蟄虫啓戸その三 厳左の誘い


 厳左が来てしまった以上、今回も鯉は諦めるしかありません。恵姫はまくり上げていた袖と裾を直し、草履の下の髪の毛と毛虫に土をかぶせました。そして厳左に気付かれないように、この場をそっと離れようとしたのですが、簡単に逃がしてくれるはずがありません。


「ところで姫様は何をしておったのかな」


 三歩も歩かないうちに声を掛けられてしまいました。さすがに無視するわけにもいかないので、向き直ってしどろもどろに答える恵姫。


「あ、ああ、いや、その、池でポチャンと音がしたので、鯉の奴が池を飛び出したのではないかと心配になってな、見に来たのじゃ」


 当然ですが出まかせです。正直に鯉を釣って食うためじゃ、などとは口が裂けても言えません。


「ほう、左様か。しかし袖と裾をまくっておったのは何故かな」

「そ、それは、ホレ、鯉が池を飛び出したら戻さねばならんだろう。だからあらかじめ、まくっておいたのじゃ。ああ、でも大丈夫じゃ。池を飛び出した鯉は居らなんだからな。うむ、よかったのう」


 厳左は感心したように恵姫を眺めました。それから遠い目をして言いました、


「姫様も成長されたな。まだ物心も付かぬ幼子の頃は、池に入っては魚を捕まえ、尻尾や頭や鰭を齧るので、この池には一匹の魚もいなかった。それが大きくなって浜に出るようになると、池には近付かぬようになり、ようやく池で鯉を飼えるようになった。そんな姫様が鯉に対してこれほどの気遣いが出来るようになるとは……この厳左、姫様の幼き時よりお仕えしてきた家臣の一人として、感慨深きものを感じるわい」

 

『そ、そんな目でわらわを見るでない、厳左。うう、胸が痛むわい。それにしても鯉のやつ、美味そうに麩を食っておるのう、じゅる』


 目を細めて自分を見る厳左に心の中で済まないと詫びながら、餌を食う鯉によだれを垂らす恵姫。そんな恵姫の心を知ってか知らずか、厳左は意外な申し出をしてきました。


「うぉっほん、ところで姫様、今夜は当屋敷で夕食を振る舞いたいのだが、如何であろうか」


 驚きました。厳左から食事を誘われる、いや、親類以外の男から食事を誘われること自体が初めてでした。厳左が老人ではなく若者であったなら、勘違いしてしまったかもしれません。


「厳左の屋敷でか。それはまた、どのような風の吹き回しじゃ」

「相談したきことがあり申す」

「氷室の氷の件か。しかしあれは伊瀬の斎主さまに会わねばどうにもなるまい。わらわに相談したとて何も解決せぬぞ」

「それもあるにはあるが、それ以外にもあり申す」


 厳左にしては珍しくはっきりしない口振りでした。そして厳左が一旦口にした申し出である以上、たとえ断っても承諾するまでここから動かぬであろうことは分かっていました。


「そこまで申すなら屋敷に行こう。今の刻限ならば、今日の夕食は要らぬと言っても、磯島に叱られることもなかろうからのう」

「ご承諾、感謝いたす。では早速参るとしようか」

「いや、だから磯島に夕食は要らぬと言わねば行けぬと言っておろう。何をそんなに急かすのじゃ」

「これは失礼。では城門にてお待ちしており申す」


 厳左は麩の袋を懐にしまうと表御殿の方へ歩いて行きました。何か引っ掛かるような気がしました。いつもとは微妙に違う厳左の態度と言葉遣い。本当に相談したいだけなのか、他にも目的があるのか……


「どうにも気になるのう、う~む」


 しかし、それもこれも厳左の屋敷へ行けば明らかになるはずです。恵姫は座敷に戻り、控えの間に詰めている女中に夕食不要と告げると、さて何を食わしてくれるのだろうと思いながら城門に向かいました。


 間渡矢城でもっとも城らしいと思わせてくれるのが城門でした。二階に櫓を載せた櫓門で、元の城の大手門跡に建てられています。ただの陣屋敷に過ぎぬこの敷地が、間渡矢城と呼ばれても恥ずかしくないのは、この立派な城門のおかげと言っても過言ではないでしょう。厳左はその門の前に立っていました。


「では、ゆるゆると下るとするか」


 既に下城の時は過ぎているので門は閉まっています。横の潜り戸から城の外へ出て、恵姫と厳左は山道を歩き始めました。特に話すこともありません。仲が悪いわけではないのですが、無駄話をするほどに親密なわけでもないのです。


『う~む、妙に気を遣うのう。怒った磯島は面白いが、怒った厳左は詰まらぬから話もしにくい。まあ、触らぬ神に祟りなしじゃな』


 こうして二人は、まるでお寺の供え物を盗み食いして見つかった村の悪たれ小僧が、親に叱ってもらうために寺のお坊さんに連れられて自分の家へ向かっている時のような、何とも気まずい雰囲気で山道を下り、侍町に入り、厳左の屋敷の前にやって来ました。


「うむ、ここに来るのは久しぶりじゃな。侍町に入ってすぐの場所にあるとは、さすがは家老の屋敷じゃのう」

「城に火急の用あらば、すぐ駆けつけねばならぬからな。さてと」


 厳左は潜り戸を自分で押しました。門番は置いていないようです。続いて恵姫が中に入ると扉は勝手に閉まりました。扉の裏に鎖を付けて柱に掛け、その先に徳利をぶら下げているので、徳利の重みで自然に閉じたのです。


「ほう、徳利門番か。初めて見たぞ。じゃが、これでは物騒であろう。以前は人の門番も居たような気がするが」

「何かと物入りでしてな。なかなか人も雇えませぬ」


 厳左は自嘲気味に答えると、屋敷の方へ歩いて行きました。


「恵姫様ではないですか。こんな時分に如何なされたのですか」


 屋敷に歩いて行く厳左の向こうに雁四郎が見えました。こちらに走ってきます。


「うむ、一緒に夕飯を食わぬかと厳左に言われてのう」

「お爺爺様じじさまにですか。それは珍しい」


 城中ではご家老様と呼んでいる雁四郎も、さすがに自分の屋敷ではそうは呼んでいないようです。


「それから相談もあるとか言っておったな」

「相談ですか……ああ、だからあの人たちも」


 雁四郎は何か考えている様子でした。が、すぐに恵姫に意識を戻すと、嬉しそうに言いました。


「ま、まあとにかく中へお入りください。きっと驚きますよ」

「驚く? 何に驚くのじゃ」

「それは……いえ、入れば分かりますよ。さあさあ」


 雁四郎は詳しく言わぬまま、懐疑に満ちた顔の恵姫を屋敷の玄関へと招き入れました。玄関から上がり、表座敷に通じる廊下を歩きながら、恵姫はついついぶつくさ言ってしまいました。


「厳左と言い、雁四郎と言い、さっきから物をはっきり言わぬ。どうも怪しいのう。腹に一物抱えているようじゃ。まさか、この屋敷でわらわを嵌めようとしているのでは……」


 奥座敷の襖を前にしても、恵姫はすぐにそれを開けることができませんでした。雁四郎の言った驚くという言葉。きっとこの襖の向こうに『驚く』があるのでしょう。『喜ぶ』なら良い場合しかありませんが、『驚く』には良い場合と悪い場合の二通りがあります。一体、どちらの『驚く』なのでしょう。


「ええい、ままよ」


 恵姫は思い切って襖を開けました。同時に声が掛かりました。


「め~ぐちゃん」


 どうやら良い場合の『驚く』だったようです。奥座敷には黒姫と庄屋が座っていました。


「おお、黒ではないか。そなたも夕飯に呼ばれておったのか」


 恵姫は駆け寄ると黒姫の両手をひしと握りしめました。


「そうだよ~。めぐちゃんも呼ばれていたんだね」

「これは恵姫様。先日は話が途中で終わってしまい、失礼いたしました。また都合がよろしい時にでも、私どもの屋敷へ足をお運びいただければ嬉しゅうございます」


 庄屋が頭を下げて挨拶しています。恵姫は張りつめていた気持ちを、ようやく緩めることができました。


『なんじゃ雁四郎の奴、勿体付けおって。それならそうと早く言えばよいものを。余計な心配をして損したわい。さて、何を食わせてくれるのかな、楽しみじゃのう』


 気持ちが緩めば全ての関心は食う事に向かうところが、いかにも恵姫ではありました。

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