葭始生その五 蓮華草
「ほう、蓮華草が咲き誇っておるのう」
恵姫たち三人は西に延びていく畦道を歩いていました。その道に沿って一面に広がる田には、紅紫の小さな蓮華草が咲き乱れ、波のように揺れながら風に吹かれています。領内の半分近くの田がここにあるのです。
「どれどれ」
恵姫が田の中に足を踏み入れました。何事かと驚く雁四郎にはお構いなく、一本ずつ蓮華草を摘み取っています。
「おう、そうか。ならば、私も」
恵姫に続いて毘沙姫まで田に入り込みました。二人は熱心に蓮華草を摘んでいます。
『おなごは花が好きだとは聞いていたが、この年になってもまだ花を摘んで遊んだりするのだろうか。いや、恵姫様はともかく毘沙姫様は拙者よりも遥かに年上。まさか幼女のような花遊びに興じられるなど……』
どうしてよいか分からぬ雁四郎は畦道に立って、熱心に花を摘む二人を眺めるばかりです。やがて片手に握れるだけの花を摘んだ二人は畦道に戻ってきました。
「雁四郎、お主は食わぬのか」
恵姫にそう訊かれて雁四郎は面食らいました。どうやら二人とも遊びではなく食べるために蓮華草を摘んでいたようです。
「そ、そのような物を食べるのですか」
「何じゃ、雁四郎は知らぬのか。まあ、正確には食うのではなく、味わうと言った方がよいな。教えてやる、一本持て」
こちらに向かって蓮華草を差し出す恵姫。拒むこともできずそれを受け取る雁四郎。
「よいか、この花弁をな、ひとつずつ引き抜いてゆくのじゃ。うむ、そうそう。そして根元を噛んでみよ。どうじゃ」
雁四郎は言われるままに口に含んで噛んでみました。
「おお!」
それはこれまで味わったことのない甘みでした。微かで、素朴で、舌に残る前に消えてしまうような儚さ。それでも口の中は甘さを得た喜びに打ち震える、そんな味わいでした。
「なにやら蜜蜂にでもなった心持ちがいたします」
「あれは働き者よのう。毎日休むことなく蜜を集めるのじゃからな。そして人間は強欲よのう。何十日も掛けて集めた蜜を巣ごと横取りするのじゃからな」
「記伊には箱の中で蜂を飼って蜜を取る者がいると聞く。その技、教えて欲しいものだ」
毘沙姫は花弁を取らず、数本まとめて口に放り込んで噛んでいます。恵姫に至っては噛むだけでは飽き足らず、どうやら飲み込んでいるように見えます。雁四郎は少し心配になりました。
「姫様、もしや食べているのではないですか」
「んっ、ああ、別に食ってもよいのじゃ。花は天ぷら、葉や若芽はおひたし、乾燥させて煎じれば咳の薬となる。蓮華草は有難い草なのじゃぞ。むしゃむしゃ」
草を食べる姿はまるで牛みたいだなあと思いつつも、まだまだ教えてもらわねばならぬことが沢山あるなとしみじみ感じる雁四郎でした。
「あれ~、めぐちゃん、それに毘沙ちゃんじゃない、おーい!」
この声は黒姫です。見れば、蓮華草が広がる田の向こうに牛が、そしてその横に黒姫が立って手を振っています。
「そうか、ここは黒の田であったな。お~い、黒、今そちらに行くぞ」
恵姫は手を振り返すと、畦道を速足で歩き始めました。牛には手綱と鋤具が付いています。黒姫は小槌を使って牛を操り、田起こしをしている真っ最中なのでしょう。
「田吾作、ちょっと代わって」
畦道の草取りをしていた下働きの田吾作に鋤を持たせると、黒姫は畦道に出てきて恵姫たち三人を出迎えました。
「驚いたよ~、毘沙ちゃん、いつ来たの」
「城下に入ったのは昨日なのだが、まあ、色々あってな。黒も元気そうでなによりだ」
「それよりも、黒。早く屋敷に戻って昼飯を食わせてくれぬか。蓮華草を食っておったら無性に腹が減って来たわい」
中途半端に蓮華草などを口にしたために、どうやら恵姫の食欲が刺激されてしまったようです。黒姫は困った顔をしました。
「う~ん、お昼までにここらの田起こしを済ませたいんだよ。蓮華草が咲いているうちに鋤き込んでおきたいからね。めぐちゃんたち、先に屋敷に行っていて」
黒姫には黒姫の事情があるようです。それは残念という顔付きの恵姫。しかし、ここで毘沙姫がいきなり背中の大剣を抜きました。
「お、おい、毘沙、何をするつもりじゃ」
驚く恵姫の問いには答えず、毘沙姫はまだ手付かずの田の前に立ちました。毘沙姫の髪が持ち上がり、その先が赤く光り始めます。目の前には長閑に揺れている一面の蓮華草、そこに向けて大剣を構えた毘沙姫は、地をどよめかす大声で言葉を発しました。
「突!」
声と共に振り下ろした大剣は一面の蓮華草を引き千切って田に突き刺さり、すぐさま振り上げた大剣は、田の表土を全て浮き上がらせ、空一面を砕土で覆いました。
「どうだ、黒」
得意げにこちら振り向いた毘沙姫の背後で、がけ崩れのような音を立てて、舞い上げられた土が元の田の上に落ちています。そうして音が止んだ頃には、鋤で打ち返したのと寸分違わぬ田が出来上がっていました。
「毘沙ちゃん、凄~い! でもいいの? こんな事に姫の力を使って」
「本当は良くはないのだろうが、先程ちょっと嫌な奴に出会ったのでな。憂さ晴らしには丁度いい。残り五枚か。任せろ」
毘沙姫は大剣を肩に担いで畦道を歩き出し、田起こしの済んでいない田の前で姫の力を振るい始めました。その迫力、その豪快さ、怪力無双の鬼神もかくやと思わせる天晴れな働きぶりです。
「これから田起こしを毘沙ちゃんに手伝ってもらえば、あたしも楽できるなあ」
「黒、何を甘い事を言っているのだ。これはそなたの仕事であろう。力を貸すのは今回だけだぞ」
「は~い、分かりました。残念だなあ」
毘沙姫に釘を刺されて首をすくめる黒姫。こんな所は恵姫に似ているなと感じる雁四郎です。
やがて田起こしの途中だった田も、田吾作と牛のおかげで終わりました。これで昼までの仕事はすっかり終わったことになります。
「それでは黒姫様、私は後片付けを致しますので、先にお屋敷へお戻りください」
「うん、田吾作どん、ご苦労だったね」
牛は田吾作に任せて、黒姫は恵姫たちと共に庄屋の屋敷に帰ることになりました。その道すがら、毘沙姫は伊瀬の斎主に面会したことや、磯辺街道で瀬津姫に偶然出会ったこと、葦原の厳左を危機一髪のところで救ったことなどを黒姫に話しました。
「そうかあ、そんな事があったんだ。瀬津ちゃん、昔は結構優しかったのに、姫の力が弱くなって随分焦っているみたいだねえ」
「そうだな。しかしそれは我々とて同じことだ。ほうき星、与太郎、力の衰退、それらの関係を早く明らかにしたいものだ」
毘沙姫は空を見上げました。ほうき星はもう真上に来ています。
「それにしても残念だな。斎主様に与太郎の事を伺い、もしや会えるのではないかと思っていたのだが、会えず仕舞いとなりそうだ」
「ねえ、それじゃあ、毘沙ちゃん、しばらくあたしの家に泊まっていけばいいんじゃない。与太ちゃん、浪人になってから暇を持て余しているみたいで、三月になってからもう二回もこちらに来ているんだよ。しばらく待っていれば、すぐやって来るよ」
「えっ、しかし迷惑ではないのか」
「全然、迷惑なんかじゃないよ~、泊まっていきなよ~」
熱心に勧める黒姫。それを見て毘沙姫も、そして恵姫もその魂胆が分かりました。
「なるほどのう、米作りは田植えと稲刈りの時期が一番忙しいからな。毘沙の怪力があれば大助かりであろう。一宿三飯の恩義を受ければ、毘沙とて力を貸さぬ訳にはいかぬからのう」
「えへへ、ばれたか」
頭を掻く黒姫。この要領の良さは、やはり恵姫の従姉妹であるなと、今更ながらに感じる雁四郎です。
「そうだな、与太郎に会ってみたいし、瀬津が標的を恵から黒に変える恐れもある。黒の警護も兼ねて、しばらく厄介になるとするか」
「わあーい、これでしばらく楽しくなるね、めぐちゃん」
「うむ。毘沙とのんびり話ができるのは数年ぶりじゃな。城にも遊びに来るがよいぞ」
黒姫も恵姫も大喜びです。晩春の日差しの中で明るく笑う姫たちが、妙に眩しく感じる雁四郎ではありました。
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