第七章 追憶あげます

 布団に膝を抱えて座る。

 あれからどれぐらいたったんだろう。ほつれた髪をなんとなく手ぐしで整えながら小さく息を吐く。

 冗談だよ、と笑う直純の姿が浮かぶ。

 恋敵なんだ、俺じゃだめかな、冗談だよ、の流れが冗談じゃないことぐらい、沙耶にだって分かる。

 いつからだったんだろう。全然気がつかなかった。

 ただただ、優しいお兄ちゃんだと思っていた。

 それとも、

「忘れたのかな」

 気がついていたのに、気がついていたことを忘れているのだろうか。

 もう何がなんだかわからない。

 何を忘れているのかがわからないのが、一番怖い。

 大事な事を忘れているのだろう。きっと、もっと、たくさん。気がついていないだけで。

「冗談だよ、か……」

 直純のことは、尊敬しているし、大好きだ。

 でもそれは、家族に対する感情だ。

「せめて、ちゃんと返事したかったな」

 尊敬している、大好きな人だからこそ。でも、なかったことにされたから、それは出来ない。

「意外と直兄ずるいもんな」

 少しだけ笑う。

 ちゃんと返事がしたかった。

 忘れないうちに。覚えているうちに。

 次会った時に、ちゃんと笑える様にしないとな。と思う。

 直純だけじゃない、円にも宗主にもみんなに、ちゃんと笑って対応しないと。これ以上心配をかけないように。

 もちろん、

「榊原龍一君にも」

 小さく呟く。

 彼にこそ、笑って対応しないと。

 でも、それが正しいのかわからない。どういう顔をしたらいいのかわからない。

 思い出すから、と言ったのに。また、がっかりさせてしまう。

 膝を抱える手に力を込める。

 外から声をかけられる。

「どうぞ」

 深く考えずに、咄嗟にそう返事をした。

 ゆっくりと襖が開く。外からの光の眩しさに、目を細めた。


「失礼します。おはよ、沙耶」

 襖をあけて、出来るだけ微笑んで言う。

「……あ」

 布団の上で上体を起こしていた沙耶は、驚いたような顔を一瞬して、

「龍一、くん」

 小さい声で名前を呼ぶ。

 一瞬思い出してくれたのかと思ってしまった。そんなことあるわけないのに。忘れたのではない、記憶は奪われたのだ。奪われた記憶は戻らない。

 くん付けの呼び方に、胸がちくりと痛む。

「いい?」

 尋ねると小さく頷かれた。

 いつもより少し離れたところに座る。お互いが手を伸ばしても届かないぐらいの距離。

「体は、平気?」

「おかげさまで」

 小さい声で答える。どこかよそよそしい対応。

「あのさ、」

 ずっと考えてきた。

 教室で、こずも達と話しながら、車の中で、一海に来てから、ずっと考えていた。なんて言おうか。何が出来るか。何をすればいいか。

 答えは既に自分が決めていた。

「星を見に行かない?」

 微笑んだまま告げる。せめて笑っていろ。自分にいい聞かせる。

 不安にさせるな。せめて、笑っていろ。

「え?」

 沙耶が首を傾げる。

「今すぐとは言わない。でも、今度星を見に行こう」

 丸くて大きい瞳が、じっと龍一を見つめる。

「約束したんだ。例え沙耶が忘れても、俺は沙耶を忘れない」

 丸くて大きい瞳が、驚いたようにさらに大きくなる。

「それ……、書いてあった、日記に」

「日記ってそれ?」

 転がっているピンク色の表紙を指差す。沙耶が小さく頷く。

「それもちゃんと日記に書いていてくれたんだ。ありがとう」

 素直に微笑めた。それは覚えていたいと思っていてくれた証拠だ。

「今はもう一つ日記があるんだよ」

 そう、答えはとっくの昔に決まっていた。

 祖父母の家に星を見に行ったあの時。満天の星空の下で、龍一は沙耶に約束していた。

 どうすればいいのか、何ができるかなんて、そんなこと、昔の自分が知っていた。

「俺も、忘れないから。覚えているから。沙耶が忘れてしまったことも、俺は覚えている。だから、沙耶が嫌だと泣いて喚いても、今まであったこと全部説明してやる。もう一度、記憶を埋め込む。沙耶が忘れるたびに、同じことを繰り返すよ。何度忘れても、何度でも」

 丸くて大きな瞳が少し潤む。

「それでいいって、沙耶は言ってた」

 沙耶がかすかに頷く。

「だから、もう一度やり直そう。流石にもう一度こっくりさんに憑かれるのは嫌だけど」

 おどけて苦笑い。沙耶も少しだけ口元を緩めたから上出来だ。

「もう一度、同じ事やればいい。星を見に行こう。一緒に見に行った映画も、もう映画館ではやってないかもしれないけど、DVDでも借りて一緒に見よう」

 黒くて長い髪が小さく頷く。

「この前行きそびれた映画ももう一回行こう。次は遊園地だって行こう。それだけじゃない、他のところにも行こう」

 今度は少し大きく、頷く。

「大丈夫、俺はちゃんと覚えてるから。何度だって同じことができるよ」

 微笑む。大丈夫、ちゃんと微笑めている。

「……ごめんなさい、ありがとう」

 消えてしまいそうなぐらい小さい声で沙耶が言う。

「ごめんなさい、ありがとう、龍一君」

 その言葉に少しだけ近づく。

「ありがとう、ごめんなさい」

「違うよ、沙耶」

 龍一君に戻ってしまった呼び方に、後退してしまった関係に、痛む胸を押し隠して龍一は柔らかく微笑んだ。

「また、よろしく、沙耶」

 そして右手を差し出す。

 沙耶は、ゆっくりとためらいがちにその手をにぎり返した。

「よろしくおねがいします」

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