蒙霧升降その五 才姫の回想

 与太郎の話を聞いた才姫は顔をにやつかせながら言いました。


「そうかい、それは助けて欲しいよねえ。惚れた女のためなら何でもしてあげたいよねえ。それで与太郎。あんたはあたしに何をしてくれるのさ」

「へっ? 何をって?」

「嫌だねえ。何の褒美もなしにあたしに頼みに来たのかい。お福を治してやったら、あんたはあたしに何をしてくれるのさ」


 褒美の事など全く考えていなかった与太郎です。しかしこれは当然の要求でした。与太郎の時代の医者でも診療費をきっちり請求されるのですから。


「えっと、僕にできる事なら何でもします。三百年後の世界から色んな物を持ってきますよ。鯛焼きとか素麺とかはどうかな。めぐ様も結構喜んでくれています。才様もきっと気に入ってくれると思います」

「そんな物に興味はないねえ」


 才姫は首を振ると顔を伏せたままの恵姫を眺めました。頑なに押し黙ったままの恵姫。才姫は顔をしかめると揶揄からかうように言いました。


「そう言えば、与太郎は恵の家来だって言っていたねえ。恵、与太郎をあたしの家来にしてもいいかい。それなら考えてやらないでもないよ」

「与太郎など好きにすればよい。わらわにとってお福は与太郎よりも大切なのじゃ。そんな役立たずの家来、才にくれてやる」

「えっ、ちょっと、めぐ様、それはあんまりじゃない」


 与太郎の嘆きは恵姫の耳には入りません。そして才姫の顔もまた以前より一層歪んでいます。


「そうかい。じゃあ貰っておくよ。で、恵は何をしてくれるんだい。大切なお福を助けるために、あたしにどんな褒美をくれるんだい」


 恵姫は黙ったままです。答えようがないのでしょう。見兼ねた毘沙姫が口を出しました。


「才、余り恵を困らせるな。銭ならおまえの言い値を払う。それで納得してくれ」

「毘沙は黙っていな。あたしは恵に聞いてるんだよ」


 三人の姫はそのまま黙ってしまいました。誰も何も話そうとせず、身じろぎすらできない緊迫した雰囲気が漂っています。長い沈黙に居た堪れなくなった与太郎がおずおずと才姫に訊きました。


「あ、あの、才様、付かぬ事を伺ってもよろしいでしょうか」

「なんだい」

「才様は死に愛されている姫と聞きました。生き物から命を奪う業を持っているんですよね。それでどうやって人の命を助けるんですか」

「ふっ、そうだね、何も知らなければ奇妙な話だね」


 才姫は懐に手を入れると何かを取り出しました。繋がった二つの輪、輪についた紐、それを耳に掛けます。どうやら眼鏡のようです。


「照覧!」


 背中まである才姫の髪が持ち上がり、その先が薄い銀色に輝き始めました。同時に眼鏡もほのかな銀色の光に包まれています。眼鏡は才姫の神器なのでしょう。


「へえ、三百年の後の男でも、取り付いている虫は今とほとんど変わらないんだねえ。ちょっと毛色の変わった虫が居るくらいか」


 才姫の髪の発光はすぐに収まりました。眼鏡を取るとまた懐にしまいます。


「どうだい、あたしの医術の業、分かったかい」

「いえ、全然」


 与太郎は才姫が何をしたのか、さっき言っていた「虫」とは何なのか、まるで分かりませんでした。才姫は舌打ちをすると話し始めました。


「鈍い男だねえ。いいかい、この世には無数の虫が居る。どこにでも居る。空にも地にも川にも海にも生き物にも。そして当然、人にもね。虫の種類は千差万別。人の役に立つ虫も居れば人を害する虫も居る。そしてほとんどの病は悪い虫が引き起こすんだよ。人の口、鼻、吐く息、肌、五臓六腑、いたる所に虫は居る。目に見えないくらい小さな虫が、夜空の星のようにうごめいている。この眼鏡を掛ければそんな虫たちがあたしの目に映る。悪い虫か良い虫かまで分かる。もう分かっただろう。悪い虫の命を奪えば病は自然と治るんだよ。これがあたしの姫の力」


『そうか、才様の言う虫とは、細菌やウイルスの事なんだ』


 頭の良くない与太郎でもそれくらいの見当は付きました。恐らく才姫は体内の病原菌を識別し、それらの命を奪って死滅させる事で病を治しているのでしょう。


「す、凄いや。病原菌を選択して直接殺せるなんて、それは僕らの世でも不可能な技術だよ。そんな方法があるならどんな病気だって怖くないよ」


 一人で盛り上がる与太郎。けれども才姫の顔色は冴えません。哀しそうな表情です。


「ああ、誰もがそう思っていたさ。なのに一番救いたかった人の命は救えなかったんだ」


 恵姫の体がピクリと動きました。自分の母の事だと分かったのでしょう。


「このやり方を教えてくれたのは恵の母だったんだよ。あたしは貧しい百姓の出でね。物心ついた時には伊瀬の芸者置屋に売られていたのさ。命を奪う業はその時にはもう身に付いていた。もっとも人の命を完全に奪う事なんて出来やしない。仏の目から見れば虫けらも人も、命の大きさは同じなんて言うけど、それは大間違いさ。人の命は、そうさね、井戸の大きさと海の大きさくらいに比較できないほど大きいんだよ。だから人に対して力を使ったとしてもせいぜい元気がなくなるくらいのもの。それでも気に入らない奴への仕返し程度には使えるからね。あたしは事あるごとに力を使っていたもんさ。あの頃のあたしは今思うと最低の擦れっ枯らしだったね」


 才姫の語る生い立ちを三人は静かに聞いていました。与太郎だけでなく恵姫にとっても初めて聞く話だったのです。


「斎主様には勿論無視されたよ。力があれば誰でも姫衆に加えてもらえる訳じゃないんだ。あたしの性格も持っている力も、伊瀬の姫には相応しくなかったからね。代わりに近付いてきたのは記伊の姫衆さ。そう、そのままならあたしは今頃記伊の姫衆の一人となって、記伊の斎宗のために力を使っていた事だろうね。でも、ある日、一人の女があたしの所にやって来たんだ。神宮の巫女、恵の母、『あなたの力は別の使い方をすれば多くの人の役に立つ』そう言ってね。そうして斎主宮に連れて行かれ、この眼鏡を貰い医術としての使い方を教わった。あたしの身請けに当たって、置屋は高額の代金を斎主宮に請求した。その銭を用立てるために恵の母が比寿家に嫁いだと知ったのは、ずっと後になってからだった」


 才姫はそこまで話すと湯呑の茶を飲み干し、土瓶から注ぐとまた飲み干しました。喉が渇いたのは喋り過ぎたからだけではなく、才姫自身にとって辛い思い出だったからでしょう。


「斎主宮での修行が終わったらあたしはすぐに間渡矢へ向かった。あたしを置屋から救い出し、医術の業を教えてくれた恵の母に恩返しをしたかったんだ。城下の御典医の屋敷に住み込んであたしは病を治し続けた。治せない病はなかった。皆、喜んでくれた。城の者も村人も誰もがあたしを褒めてくれた。けれどもその賞賛はたった一夜で罵倒に変わった。恵の母の病、それはこれまで何度も治した事のある病だった。治らないはずがない、あたしは不眠不休で虫を殺し続けた。だけど一向に良くならない、どうすれば良いか分からなかった。殺すべき虫はもう居なかった。なのに恵の母は衰えていく。そうして最後に、あたしが一番助けたかった恩人は、あたしに自らの命を与えて逝ってしまった。悔しかった。哀しかった。なによりあたし自身を許せなかった。そうさ、あたしが間渡矢を去ったのはあんたたちの信頼をなくしたからじゃない。あたし自身に幻滅したんだ。恩を仇で返したあたしには、もう人を助ける資格なんかないんだよ」


 才姫は湯呑を握りしめたまま口を閉ざしました。もうこれ以上話す事はないようです。長い物語を聞き終わった三人は、言うべき言葉も見つからず、唇を噛みしめる才姫を寂しい眼差しで眺める事しかできませんでした。

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