菊花開その四 十三夜の宴

 明日の江戸行きに備えて最後の点検をするために、島羽港に停泊中の御座船、間渡矢丸に乗り込んだ恵姫たち御一行。


 恵姫は釣竿を始めとする釣り道具一式が積み込まれている事を確認し、

 才姫は水樽の横に酒の一斗樽が積み込まれている事を確認し、

 お福は最近飛入助が好んで食べる干しいなごが積み込まれている事を確認し、

 雁四郎は素振りのための木刀二本が積み込まれている事を確認し、


 各々、自分たちの要望が叶えられている事に満足した後は、お浪とお弱に御座船を案内してもらいました。

 錨や帆の上げ下ろしのために縄を巻き付ける絞車こうしゃを見た雁四郎は、

「まるで大きな糸車のようでございますな」と驚き、


 航海安全を祈願する神棚と仏壇が一緒に祀られている棚を見たお福は、

「……」と手を合わせ、


 倒れないように底が広がった船行燈を見た才姫は、

「これで夜更けまで酒が飲めるね」と微笑み、


 火が外に出ないよう釜全体を陶器で覆った蒸しかまどを見た恵姫は、

「これで炊いた飯は格別美味いと聞いておる。楽しみじゃのう、じゅる」とよだれを垂らして、ようやく出港前日の点検は終了しました。


「うむ、準備万端整っているようじゃな。あとは明日の天候だけじゃ。こればかりは神にでも祈るしかないのう」

「大丈夫、私は晴れ女でございます。明日は必ず良き日和でしょう」


 勇ましく胸を叩くお弱。それだけで本当に雲を吹き払ってくれそうな気になります。


 帰りも小舟で送ってもらった恵姫たちは、明日の再会を楽しみにしてお浪と別れ、島羽城に戻って来ました。城内は今宵、恵姫たちの送別を兼ねた十三夜の宴の支度で大忙しです。


「恵姫様、今宵の宴は大天守横の月見櫓にて行います。夜風が冷たい頃ゆえ、一枚多く重ね着をされてお出で下さいませ」


 友乗直々に申し渡されてご機嫌の恵姫。島羽城天守は三層と小振りながら、その横に付け櫓がありました。初代領主内藤家によって作られたもので、専ら月見や花見の宴に使われている櫓です。

 これまで本丸御殿で傍若無人に城主を気取って来た恵姫ですが、天守にはまだ足を踏み入れてはいませんでした。江戸へ発つ前に是非とも天守最上階から城下を見回したいと密かに思っていたのです。


「遂に島羽城大天守に登る時が来たか。これでわらわも名実共に島羽城城主じゃ。はっはっは」


 けれども結局それは叶いませんでした。月見櫓へは天守に入らなくても入れるような構造になっていたからです。


「ほら、恵。いつまでも不貞腐れていないで甘酒をお飲み」


 既に宴は開かれていました。十三夜の月は日が沈む前に昇るので、まだ明るいうちに始めたのです。

 月見櫓には恵姫たち四人と寛右、友乗。下座には女中が一人控えています。恵姫は菊花を浮かべた甘酒を受け取ると、一気に飲み干して愚痴り出しました。


「ぐびぐび、くは~。まったく詰まらぬのう。天守の入り口は全て錠が掛かっておるではないか。開けてくれと頼んでも、乗里の許しがなければ駄目だなどとぬかしおる。糠喜びさせおって」


 天守に登らせてやるなどとは誰も言っていないのですから、これは完全に恵姫の言い掛かりでした。


「まあ、良いわい。楽しみは後に取って置いた方が大きくなるからのう。江戸から帰ったら父上に頼んで登らせてもらうとするか。ふっふっふ」


 どうやら江戸から真っ直ぐ間渡矢に帰るつもりはないようです。


 そんな恵姫の悪巧みに気付く事もなく、寛右と友乗はにこやかに盃を交わしていました。ようやく恵姫が江戸へ発ってくれると喜ぶ寛右。ようやく恵姫が島羽城から居なくなると喜ぶ友乗。肩の荷が下りた二人は菊酒と共に訪れた解放感をも満喫していたのです。


「生憎今夜は雲が掛かって月が見えませぬが、篝火に照らされた菊の花も風情があるものですな」

「月見ではなく花見の宴となってしまいましたな、はっはっは」


 重陽の宴の時と同じく、菊花を浮かべた温め酒を楽しみながら陽気に笑う寛右と友乗。送別の宴に付き物の惜別の悲しみは、今宵の二人には全く無縁のようです。


「栗飯、茹で豆、どれも良き味でござる。栗名月、豆名月と言われる通り、この時期の栗や豆の味は格別でござるな」


 御馳走に舌包みを打つ雁四郎。お福もじっくりと味わいながら食べています。六者六様の十三夜の宴。それでも六人の姿は開いた菊の花のように、明るさと希望に満ち溢れて見えました。


「才姫様、飲んでおられますか。それがしの盃を受けてくだされ」


 宴の席でも滅多に喋らない寛右が、珍しく人に酒を勧めています。余程今宵は機嫌が良いのでしょう。頬も薄っすらと赤くなっています。


「ああ、ありがとよ」


 素直に酒を貰い飲み干す才姫。こちらはいつもと変わらぬ酒豪ぶりです。


「ところで寛右、間渡矢からは毎日使いが来ているんだろう。鷹や亀や磯島の様子はどうなんだい。怪我はまだ治らないのかい」


 痩せても枯れても才姫は医者。やはり三人の様子が気になるようです。


「さほど心配はなさらずともよいかと思われます。磯島様の傷はすっかり塞がった御様子。まだ痛みは残っておりますものの、これまでと同じようにお役目をこなしておられるようです。指や腕の動きも支障はないようです」


 それもこれも与太郎の血のおかげです。重陽の節供の日に与太郎が来た時、磯島は両手をついて与太郎に礼を言ったのでした。


「磯島の治りの早さは尋常じゃなかったからね。で、他の二人はどうなんだい」

「鷹之丞は切り傷が体の各所にありましたので、伊瀬の榊原へ湯治に行かせました。これはまあ、傷の治療というよりは慰労のようなものです。此度は良き働きをしてくれましたからな。亀之助の方は、切り傷は大した事もなく脚の骨折だけですので、お役目を休ませて養生しております。されど毎日馬屋横の修理場に顔を出し、鯨の髭を使った細工物に精を出しているようです」

「細工物か。足は使えなくても手は使えるからね。また新しい風起こしの道具でも作っているんだろうさ」


 亀之助の手先の器用さは才姫の耳にも入っていました。武士や忍よりも職人の方が向いているかもしれない、そんな事を思わないでもありません。


「才姫様、明日はいよいよ江戸へ発たれますが、長旅の経験はおありですか」


 今度は友乗が陽気な声で尋ねてきました。こちらも寛右同様、少し顔が赤くなっています。


「ないよ。せいぜい伊瀬の斎主宮へ行くくらいのものさ。伊瀬には江戸からも西国からも人が沢山やってくるけどさ、何が面白くて旅なんかするのかと思うね」

「旅は良きものですぞ。初めて見る風景、見知らぬ人々との出会い、各地の名物料理。日常の憂さを晴らすには恰好のものではありませぬか」

「ふっ」


 才姫は鼻で笑うと盃を突き出しました。友乗に注いでもらうとそれを一気に飲み干します。


「それが旅だって言うのならさ、誰だって旅をしているんじゃないのかい。間渡矢から一歩も動かなくても、季節が変われば去年とは違う風景が見られる。他国から見た事もない奴がやって来る。黒が食ったことのない菓子を作って持って来る。初めての風景、初めての出会い、初めての食い物、こうしてここに座っていてもそれらは楽しめる。どこかへ行かなくても旅はできるのさ」


 寛右と友乗は顔を見合わせました。何か返答しろと互いに目で言い合っています。それでもどちらからも言葉が出ないと、それは笑いに変わりました。


「ははは、さすがは才姫様、一本取られましたな」

「いやはや、布姫様の如き御明察、御見逸れ致しました」

「おお、雲が切れて参りましたぞ」


 雁四郎の声に一同空を仰げば、薄雲の向こうで淡い光を放つ十三夜の月が夜空に浮かんでいます。


「月め、ようやく姿を現しおったか。うむ。これで片月見にならずに済んだのう。思い残す所なく旅に出られるわい」


 月光に照らされた月見櫓の宴はますます賑やかになってきました。そんな中で才姫は、昨年の十三夜を思い出していました。青峰山の茶屋から眺めた少し歪んだ月。一人で酒を飲みながら見る月はひどく冷たく感じられました。けれども今、こうして大勢で見る月は不思議と暖かく感じられるのです。


「まあ、なんだね。旅をするにしても、一人旅よりは道連れが居た方が楽しいって事さね」


 盃の酒面に揺れる月影を眺めながら、そんな独り言をつぶやく才姫ではありました。

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