あかわいん家の食卓
陽野 乃在 (ひの だいざい)
前菜 あか。
辞書を手にした太郎が立ち上がると、教室のうしろに陣取っていた母親たちの間に、小さなざわめきが起きた。親しいママさん同士で、こそこそとささやきあっている。みんな太郎のことを話題にしているのだ。
この町内に住み、小学生の子どもを持つ母親に、太郎のことを知らぬ者はいないといっても過言ではない。それほど、この赤和太郎は有名なのだ。そんな子の父親だからといって、私が誇らしいかというとそうでもない。むしろ、遥か昔、自身にもあった似たような境遇を思い出し、私がちょっとひっこみ思案の性格になったのは、今の太郎と同じように、有名人としての税金を払ったせいだと信じている。
江戸川区松江小学校3年2組はこの日、開放日。最近の授業参観は、私のころのそれとは違って、開放日と呼ばれ、もっと気軽な学校行事となっている。美容院に行ったり、よそ行きの洋服を着たりといった様子のお母さんは少数で、昔のようなピリピリとした緊張感は、あまり感じとれない。開放的な空気の中を参観することで、普段と変わらぬ学校生活を知ることができるようだ。
妻はいつもより早く起きだして、掃除や洗濯をてきぱきと終わらせ、1時間目の授業から参観している。私はというと、昨夜の遅番勤務が影響し、朝起きだせずにいたが、親としての義務感を最大限に奮い立たせ、目を擦りながらなんとか起きだした。授業参観といっても、父親はほとんど来ていないだろうことはわかっていた。平日の午前を、仕事と授業参観で天秤にかけた場合、本心は、授業参観側に秤が傾くのだが、現実的には、母親に任せてしまう父親が多数を占めるのが日本の実情だ。私は、その天秤を水平に保つことができる仕事に就いている。ある程度、時間を自分の都合に合わせられる。せっかくだから、その利点を使わない手はない。顔を洗いながら、睡眠を3時間で終わらせた理由を自身に言い聞かせた。
なにを着ていけばいいか少し迷ったものの、結局、普段着ている物をタンスから引っ張りだし、あちこちにアンテナを立てている髪の毛をなだめる為に、レッドソックスの野球帽をかぶった。無精髭はそのままでいいだろう。靴を履き、玄関を出ようとしたところで、スリッパを忘れずに持って来るように言われていたことを思い出した。近所のスーパーのロゴの入ったレジ袋にスリッパを入れて、ぶらぶらさせながら徒歩5分の距離にある学校を目指した。
校庭はひっそりとしていた。体育の授業は行われていないようだ。参観父兄用に貼りだされた掲示を確認しながら、校舎の入り口にたどりつき、下足箱に靴を入れてスリッパを履いた。
私は妻が、花子のクラスを見学しているとふんで、まずは1学年の教室を見て回った。1年生は3クラスある。花子がいる2組を覗いてみたが、妻の姿は見えなかった。窓際の席に座る花子を見つけた。背筋をピンと伸ばし、黒板を見つめている。教室の後ろには、母親たちがたくさん並んで、それぞれ我が子を観察している。1年生は、入学してから初めての参観日だから、他の学年より父兄の数は多いようだが、やはり、私のほかに父親の姿はなかった。マナー的にどうかとも思ったが、父親がひとりでいるのも気恥ずかしく、帽子を目深にかぶって、うつむき加減に授業を観察した。幾人かのお母さんの視線を感じたが、それは無視して、花子の様子を見守った。
算数の授業は花子にとっては少々つまらないものだろう。我が家では、普段から、太郎が兄であることを誇示するため、学校で学んできたことを妹にひけらかしてきた。それが花子にとっては、予習となっていたのだ。
授業を観察しながら、花子に念を送ったが、父の存在に気がつく様子もないので、そっと教室をでた。廊下に出る時、背中にまとわりつく視線を感じた。それは不審者を疑うものではなく、もしかすると、私が花子の父であり、それはつまり『太郎君パパ』ではないかと推測しているのだ。
校舎の真ん中に位置する階段を上がりながら、小学校の階段の段差が高くないことを改めて知り、一段ずつではかえって昇りづらいので2段ずつ上がった。2階に辿り着き、校舎の左右を見回した。教室の後ろの扉から、中の様子をのぞいている妻の姿をみつけた。
今年、ようやく30歳になった妻は、子供たちも自慢するほど美しい。家とは違った雰囲気を漂わせる妻にみとれながら歩み寄り、びっくりさせないように、そっと肩を叩いた。
「ちゃんと、顔、洗ってきた?」
妻の問いに、笑顔を返した。なにか、突っ込まれた時、ごまかす効果を持つあの笑顔だ。
「洗ってきたよ。ヒゲは剃らなかったけどね。太郎はどんな様子?」私は小さな声で聞いた。
「あいかわらずこの学年は、やんちゃが多いわね」
妻も私と同じように、まずは花子のクラスを見学してから、3年生のクラスへやってきたのだ。1年生に比べて、3年生のほうが、賑やかな授業になるのはしかたがないが、太郎を筆頭に落ち着きのない性格の持ち主が、なぜかこの学年には多いのだ。
廊下側から授業を覗き込む私たちに、お母さんたちからの視線が集まった。夫婦揃って参観に来ていることが珍しいというのもあるが、3年生の母にしては若く見える妻への好奇心もある。しかし、なんといっても私たちが、太郎君ママと太郎君パパであることが一番の理由だろう。私たちはそんなことには慣れっこになっていた。妻が教室の中に入らないで、廊下側から観察していたのは、視線から逃げ場がなくなるのを恐れていたからだ。
「どれ、ちょっと念を送るかな」私は太郎に、父も来たことを知らせる為に、身体半分を教室の内側に入れた。
国語の授業だった。辞書の引き方を学んでいるらしい。40代後半ぐらい、いかにもベテランの雰囲気を醸し出す女性教師が、黒板に単語を書いた。【あか】と書かれた。
「じゃぁみなさん。この単語を辞書で引いて下さい。見つけた人は手をあげてください」
先生が選んだ単語【あか】は辞書の仕組みを学ぶのにふさわしい単語であるといえる。なぜなら、50音順で引く際に【あ】は1番最初に現れる。次に2番目が【か】だ。あかさたなと辞書を追っていくことで、引き方のコツを理解しやすい。そこへ持ってきて【あか】はすなわち、赤和家の【あか】でもある。
「は〜い」
幾人かの児童が手を挙げた。その中に太郎は含まれていない。私は念の送り先を息子から、先生に変えた。
(せんせい!指名はもうちょっと待って下さい!きっと太郎もみつけますから!)
念が届いたのか、先生はためらっている。そこへ、ようやく太郎が顔を上げた。
「はい!」
勢いよく発声し、手を挙げた。まっすぐ伸びた指先に先生が反応した。
「では赤和くん。赤和くんの辞書には【あか】はなんと書いてありますか?」私の送った念が通じたのだ。こうして、冒頭のざわめきが起こることとなった。
ざわめきには幾つかの理由があった。まずひとつめは、太郎の身長にある。小さいのだ。3年生でありながら、やっと110センチを超えた程度の太郎。幼稚園の年中さんでも太郎より大きい子はいる。そんな身長だから、太郎の場合は椅子に『座る』というよりは、『乗っている』と説明したほうが正しい。
指名を受けた息子は、発表する為に立ち上がった。いや、正確には、椅子から降りた。文字通り、降りたのだ。そして床に足をついて、直立の姿勢をとった。それは、座っていた時と、頭の高さ、位置がほとんど変わらなかった。
(え?立ったの?)
そう感じたお母さんたちは数人いたはずだ。驚きが入り交じったざわめきが波打った。
次の理由は、太郎のその可愛さだ。8歳の少年を可愛いと表現するのは私の持つ語彙が足りないからだ。妻に言わせると、太郎のそれは『華』と表現される。顔立ちや体型だけでは説明のつかない存在感を漂わせるのだ。
確かに、太郎は美少年の類いに含まれると思う。まんまるの頭に、ややたれた大きな目、すっきりとした顎のライン。しかし、それだけでは『華』をまとえる理由にならない。
『子供の成長は早い』とよく言われる。事実、幼少期の頃は与えた服もワンシーズン。大人が考えるよりも子供は日々、早く育つ。ところが、太郎は、同学年はおろか、幼稚園児まで置き去り?にするくらい、童顔のままで、容姿、体型が成長しない。親の考える成長のスピードに合致し、いつまでも『可愛い子供』でいる性能を備えているのだ。普通の子供たちにはないこの性能が、多くの母親たちを虜にして、全ての女性に備わっている『母性本能』を鷲掴みにし、ある種の羨望とため息が入り交じったざわめきを生んだのだ。
小さな手には、大きな本。その容姿の少年が持つには、辞書はあまりにも不釣り合いに見えた。ざわめきを制するかのように、もう一度先生が言った。
「赤和くんの辞書にはなんと書いてありますか?」
教室内に静寂がもどった。同時に緊張感が漂った。居合わせた、すべての大人たちが太郎の発表に集中した。
(がんばれ!がんばれむすこよ!赤和家の【あか】だぞ。間違えるなよ!)
私は再び、念を太郎に向けた。
太郎は小さく息を吸ってから発表した。
「はい。先生、ぼくの辞書には・・・【あか】は・・・からだにたまったよごれのこと。とかいてあります」
一瞬の静寂が訪れたが、それは1秒ともたなかった。だれかが「ぷっー」と、吐いたからだ。それにつられて、こらえきれない笑いが起きた。なんとも言えない癒しが教室を包み込んだ。
いいかい太郎、よくお聞き。確かにとーさんは兵庫生まれの大阪育ち、どっぷり関西人だ。だから、家での会話は、お笑い芸人風に行われる。フリやツッコミの指導もしたりする。ボケがあまい時、おまえを叱ったりもしたかもしれない。だけどな。ここは学校だ。先生の出す問題は、我が家でいう『フリ』とは違うんだ。ボケる馬鹿がどこにいる。
「垢かよ!」
私のとなりで、妻が小さな声でツッコミをいれた。
我が家の育児、教育方針は一風変わっている。それにはちょっとした理由がある。
この夜、赤和家の食卓は、この時の様子を解説する妻の得意げな笑顔で食事が進んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます