矢丸の甲板に仁王立ちになった雁四郎は、間近に迫って来た伊豆、下田の港を感慨深げに眺めていました。


「なんと長い六日間であった事だろう」


 初めての長旅、初めての船旅、それだけでも雁四郎にとっては相当な緊張を強いられる経験です。その緊張を更に加速させたのは船頭にして舵取り役の恵姫でした。

 間渡矢では磯島や厳左という口喧しい人物が居たため、恵姫の放埓もある程度抑制されていました。しかし船の上では完全なる自由。もはや恵姫の自分勝手に歯止めをかける者は居ません。


 例えば昼食後。天気も良く波も穏やか。今のうちに少しでも早く船を先に進め、期日の遅れを取り戻しておきたいものだと雁四郎が思っていると、


「うむ、よき日和じゃ。釣りでもするかのう」


 などと言っていきなり釣り糸を垂らし始める恵姫。そうなると船はピタリと止まってしまいます。恵姫が釣りを止めない限り決して動きません。雁四郎が、


「こんな所で道草を食っている場合ではありませんぞ。急がねば間に合いませぬ」


 と言っても平気な顔で、


「どんなに道草を食おうが下田には予定通り着くに決まっておるのじゃ。何故ならわらわが金目鯛の酒蒸しを望んでいるのだからな」


 などと、雁四郎には全く理解できない屁理屈を言い立てて、船はますます遅れてしまうのです。


 また、ある朝などは目覚めた雁四郎が船倉から甲板に出ると、朝日を左に見ながら船が進んでいます。慌てて黒鯛の間で寝ている恵姫を起こしたところ、


「ああ、鯨を丸齧りする夢を見ておったのじゃ。このまま進めば必ずや鯨に会えるに違いない」


 などと言うので、夢と現実は違うと必死に説得して東に向かわせた事もありました。


 日が経つに連れ心身共に消耗していく雁四郎。


「皆も恵姫様に何か言ってくだされ」


 と他の四人に頼んでもまるで他人事。お浪とお弱は恵姫が釣りを始めると磯桶とやすを持って海に潜ってしまいます。お福は元々江戸には行きたくないので、にこにこ笑うだけで飛入助と遊んでいます。才姫も同様に江戸には無関心なので酒を飲むばかりです。結局、雁四郎ひとりだけが気を揉む羽目になるのでした。


 唯一の救いは恵姫の睡眠時間が長い事でした。これは船を意のままに操るために、起きている時も寝ている時も姫の力を使い続けているからです。使う力は微々たるものですが四六時中使っているため疲労がたまり、睡眠時間が多くなっていたのです。


「眠っていても油断はできぬ。夢の中の意思でさえ船の動きに反映させてしまうのだから」


 恵姫とは逆に眠る時間が減っていく雁四郎です。


 そんな日々ではありましたが、辛い事ばかりではありませんでした。荒波の遠州灘を乗り切り、御前崎を無事に通り抜け、この分なら予定通りに下田の港に到着できそうだ、そう雁四郎が思った時、間渡矢丸は突然、船首を北に向けたのです。


「な、何故北へ……」


 しかし雁四郎はそれ以上何も言いませんでした。すぐに恵姫の意図が分かったからです。駿河の海を北へ進む間渡矢丸。その先に見えてきたのはなだらかな稜線を描く富士の山でした。


「……これが、富士……」


 雁四郎にとって富士は憧れのひとつでした。実際に見た事のある厳左や毘沙姫、布姫の話を聞くたびに富士への憧れは強くなり、やがて日の本一と称えられる山の雄姿を間近で見る事は雁四郎の夢になったのです。その夢が今、呆気ないくらい簡単に叶ってしまったのでした。


「田子の浦から見る富士か。確かに歌を詠みたくなる絶景だねえ。あたしゃ山見酒の方がいいけどね」


 富士を見ながら一杯やる才姫。これほど近くから富士を見たのは雁四郎だけではありません。才姫もお福もお浪もお弱も、皆、駿河の海の向こうに見える富士の美しさにただ見惚れるばかりです。


「どうじゃ、雁四郎。たまには道草も良いものであろう。ふっふっふ」


 恵姫が悪賢くほくそ笑みながら尋ねてきました。これまで道草は止めろと何度も言ってきた雁四郎でしたが、さすがに今回ばかりは同じ言葉は言えません。


「はっ、有難き幸せでござる」


 こう答えるのが精一杯の雁四郎でした。


 富士の山を十分に堪能した後、間渡矢丸は再び進路を南に取りました。そして当初の予定通り、島羽を出てから六日目の昼過ぎ、下田の港に到着しました。


「島羽から下田まで六日で行くなど、無茶にもほどがあると思っておりましたが、恵姫様の力を考えた上での日程でありましたか」


 他の多くの船は帆を上げて風の力を頼りに航海しますが、間渡矢丸は一度も帆を上げませんでした。恵姫の力によって起きる海流だけに頼って進めるからです。しかも昼夜関係なく航行可能なので、どれほど道草をしようと六日もあれば余裕で到着できたのでした。


「どうじゃ、雁四郎。わらわの言った通りであろう。ふっふっふ」


 富士の山を見た時と同じく悪人面でほくそ笑む恵姫。船頭も舵取りも恵姫に一任するという常識では考えられないような事を、何故厳左や寛右が許可したか、その理由がようやく分かり、


「はっ、御見逸れ致しました」


 こう答えるのが精一杯の雁四郎でした。


 間渡矢丸が寄港する下田は伊豆の国にあります。この時代、伊豆の国はほとんどが徳川家の直轄地、天領で、その地を治める代官所は韮山にらやまにあり、下田には奉行所が置かれていました。

 下田奉行の最大のお役目は船の監督と検問。江戸を行き来する船は必ず下田港に入り、大浦に置かれた船改ふねあらため番所の調べを受ける事になっていました。恵姫たちの御座船も例外ではありません。港に入ると、さっそく下田奉行配下の同心たちが小船を横付けにして乗り込んできました。


「船改めである。船頭はどこか」

「わらわじゃ」


 見て分からぬかと言わんばかりに胸を張って答える恵姫。ただでさえ目付きの悪い役人の顔が、ますます疑心に満ちています。


「おまえが船頭? 何をふざけている。隠し立てすると為にならんぞ」

「いや、隠し立てなどしておらぬ。この船の船頭はわらわなのじゃ」

「この小娘、あくまでも船頭を出さぬつもりか!」


 番所と恵姫の相性が悪いのは今に始まった事ではありません。二月に島羽城へ向かった時も、峠の番所と城の番所の二回に渡って揉め事を起こしていました。二度ある事は三度ある、今回もどうやらひと悶着ありそうな予感です。


「お待ちくだされ、恵姫様の言葉は誠にございます。これをお改めください」


 二人の間に割って入る雁四郎。これまで二度に渡って揉め事を経験してきたのです。今回こそは何事もなく済ませるために、準備は整えてあります。


「んっ、手形か。よし、見せてみろ」


 雁四郎が手渡したのは船往来手形です。船主や船頭の名、乗船している人数などが記されています。


「志麻国間渡矢領主比寿家御座船間渡矢丸。船頭恵姫……んっ、比寿家の恵姫とな……」


 往来手形を受け取った役人たちは頭を寄せ合うと、何やら小声で話し始めました。耳を澄ますと、「公儀が召喚」とか「姫の力」とか聞こえてきます。やがてひそひそ話が終わると恵姫に向き直りました。


「うぉっほん。手形によりおまえたちの言い分は確認できた。船内を改めさせてもらうぞ」


 咳払いをして手形を雁四郎に返すと、役人たちは間渡矢丸をあちこち調べ始めました。家光公が参勤交代を定めてからは箱根の関所同様、入鉄砲出女には特に念入りに目を光らせるようになっています。しかし、他の廻船と違って積み荷はほとんどない間渡矢丸。お調べはすぐに終わってしまいました。


「用が済み次第、速やかに港を去るように」


 こう言い残して船を下り、次の船へと向かう役人たち。余りにも呆気なく終わってしまったので、少々気抜けする雁四郎。


「ほほう、さすがは奉行所配下の番所じゃな。実にあっさりと終わらせおったではないか。島羽の番所とはえらい違いじゃ。これはつまり上に立つ者の違いでもあるのじゃな。乗里程度をかしらに頂いておる島羽の役人が実に気の毒じゃ」


 それは雁四郎も同感でした。しかしその理由は恵姫とは違っていました。


『こんな下田の地にまで、与太郎殿召喚も恵姫様の力も知らされているのだ。やはり公儀の力は侮れぬ』


 自分たちが立ち向かおうとしている相手の大きさを、改めて認識する雁四郎ではありました。

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