寒露

第四十九話 こうがん きたる

鴻雁来その一 六日目の参上

 厳左が島羽領を訪れたのは一年最後の式日、九月九日重陽の節供の昼過ぎの事でした。供も連れずただ一人だけで島羽街道を北上した厳左。島羽城下に入って最初に向かったのは大給おぎゅう松平家筆頭家老、松平友乗の屋敷でした。


「厳左殿、お待ちしておりました。ささっ、お上がりくだされ」


 玄関先まで迎えに出てきた友乗に招かれ座敷に上がった厳左は、座布団に腰を下ろすや否や、深々と頭を下げました。


「此度の一件、松平家には誠に御迷惑をお掛けした。本来ならば直ちに参上し御礼申し上げるべきところ、諸々の事情によりそれも叶わず本日の遅参に至った次第、重ねてお詫び申し上げる」


 突然比寿家に降り掛かった忍衆襲撃の一件から、今日で六日が経っていました。何事においても迅速を旨とする厳左でしたが、城内の動揺を鎮め、騒動の後始末をつけ、正式に島羽領を訪問するには、それだけの日数が必要だったのです。


「丁寧な御挨拶痛み入ります。されど我が方としても海豚屋の一件については、比寿家から並々ならぬご尽力をいただいたのです。これで貸し借り無し。お互い気が軽くなりましたな。ははは」


 快活に笑う友乗。半年前、島羽城主である乗里への謁見を渋られて城下に留まる事になった恵姫たちに、自分の屋敷を提供した親切な家老はこの友乗だったのです。その柔和な物腰と言葉遣いに、さしもの堅物の厳左も心癒される思いがします。


「失礼致します」


 やがて女中が茶と茶請けを持ってきました。二人は茶を飲みながら、この六日間の出来事を思い出すのでした。


 * * *


 与太郎たちが厳左の屋敷に駆け込み、鷹之丞と亀之助の手当てを終え、なんとか動けるようになった厳左と共に港へ向けて出発しようとした時、城山から数名の武士が下りて来ました。縛られて奥御殿に押し込められていた城の番方たちでした。


 小柄女中によって縄を解かれ、ようやく自由になった番方たちは、中庭で気絶している忍を木に縛り付け、ついでに追って来られないように少々痛めつけ、自分たちの傷の手当てを終え、動ける者たちだけでも港へ向かおうと支度をしていました。

 その時、一人の忍が城に戻って来たのです。その忍は番方たちの抵抗を物ともせず、木に縛られた忍を助け、共に逃げ去ってしまったのでした。


「囮に気付いた忍たちは、まだ恵姫様が城内に留まっている可能性を考え、忍を一人、城へ戻したものと思われまする」


 番方たちの話を聞いた厳左は忍たちの周到さに驚きました。これほど抜かりなく事を進めるのであれば、残りの四人全員が西の海辺に向かったとは考えられません。三手に分かれて港へ直接向かった忍が居るはずです。


「急がねば。このままでは間違いなく追いつかれる」


 城の番方の手も借りて港へ急ぐ厳左。しかし結局は間に合いませんでした。厳左がようやくまともに歩けるようになったのは、林の中で地を揺るがすような轟音を聞いてからでした。厳左に盛られた毒の効き目はそれほどに絶大だったのです。


 ようやくたどり着いた間渡矢港、そこに停泊している黒鯨丸、松平家の助力。それだけでも厳左を驚かせるには十分でしたが、その後起こった黒鯨丸での一連の出来事は厳左の心に深く染み入るものでした。

 瀕死の磯島を見た時の絶望、その直後に目の当たりにした与太郎の申し出と恵姫の奇跡の業。金の間で味わった失意から歓喜への大転換は、これまでの厳左の人生の中で最も感銘深い出来事となったのです。


 忍衆襲撃の一件は黒鯨丸の間渡矢港乗り入れによって、取り敢えず落着する事になりました。しかし厳左や寛右にとってはそれからの方が大変でした。磯島の意識が戻らないのは当然ですが、力を使い果たした恵姫も金の間で昏睡に近い状態だったのです。


 番方の話によれば忍たちとの争いで、間渡矢城の門、城壁、木戸口、御殿の壁や屋根などが一部損壊しているとの事でした。また、忍たちは一旦手を引きましたが、再び襲ってくる可能性も捨てきれません。手負いにしたとはいえ、命を失った忍は一人も居ないのです。防御力の落ちた城へ恵姫を戻すのは躊躇われました。


「恵姫様たちも随分お疲れの御様子。もしよろしければ当分の間、島羽の松平家へ身を寄せられては如何かな」


 友乗のこの申し出は.厳左たちにとって渡りに船でした。島羽城は海へ突出した浮城。堀を満たしているのは海水です。恵姫にとってこれほど有利な城はありません。


「その申し出、有難くお受け致そう」


 厳左も寛右も二つ返事で了承しました。


 こうして恵姫たち五人はその日のうちに黒鯨丸で島羽城へと運ばれていきました。磯島は怪我の治療のため、才姫は医者として治療に当たるため、お福は恵姫たちの身の回りの世話のため、雁四郎は警護のためです。

 恵姫たちには島羽城本丸御殿の客間が供されました。二間続きの座敷に控えの間が付随した豪勢な書院造り。一の間に恵姫とお福、二の間に磯島と才姫、控えの間には雁四郎が詰めます。それは一万石程度の弱小大名には勿体無いほどの松平家の持て成しでした。


「恵姫様はまだ床から起き上がれぬとの事でございます」


 島羽城に身を寄せて五日目、使いの者からの報告に厳左は心配の色を隠す事ができませんでした。間渡矢から島羽へは毎日使者を送り、恵姫たちの近況を逐一報告させていたのです。


 海豚屋での一件の時と同じく、与太郎が自分の世に戻った途端、恵姫も才姫も高熱にうなされ始めたのでした。才姫は翌朝には熱が下がり、昼過ぎには起き上がって、磯島を診てやれるほどに回復したのですが、恵姫の熱は二日間に渡って続きました。三日目の朝にようやく熱が下がったものの疲労の度は激しく、使いの者の報告通り、五日経っても起き上がれない状態が続いていたのです。


「此度は仮病の必要もないはず。やはり相当大きな力を使ったに違いない」


 海水しか扱えないはずの恵姫が人の血に力を及ぼし、人から人へ移すという離れ業をって退けたのです。その体にどれだけの負担が掛かったのか、厳左には想像もつきませんでした。


「早く元通りの元気な姫様に戻って欲しいものだ」


 直接恵姫に会えぬ自分にもどかしさを感じながら、ただ祈る事しかできない厳左でした。


 一方、磯島の怪我は恵姫とは正反対でした。島羽に来て五日目には、寝床を出て歩けるほどにまで良くなっていました。


「こんなに治りが早い怪我は見た事がないよ」


 才姫がそう言って驚くほど磯島の回復は早かったのです。それは与太郎の血を受け入れた時から始まっていました。


 黒鯨丸の金の間で、業を使い終わった恵姫が倒れ込むと、磯島の髪の先端が薄らと光り始めたのです。神器持ちの姫と変わらぬ発光、与太郎を始めとしてそこに居る全員が驚きました。


「これ、何が起こっているの。磯島さんにめぐ様の力が乗り移ったような、この髪の輝きは……」

「与太、ちょっと外に出な」


 才姫は与太郎の手を引っ張って屋形の外に出ると、すっかり明るくなった空を見上げました。


「ほうき星がやけに小さくなっているじゃないか。となれば、磯島の髪の発光もあんたによって引き起こされたんだろうね」

「ぼ、僕が原因なの」


 与太郎が来れば姫の力は回復し、ほうき星も小さくなる、その関係は斎主宮で聞かされていました。磯島は姫として認められてはいませんが、虫を操る力を持っています。与太郎の血を受け入れた事で元々持っていた姫の力が増大した、才姫はそう考えたのです。


「磯島の髪の発光、布にも見せてやりたかったよ。いや、ひょっとしたらこうなる事すら予期していたのかもしれないねえ」


 卓越した先見の明を持つ布姫。もしこの場に居たとしたらどんな話をしてくれただろうか、そんな事を考えながら与太郎と共に潮風に吹かれる才姫ではありました。


 島羽の恵姫たちと間渡矢の厳左たちの六日間は、こんな調子であっという間に過ぎていき、重陽の式日の今日、間渡矢の混乱をひとまず鎮めた厳左が、ようやく島羽を訪れる事となったのでした。

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