第六話 そうもく もえいずる

草木萌動その一 与太郎ふたたび


 その日はけたたましい悲鳴から始まりました。

 朝飯も終わり、食後のお茶も終わり、脇息に持たれてぼんやりしている恵姫が考える事と言えば、


『ああ、これから昼までお稽古事か、今日は何をやるのじゃったかな。う~む、思い出せぬ。まあよい、始まれば分かるじゃろう。それにしても今日は障子が明るいのう。天気は上々のようじゃ。午後は思い切り釣りを楽しむかのう』


 などと、恵姫の教育に情熱を傾ける磯島が聞けば失意落胆するような内容なのですが、そんなお気楽な恵姫が真剣にならざるを得なくなるような悲鳴が、奥御殿に響き渡ったのです。


「きゃああー、誰か、誰かあー。曲者、曲者よっ!」

「な、何事じゃ」


 恵姫は即座に立ち上がると、廊下に出ました。


「誰か、誰かー!」


 また女中の声。聞こえてくるのは女中部屋からです。恵姫は走り出しました。


『廊下を走るなどもっての外。どのような時でもしずしずとお歩きください』


 と磯島から言われていますが、そんな言い付けに素直に従っている場合ではありません。裾を端折って大股で廊下を駆け抜けると、恵姫は女中部屋の襖を開けました。


「何事ぞ! 何を騒ぎ立てておる!」

「姫様、一大事でございます!」


 いつも鉄のように冷酷無比な磯島が珍しく興奮気味です。そしてこの台詞は以前どこかで聞いたような気がしたのですが、何はともあれ何が一大事なのか訊き返すことにしました。


「磯島か。冷静なそなたが何を慌てておる」

「あれをご覧くだされ」


 女中部屋には磯島の他にも三、四名の女中がいます。その中に見慣れぬ格好の男。そう、殿様以外男子禁制の奥御殿に男が居たのです。思わず身構える恵姫。しかし、その男の正体が分かると気が抜けてしまいました。


「なんじゃ、与太郎ではないか」


 そうです。十五日ほど前、突然控えの間に出現し、仕置き部屋から風のように消えてしまった、あの与太郎でした。


「相変わらず奇妙な着物じゃな。この前はペラペラの単衣じゃったが、今日は五器齧の如き黒ずくめ。やはりお主は忍びか」


 与太郎はポカンと口を開けて畳の上にへたり込んでいます。一体何が起きたのか、まだ理解出来ていない様子です。


「ど、どうして、こんな、突然……」


 恵姫の問い掛けに答えようともせず、完全に呆然自失状態の与太郎。これは駄目だと判断した恵姫は磯島に尋ねました。


「与太郎め、すっかり腑抜けおって話にならんわ。磯島、どうして与太郎がここに居るのか、知っていることを話してくれ」

「それが、姫様。私もよくは分からないのでございます。そろそろ今日のお稽古事の支度を始めようとしていた時でした。いきなり背後でドサッというような物音がしたのです。振り向けば、与太郎がお福の上に……」


 言い淀む磯島。恵姫が促します。


「お福の上に、なんじゃ」

「その、覆いかぶさっておりまして……」


 恵姫の顔から一切の明るさが消えました。目が据わっています。


「ほう、覆いかぶさっていたのか。それはつまり与太郎がお福を抱いていたと、こう言いたいのじゃな」

「いや、抱いていたかどうかは分かりませぬが、密着していたことは確かかと」


 恵姫は部屋を見回しました。そして部屋の隅で小さくなっているお福を見付けました。端座をし、顔を伏せ、膝の上に置いた手はぶるぶる震えています。恥ずかしを必死にこらえているように見えます。


「お福、今、磯島が言ったことは誠なのか」


 恵姫の言葉にお福はびくりと体を震わせ、そして小さく頷きました。それを見た恵姫は与太郎に近付くと、思い切り頬を平手打ちしました。


「いい加減に目を覚ませ、与太郎。いつまで腑抜けておる」


 与太郎は夢から覚めたような目で恵姫を見ると、オドオドしながら言いました。


「お、お前はこの間の暴虐恥知らず娘。今度は僕にどんな役を押し付けるつもりなんですか」

「何を申しておる。恥知らずはお主じゃ。女中部屋なんぞに忍び込みおって。これではっきりしたわ。お主の目的はお福であろう。前回は寝床に夜這い。今回はいきなり抱擁。若い男女のことゆえ多少のことには目を瞑るが、人の目がある女中部屋で事に及ぶとは何事か。見よ、お福も恥ずかしがっているではないか。せめて、誰も見ておらぬ場所でやれ」


 どうも論点がズレていると感じた磯島は、つい横から口を挟んでしまいました。


「あの、姫様。人が見ておらずとも、事に及ぶのはまずいのではないですか」

「若い男女ゆえ仕方が無かろう。わらわはその点は寛大なのじゃ。要するに場所を考えろと言っておるのじゃ。あのような純情なおなごに恥をかかせおって。温厚なわらわも怒らずにはおれぬわ」


 恵姫は与太郎の胸倉を掴むと拳を振り上げました。慌てて両手で顔をかばう与太郎。


「ま、待ってくださいよ。前回も今回も僕の意志じゃないんですよ。ここに連れてきたのはあなたたちでしょう。どうして僕が殴られなくちゃいけないんですか。それともこれも演技なんですか」

「何を訳のわからぬことを言っておるのじゃ。いい加減に観念せい」

「何かありましたかあー、恵姫様―、磯島様―。曲者と聞こえましたがあー」


 奥御殿の玄関から男の呼ぶ声がします。どうやら女中の叫び声が城内警護の番方に聞こえてしまったようです。


「あの声は雁四郎か。まずいな。表沙汰になると厄介じゃ。磯島、与太郎を見張っておれ」


 恵姫は与太郎を放すと、女中部屋を出て玄関に急ぎました。内玄関の外に雁四郎が立っています。


「これは恵姫様。先ほど女中の悲鳴のようなものが聞こえました。何か揉め事でも起きましたか」

「うむ、起きるには起きたのじゃが、大したことではない。雁四郎の手を煩わせることはないじゃろう」

「何が起きたのです?」

「じゃから、大したことではないと言っておろう。ここは大丈夫じゃ。持ち場に戻るがよい」


 恵姫が隠そうとするのには理由がありました。正当な理由なく奥御殿へ立ち入った男に与えられる罰は非常に厳しかったのです。与太郎は夜這いするほど女好きで、勝手に屋敷に忍び込むような不埒者で、言っていることもよく分からぬ馬鹿者ですが、それでも恵姫は不思議と憎めなかったのでした。与太郎に厳罰を与えるのは出来るならば避けたい、そんな想いがあったのです。


「いやしかし、曲者、という声がしたと思うのですが」

「そ、それは、恐らく五器齧じゃ。虫を見て驚いた女中が思わず曲者と……」

「そうは思えぬな」


 太く重い声が聞こえてきました。雁四郎の後ろに厳左が立っています。


「こ、これはご家老様」


 雁四郎は一歩下がると頭を下げました。孫と祖父の間柄でも、城内では家老と下っ端の番方です。身分の違いを考えれば当然でしょう。

 これは面倒な相手が出て来たわいと思いながらも、恵姫は努めて冷静を装って厳左に声を掛けました。


「おお、厳左か。随分早い登城ではないか」

「姫様こそ、朝から雁四郎と言い合いとは、元気があり余っておるようだな。わしが早く来たのは鯉だ。最近、暖かくなるにつれ庭の池の鯉が活発になってきたゆえ、腹が減らぬようにと餌をやっておったのだ」

「そ、そうか。では餌やりの続きに励むがよいぞ。二人とも下がって良い」


 早く退出せよとばかりに右手をひらひらさせながら、話を終わらせようとする恵姫。

 突然、厳左が大声をあげました。


「失礼つかまつる!」


 と言うやいなや、草履を脱いで玄関に上がりました。


「ごっ、ご家老様!」

「こりゃ、厳左!」


 これには雁四郎も恵姫も驚きました。いくら家老とはいえ許可なく奥御殿に上がり込むなど、許されることではありません。恵姫はすぐさま厳左の腰にしがみつきました。


『なんとしても厳左を止めねば。女中部屋に入られてはそれこそ一大事じゃ』


 恵姫は自分を引きずって廊下をばく進していく厳左の腰に、死んでも放すまじとの覚悟でしがみ続けていました。

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