蒙霧升降その三 与太郎決断

 医術の業を持つ姫――才姫。降って湧いたような話に与太郎が飛びつかぬはずがありません。黙ったままの恵姫に苛立つような口調で言い立てます。


「そんな姫が居るのなら診てもらえばいいじゃないか。何もせずに何日も過ごしていただけなんて、おかしすぎるよ。めぐ様は本当にお福さんを助けたいの? 助ける手段が残っているのなら駄目元でやってみるべきじゃないの? それなのに手をこまねいているだけだなんて、そんなの僕の知っているめぐ様じゃないよ」

「知った風な口を利くでない、与太郎」


 恵姫の目もまた怒りに燃えていました。才姫の名を聞くのも口にするのも、恵姫にとっては不愉快極まりない事なのです。それでも与太郎にここまで言われては話さない訳にはいきません。


「才には医術の心得がある。他の医者には到底真似のできぬ優れた業を持っておる。かつて間渡矢の領民は皆、その恩恵を受けていた。わらわの母上が病に倒れた時も才が必ず助けてくれる、誰もがそう信じておった。じゃが、そうではなかった。母上は日増しに衰え、治療に当たる才もまた不眠不休の治療のためにやつれていった。じゃが、ある日、まるで何事もなかったかのように才は元気を取り戻したのじゃ。事切れたわらわの母上の傍らでな」


 与太郎には恵姫の意味する事がすぐには分かりませんでした。毘沙姫も大婆婆様も何も話そうとせず、ただ俯いて恵姫の話を聞いているだけです。


「わらわも間渡矢の領民も、才が母上の命を奪ったと思った。皆に冷たい目で見られ、侮蔑の言葉を浴びせられた才は、間渡矢を離れ青峰山あおのみねやまへ引き籠ってしまった。以来、わらわたち間渡矢の者は才とは一切の関わりを断っておる」


 ずっと昔、恵姫の母の死を巡って才姫と恵姫は仲違いをしてしまったのだ、与太郎にもそれだけは理解できました。けれどもたった一度の過ちで数年間も互いに意地を張ったままなのは、どちらにとっても不幸すぎます。


「でも、めぐ様。どんな名医でも治せない病気はあるよ。そんな昔の事に囚われていないで仲直りした方がいいよ」

「与太郎の言う通りだ、恵。あれは我らの勘違いだったと既に分かっているではないか。おまえが頭を下げれば才も許してくれるだろう」

「わらわとて文で謝罪したではないか。じゃが才は戻っては来なかった。わらわたち間渡矢の者の謝罪などに貸す耳はないのじゃ」

「文ではなく直接会って謝れば才とて聞いてくれるだろう」

「何故そう言えるのじゃ。文で許してくれぬのなら、直接会っても許してくれるはずがなかろうが」


 恵姫らしからぬ煮え切らない態度です。与太郎はだんだん焦れてきました。こんな事をしている間にもお福の体は弱り続けているのです。たまらず恵姫に吠え立てます。


「めぐ様はおかしいよ。お福さんの命が掛かっているんだよ。どんなに恥ずかしくて辛い事でも、可能性があるのならやってみるべきだよ」

「喧しいわ。家来の分際で主に意見するでない」


 恵姫はすっかり意固地になっています。その余りに頑な態度に触れて、与太郎の中に眠っていた男の意地が目覚めました。


「いいよ、分かった。じゃあ僕がめぐ様の代わりにその才様に頼んでみる。それなら文句ないでしょ。毘沙様、僕をその青峰山の才様の所に連れて行ってください」

「与太郎が才に……」


 毘沙姫は与太郎の顔をじっと見詰めながら何か考え始めました。


「ふむ……恵や間渡矢の者に遺恨を残している才も、与太郎には何の感情も持ってはいないはず。その与太郎が頼み込めば心を動かす事もあり得るか……」


 毘沙姫は与太郎の両肩に手を置くと、いつになく真剣な顔をして言いました。


「分かった。連れて行ってやる。お福の命を救ってくれと誠心誠意頼み込んでみろ。だがな、才はおまえの思っているような姫ではない。下手をすればお前の命の危険すらある。それでも行くか」


 命の危険と聞かされて一瞬ひるむ与太郎。しかしここまで大口を叩いてしまった以上、退く訳にはいきません。


「も、勿論行きます。お福さんを助けるためなら何だってやります」

「よし、分かった。恵、おまえも一緒に来い」

「な、何故わらわが行かねばならぬ。与太郎と二人で行けばよかろう」

「分からん奴だな。こんな素性の知れぬ男を連れて行っても才は取り合ってくれぬだろう。間渡矢城の名代としての格付けが必要だ。恵が一緒に来て後ろ盾になってやれ」

「わらわが後ろ盾になったりしたら才の機嫌が悪くなろう。わらわは行か……」

「めぐみっ! 喝っ!」


 怒声と共に恵姫の頬に響く乾いた音。毘沙姫も与太郎も我が目を疑いました。大婆婆様が恵姫の頬を平手打ちしたのです。


「いつまで幼子のように駄々をこねておる。それでも間渡矢の領主の娘か。己の大切な家臣のためならば命を捨てて守り抜く。それが上に立つ者の務め。忘れたかっ!」


 とても百歳を超えた老婆のものとは思えぬ気迫に、さしもの恵姫の負けん気もすっかり消失してしまったようでした。ぶたれた頬を押さえたまま返事もできずに立っています。


「答えよ、恵。行くのだな!」

「わ、分かった。わらわも行こうぞ」


 念押しされて思わずそう答えてしまった恵姫。大婆婆様はにっこりと笑いました。


「されば毘沙姫様、馬を用意されますかな。歩いて行くには遠すぎましょうや」

「いや、馬で山道は時間が掛かりすぎる。私が二人を背負って走る。その方が早い。大婆婆様、握り飯を作ってくれ。走りながら食う。それから磯島に背負子しょいこを用意させてくれ。昔、幼い恵と黒と雁四郎の三人を背負って遊んでやったあの特大の背負子だ。あれなら恵と与太郎を背負える」

「承知致しましたじゃ」


 大婆婆様は頭を下げて座敷を出て行きました。呆然と立っている与太郎にも毘沙姫は指示を出します。


「何を呆けている与太郎。城の外に出るのだ。その装束を改めろ。ああ、言い忘れた、お与太ではなく男の装束にしろよ。才に変な誤解を与えたくないからな」

「わ、分かりました」


 与太郎も慌てて座敷を出て女中部屋へ向かいます。これまで何度も着替えてきたので、簡単な男の装束ならひとりで着られるのです。


「恵、まだ臍を曲げているのか」


 毘沙姫は顔を伏せて突っ立ったままの恵姫に声を掛けました。


「いい機会だ。才と仲直りしろ。おまえたち二人については斎主様も心を痛めている。伊瀬の姫衆同士で仲違いしてどうする、そうだろう」

「それは分かっておるのじゃ。わらわとて才とは仲良くしたい。じゃが、才が心を開いてくれぬのじゃ」

「それはおまえが心を閉じているからだ。まあいい、ここで言い合っても仕方ない。とにかくお福のために一刻も早く立ちたい。朝飯を食わずに出るからな。恵も用意をしておけ」


 毘沙姫は恵姫の背中を叩くと座敷を出て行きました。一人残った恵姫は身を屈めると、畳の上に放り出したままになっている葛根湯の袋を手に取りました。


「こんな役に立たぬ物を持ってきおって。与太郎の奴……余程お福を、いや、おふうを好いておるのじゃな」


 自分と与太郎と、どちらがお福を大事に思っているのだろう、ふとそんな疑問が心に浮かぶ恵姫です。



 磯島と大婆婆様の手際よい働きにより、出発の準備はすぐに整いました。大剣を背負い、その上から超特大の背負子を背負った毘沙姫。その背負子に腰掛けた恵姫と与太郎。二人は途中で振り落とされないように荒縄によってしっかりと括り付けられています。


「道中、くれぐれもお気を付けください。無理はなさらぬように」

「分かっておる。そなたたちもお福の事、よろしく頼んだぞ」

「二人とも準備はいいか。行くぞ!」


 奥御殿の玄関の前に立つ磯島と大婆婆様に見送られながら、韋駄天の如く走り出した毘沙姫ではありました。

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