土潤溽暑その二 お与太

 日もすっかり暮れ、奥御殿の座敷にも夜の暗闇が忍び寄ってきました。月も出ておらず行燈の灯りだけが恵姫と与太郎を照らしています。

 次回の海遊びの話も尽き、少々手持ち無沙汰になった二人。家族以外の女性と二人きりになるという経験がほとんどない与太郎は何をしてよいのか分からず、取り敢えずこんな質問をしてみました。


「えっと、めぐ様は夕食の後は何をしているのですか」

「月が出ておれば月を眺める。月が出ておらねば星を眺める。星も出ておらねば何も眺めぬ。今晩は雲が広がっておるようじゃな。月も星も見えぬ。仕方ない、寝るか」


 恵姫は蚊帳の中に入ると、敷かれていた寝ゴザの上に横たわりました。大暑の時期は敷布団ではなくゴザを敷いて寝ます。それ程に寝苦しい夜が続くのです。


「そっか。じゃあ、僕も。失礼します」


 与太郎も蚊帳の中に入ろうとしました。当然の如く恵姫の怒声が飛びます。


「こりゃ、家来の分際で主と同じ床に就こうとは無礼ではないか。寝るのなら他所で寝ろ」

「他所って言われても……」


 叱られた与太郎は戸惑いの表情を見せましたが、すぐに前回の梅干し集めを思い出しました。あの時は縁側で昼寝したまま自分の時代に戻ったのです。


「ああ、それなら僕は縁側で寝るね」


 そう言って座敷の外へ出ようとした与太郎の背中に、またも恵姫の怒鳴り声です。


「何を調子のいい事を申しておる。ここは奥御殿、男子禁制の場。縁側とて奥御殿の一部、認めるわけにはいかぬ。そもそもお主はいつまで居座るつもりなのじゃ。夕飯を食ったのなら即刻奥御殿から立ち去らぬか」


 これには与太郎も困りました。確かに恵姫の言葉通りですが、奥御殿を出てどこに行けばよいのか分かりません。


「あの、じゃあ、僕はどこで寝ればいいの?」

「知らんわ。庭ででも寝ろ」

「庭って、そんな所じゃゆっくり眠れないよ」

「なら表御殿へ行って寝ずの番をやらせてもらえ。一晩中間渡矢城の警護に当たれば寝ずに済むぞ」


 夕釣りの餌集めをさんざん手伝わせておいてこの仕打ち、まさに鬼の如き所業です。さすがの与太郎も文句のひとつも言いたくなります。


「めぐ様、これだけ忠実にあるじに尽くしている家来に、この待遇は酷すぎるんじゃないですか。せめて寝る場所くらい用意してくださいよ。贅沢は言いません。床と屋根があって雨露が凌げればそれでいいんです。それくらいの世話ができないなんて主として失格だと思います」

「ちっ、知った風な事をほざきおって」


 恵姫は起き上がりました。別に与太郎がどこで寝ようと知った事ではないのですが、男子禁制の奥御殿にいつまでも居座られ続けるのがどうにも我慢できないのです。


「はて、どうするかのう」


 考える恵姫。と、その顔が悪い表情に変わりました。また良からぬ思い付きが浮かんだようです。


「ここは奥御殿、おのこは立ち入れぬ。しかしおなごならば禁に触れる事はない。つまりじゃ与太郎、お主がおなごになればよいのじゃ」

「はあ? 僕が女に、どうやって?」

「簡単な事じゃ。おなごの装束を身に着け、おなごの言葉を喋れ。そうすればおなごと見なし、ここで寝る事を許してやる。どうじゃ、良き考えであろう。そうじゃな、今から女中の手を焼かせるのも気の毒じゃ。わらわの古着を貸してやる」


 恵姫は蚊帳から出ると座敷の隅にある物入れに行き、あれこれ引っ張り出し始めました。思わぬ成り行きに呆然としたままの与太郎。すると、座敷の葭戸を叩く音がしました。


「誰じゃ、入れ。おお、お福。今晩、控えの間に詰める女中はそなたか。丁度いい。これから与太郎がおなごの装いをするのじゃ手伝ってやれ」


 いきなり訳の分からない事を言われてキョトンとしたままのお福。委細構わずボロボロの帷子だの破れた襦袢だの色褪せた腰巻だのを投げてよこす恵姫。相変わらず立ち尽くしたままの与太郎。


「おい、何をぐずぐずしておるのじゃ、与太郎。さっさと脱げ、全部脱げ。お福、いつまでそんな所で凍り付いておるのじゃ。早うこっちに来て与太郎の着替えを手伝ってやれ」


 お福は言われるままに投げられた装束を拾うと与太郎の傍に近寄ります。与太郎も来ていた服を脱ぎ始めています。


「ふむふむ、さっさと済ませるのじゃぞ」


 恵姫はその場に寝っ転がると、与太郎の着替えを眺め始めました。暗い行燈の光の中、まず手始めにお福が襦袢と腰巻を着せようとしたところで恵姫が声を掛けました。


「おい、与太郎、その半股引を何故脱がぬ」

「えっ、パンツの事、これは脱げないよ」

「脱げないじゃと。腰巻の下にそのような股引を履いておるおなごなどひとりも居らぬぞ。奥御殿で眠りたいのならば、そのぱんつともやらも脱いでおなごの格好をせよ」

「お願い、これだけは勘弁して。男の誇りに懸けて絶対に脱げません」


 与太郎は頭を畳に擦り付けて懇願しています。どうやら与太郎の時代のぱんつはこの時代の武士の刀くらいに大事な物のようです。


「まあ、そこまで言うのなら許してやるか。お福、とっとと着替えを済ませてやるのじゃ」


 与太郎はお福に手伝ってもらいながら徐々に女の格好になっていきます。恵姫のお古だけあって、まるで大きさが合いません。


「ちょっと小さいなあ」

「文句を申すな。ここで寝たいのであろう」


 ふと、恵姫は与太郎の時代の装束について興味が出てきました。男の装束ではなく女の装束です。


「おい、与太郎、お主の時代ではおなごもぱんつのような物を履いてその上に腰巻や襦袢を身に着けるのか」

「ううん、腰巻や襦袢なんて僕らの時代にはほとんど使われていないよ。そもそも和装はもう一般的じゃないからね。女性もパンツは身に着けるけど、こんなトランクスじゃなくてもっと可愛いパンツだと思うよ。それと女性は胸にブラを着けるよ。まあ、襦袢とは全然違うけどね」

「ほう、可愛いぱんつ、それに、ぶら、とな」


 いつもはお転婆な恵姫も一応年頃の娘です。『可愛い』の言葉に俄然興味が深まりました。


「よし、与太郎、今度ここに来る時には、おなごのぱんつとぶらを持って参れ」

「え、ええ、女性の下着を……困ったな。母さんのをこっそり持って来るか」

「阿呆、そんな年増のぱんつになど興味はない。年頃の娘が身に着ける可愛いぱんつとやらをわらわは所望する」

「そ、そんなの無理だよ。僕一人っ子で姉も妹も居ないし、いとこも男ばかりだし、貸してくれる人なんていないよ」

「想い人のおふうが居るではないか。頼んで貸してもらえ」

「馬鹿言わないでよ。ふうちゃんに『パンツとブラ貸して』なんて言ったら往復ビンタされた上に、一年くらい口を利いてもらえなくなっちゃうよ」


 断固として拒否する与太郎です。しかし恵姫も一旦言い出した以上、ここで命令を引っ込めては主としての沽券に関わります。しばらく無言で頭を捻る恵姫、その顔が悪人面になってきました。更に良からぬ事を思い付いたようです。


「そうか、ならばこうしよう。お主が持って来たぱんつとぶら、試しにお福が身に着ける、という条件でどうじゃ」

「えっええ! お福さんが下着を!」


 与太郎の表情が激変しました。妙に鼻の下が伸びています。


「そうじゃ。少しはヤル気になったか」

「は、はい。そうと決まればバイトをしてお金を貯めて、凄くキュートでセクシーな下着を買います。頑張ります!」

「ふむふむ、その意気じゃ。きゅーとでせくしいなぱんつとぶらを用立てて来い。わらわを失望させるでないぞ。ああ、それからおなごの格好になったのじゃから、おなごの言葉を喋るようにな。名も与太郎ではなく、お与太にせよ」

「あ、は、はい。分かりましたわ、めぐ様。不束者ではございますが、これからもお与太をよろしくお願い申し上げまする」


 大いに盛り上がる与太郎と恵姫の横で、よく事情が飲み込めず、きょとんとした顔で立ち尽くす純真無垢なお福なのでありました。

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