第四十一話 てんち はじめてさむし

天地始粛その一 新型扇風機

 今日で七月も終わり明日からは八月です。盆休み気分がまったく抜けなかった恵姫も、ようやくいつもの生活に戻りつつありました。


「虫の声がよく聞こえるようになったのう。秋の気配もそこはかとなく漂い始めておるようじゃ」


 朝食を終えてゴロゴロしながら、庭から聞こえて来る鳴き声に耳を澄ます恵姫。まだ夏座敷のままですが、軒先の風鈴や葦簀は片付けられています。


「今日は少し風が強いようじゃ。雲も広がって来ておるし、一雨あるかもしれぬな」


 開け放した御簾戸から強い風が吹いて来ました。思わず身震いする恵姫。


「日差しがないと随分ひんやりした風になるのう。朝晩に肌寒さを感じるとは言っても、昼間の暑さは以前と変わらぬからな。この扇風機だけはまだまだ手放せぬわ」


 恵姫は畳の上に寝っ転がりながら、座敷に置いてある扇風機を足で小突きました。これは与太郎が作った扇風機ではありません。与太郎によって試作された扇風機を元に、鷹之丞と亀之助によって改良を加えられた新型扇風機です。


「あの二人もなかなかに手先が器用ではないか」


 恵姫は足先で新型扇風機の取っ手を回しました。心地よい風が吹いてきます。勿論、これは誤った使用方法です。取っ手はあくまでも手で回すものであって足で回すものではありません。

 しかし足でゆっくり回してもこの扇風機はそれなりの風を起こせるのです。その最大の特徴は団扇の使用をやめた事にありました。


「団扇を斜めに取り付けただけでは、手で扇ぐような風は起こりませぬ。団扇を流用するのではなく、この仕掛けに相応しい風車を作った方がよろしいかと存じます」

「うむ、現状に満足せず更なる改善を試みようとする心意気、誠に天晴れである。良き仕上がりを期待しておるぞ」


 恵姫から激励され、馬屋の修理所で毎日知恵を絞る二人。表の役方、番方は毎日登城するわけではなく、登城しても昼八つ頃にはお役目が終わってしまうので、扇風機の工夫を凝らす時間はたっぷりあったのです。


「恵姫様、出来ましてございます」


 鷹之丞が持参した新型扇風機は実に美しい物でした。団扇が付いていた部分には不思議な曲がり方をした羽根が三枚付いていたのです。


「竹とんぼを真似て作りました捩じり羽根でございます。団扇以上の風を生み出してくれます」


 回してみると心地よい風が吹いてきます。しかもこれは一人で使えるよう、取っ手の側に風が吹いて来るように作られていました。恵姫は大喜びです。


「うむ、なかなか良き使い心地じゃ。ならば次は取っ手を回さずとも風が起きる扇風機を作るのじゃ」


 図に乗った恵姫にとんでもない注文を付けられ、言葉を詰まらせる鷹之丞。


「と、取っ手を回さずに……で、ございますか」

「そうじゃ。与太郎の世では雷神の力を借りて動く仕掛けがあるらしい。人の力ではない別の力によって風が起きる扇風機を作るのじゃ」


 恵姫の無茶振りは与太郎に対してだけではないようです。


 人の手を借りぬ扇風機……この時代では相当な困難を乗り越えなければ実現不可能に思えます。それでも鷹之丞と亀之助は果敢にこの難題に取り組みました.

 傍から見た二人は単なる鳥好きの若者と、覗き好きの助平でしかありません。しかし、その心の中には若者らしい挑戦心が燃えたぎっていたのです。


 二人は考えました。水車のように水の力で、風車のように風の力で扇風機を回せないかと、様々な試作を続けたのです。

 そうした試行錯誤の結果、遂に画期的な工夫を凝らした扇風機が完成したのです。今日はその試作品を持って来ると言うので、恵姫は朝起きた時からそわそわしながら待っているのです。


「鷹之丞め、遅いのう。土鳩と遊んでいるのではないじゃろうな。早くせねば磯島が来てしまうではないか」


 恵姫はかなりそわそわしています。早く扇風機の試作品が見たいからではありません。お稽古事を怠けたいからです。


 お盆休みが終わり、お福が元通りのお役目に就いた事で、六月に入って以来お休みになっていたお稽古事がようやく始まりました。二カ月も休んですっかり怠け癖が付いてしまった恵姫。考える事と言えば、どうすればお稽古事を怠けられるか、休みにできるか、楽に済ませられるか、そればかりです。


「お福の快気祝いの翌日はわざと昼に帰城して休み、次の日は体調が優れぬと言って休み、その次の日は頭が重いと言って休み、次は腹が重い、手が重い、足が重い、その他色々重い重いと言い続け、いよいよどこも重い所がなくなってしまったわい。明日はとうとうお稽古事をやらねばならぬのか」


 実はお盆が明けてからまだ一度もお稽古事をしていなかったのです。こんな理由でお稽古事を休みにするとは磯島らしからぬ甘さです。が、これは盆明けの恒例行事。いきなり始めてもだらだらして稽古にならないため、恵姫がその気になるまで磯島も大目に見ているのでした。

 そして今年も例年と同じく遂にお稽古事を怠ける口実がなくなり、仕方ない明日から始めるかと諦めかけていた恵姫の元へ、とんでもない朗報が舞い込んだのです。


「恵姫様、かねてより製作に励んでおりました自動回転式扇風機の試作品が遂に完成致しました。つきましては恵姫様にお目通しをお願いしたいのですが、いかがでしょうか」


 昨日、鷹之丞からこう切り出された時、恵姫はしめたと思ったのです。


「うむ。よくぞ完成させた。ならば明朝一番に持参致せ。隅々まで吟味してつかわそうぞ」


 こう言われた鷹之丞は、はたと首を傾げました。


「明朝一番……でございますか。しかしながら既に朝のお稽古事が始まっておられるはず。朝ではなく昼食後が良いのではないですか。拙者、明日は非番なれば、昼の刻といえども何の差し支えもございません」

「良いのじゃ。持って来るのは朝じゃ。分かったな」

「……承知致しました。それでは明朝」


 素直に下がる鷹之丞。してやったりの恵姫。そうです。お稽古事を怠けたいがために、早朝に持って来るよう言い付けたのです。

 朝食を済ませた恵姫が扇風機を足で回しながら鷹之丞を待っているのは、こんな理由があったからなのです。そしてその鷹之丞は未だに姿を現しません。恵姫も少々焦れてきました。


「遅い、遅いぞ鷹之丞。やはり土鳩と遊んでおるのじゃな。このままでは彼奴が来る前に磯島が来てしまうではないか」

「失礼いたします」


 噂をすれば影。葭戸を開けて磯島が入って来ました。


「本日はお針仕事のお稽古でございます。針など女中が持つ物、などと見下してはなりません。己の身に着ける装束は……恵姫様、妙に落ち着きがありませんね。何をそわそわしていらっしゃるのですか」


 磯島が疑念に満ちた目で恵姫を見詰めています。返事に窮した恵姫、いきなり立ち上がりました。


「ややっ、縁側に誰か来たようじゃ」

「あっ、姫様、お待ちなさい」


 磯島が止めるのも聞かず、縁側に走り出る恵姫。


『まだか、鷹之丞はまだ来ぬのか』


 中庭を見回します。誰も居ません。せめて厳左でも居れば、それを口実にして中庭に出ようと思っていたのですが、居ません。どうやら鯉の餌やりはとっくに終わってしまったようです。


「誰の姿も見えませぬが……」


 縁側に出て来た磯島がこれまた疑念に満ちた声でそう言いました。返事に窮した恵姫、いきなり中庭に下りました。


「ややっ、表御殿に人影がっ!」

「これ、姫様、お待ちなさい」


 踏み石に置いてある草履を履いて、表御殿に向かって駆け出す恵姫。さすがの磯島も後を追う気にはなれません。そうまでしてお稽古事から逃れたいのかと、すっかり呆れ顔です。


「これはもう明日と言わず今日から、無理やりにでもお稽古事を始めなくてはならないようですね」


 中庭を走って行く恵姫を眺めながら、ようやく磯島の鬼の心が発動した七月最後の日の朝でありました。

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