第二話

 父がアイザに魔法を見せたことは、あまりない。魔法使いというよりも研究者みたいだ、というのがアイザの正直な感想だった。それくらい、魔法を使う姿を見たことはなかった。物語のなかの魔法使いたちは結局のところ幻想なんだな、と思ったものである。

 生まれてはじめて魔法を間近で見たのは、七歳くらいのとき。アイザが唯一、母親がいないことで父に泣きついたときだった。

『どうしてわたしにはお母さんがいないの』

 近所の子どもたちに片親であることを変だおかしいと笑われたときだった。それまでうちには父さんしかいないのだ、と漠然と受け入れていたものに突然乱暴に石を投げ入れられた。

 みんな、お父さんもお母さんもいるのに、おまえの家は変だ、と。

 ぐすぐすと泣くアイザに父は困り果てるばかりだった。子どもを慰めるようなことができる器用な男ではなかった。


『アイザ』


 父がアイザを呼ぶ。

 涙で濡れた瞳で父を見ると、その手のひらには小さな種があった。

『《芽吹け、春の使者》』

 歌うように父が告げた呪文を合図に、種は芽吹きみるみるうちに花開いた。魔法だった。アイザにとっては、すばらしい魔法だった。

『――わぁ!』

 その花を見て涙もひっこんだ。アイザの髪を撫でて、父はかなしそうに笑った。

『アイザ、魔法は世界を愛する力だ』

 その力の源は、いつだってそばにある。アイザが望めば力を貸してくれる。

 お母さんもそうだよ、と。死んでしまった、会うことはできない。けれど、アイザのそばにいる。

『……だからアイザ、魔法は、人のために、世界のために、使われなければならないんだ』

 決して魔法を使うな、と同じくらいに何度も何度も、父はその言葉をアイザに言い聞かせた。もしかしたら、分かっていたのかもしれない。どれだけ魔法を禁じたところで、アイザはいつか呪文を唱えるときがくるだろうと。


(――なら父さんは、今もそばにいるの?)






「……本当に大丈夫か?アイザ」

 アイザが泉で溺れかけたこともあって、ガルはすぐに出立することを渋っていた。

「大丈夫だって……たいしたことなかったんだから」

「いや、今もぼーっとしていたしさ。熱ある?」

「ない。疲れてもない」

 溺れかけたのは、アイザの不調や不注意が原因ではない。とはいえ説明しようもないし、何かがいたという証拠もないので話してはいないが。

「アイザ」

 ハッとガルが声を潜めたと思うと、アイザの肩を抱き寄せた。それほど身長が変わらないので、警戒するガルの顔がアイザのすぐそばにある。

「……ガル?」

「なにか、いる」

 何かとはなんだ、とアイザが問おうと口を開いた瞬間、視界の端で何かがちかちかと光った。ランプの灯りよりも眩く、木漏れ日のようにやさしく、しかし視界を奪うには十分すぎるほどの光だ。

「……ほお。これが見えるとは、なかなか良い眼をしている」

 鈴の音のような、水音のような、清涼なもので満たされた不思議な声だった。

「誰だ……?」

 敵意がないのを感じ取って、ガルの緊張がわずかに解けた。

(まぶ、しい……)

 アイザは目の前に現れた存在の、その周囲に纏う光が眩しくてとても直視できなかった。

「己では調節できんのか。いたしかたない、眼を一度閉じるといい」

 ガルはなんのことを言っているのかさっぱり理解できず。とても不思議そうだった。アイザは言われるがままに目を閉じる。ふ、と瞼を覆う冷たさを感じた。

「よいぞ」

 光はもう見えなかった。けれど肌でそれが今もあることを感じ取っている。光水晶が何度も反応して瞬いていた。

「……精霊?」

 ぽつりとアイザが呟くと、肯定か否定かも分からぬ笑みだけを浮かべた。おそらく、肯定だ。そして高位の精霊なのだろうとアイザは理解する。

「さきほどは我が眷属が粗相をしたようであったからな。詫びよう」

「さっきのも、やっぱり……」

 精霊が。人ならざる存在が、アイザを泉のなかへと引き込んだのだ。

「詫びというにはささやかだが、少しわけてやろう」

(――わける?)

 何を、と思ったときには精霊のうつくしい顔が目の前にあった。青とも銀とも言えない瞳がアイザをとらえた。

「ちょっ」

 すぐ隣のガルが声をあげて、アイザを引き寄せた。しかし精霊はそんなことに頓着する様子もなく、アイザの耳元で揺れる光水晶にふぅっと息を吹くかけた。

 光水晶に熱がこもる。

「惜しいものだな。それほどの魔力があるのなら、精霊はおまえを愛しただろうに」

 この国に、精霊はほとんど残っていない。魔法使いは滅びゆく過去の遺物だ。

「――あの男の、娘でなければ」

「父を、知って……?」

「この国に魔法使いなどリュース・ルイス以外おらぬ。そなたの耳のそれはかの者のものであろう」

 忌まわしい魔法使い。その言葉がさしていたのは、魔法使いたちではなくたった一人の、魔法伯爵と呼ばれたアイザの父のことであるのだ。

(なぜ? 父さんはそれほど魔法を使うことはなかったし、精霊に疎まれるようなことなんて――)

 だって父は、アイザに何度も言い聞かせた。人を傷つける魔法は使ってはいけない。世界を汚す魔法は唱えてはいけない。なぜなら魔法そのものが、世界から人に与えられた祝福の力だからだ。

「……どうやら余計なことを話したようだ。知らぬのであれば、知らぬままのほうがよかろう」

 余計なこと? とアイザは食らいついた。思えば、そう、アイザは魔法使いとしての父はほとんど知らなかった。

「父のことを? 父が何をしたというんですか。魔法使いと精霊は、共存関係でしょう?」

「それは遥か昔のことだ」

 精霊の声に険しさがほのかに宿った。

(遥か、昔の)

「精霊の力を借りる、それは世界の力を借りることと同義。しかし人は時を重ねることに傲慢になってゆく。精霊は良き隣人ではなく道具になる。ゆえに我々は人との関わりを捨ててこの森に逃れた」

 ざわり、と肌を這うような怒りを感じて、アイザは自分の腕をさすった。ガルが無言でアイザを庇うように背に隠すと、精霊はガルを見てその怒りをおさめた。

「……そなたと愛し子がなぜ出会ったのか、我らにも分からぬ。時とは我らにとって瑣末なこととはいえ、人の世にしてもこの森が焼かれたのはそう遠い過去ではなかろうに」

「ヤムスの森が焼かれたことと、アイザになんの関係がある」

 ガルが訝しげに問いかけた。しかしアイザの心臓はどくんと大きくなる。嫌な予感がした。聞きたくないような言葉が紡がれるような、気がした。

 ヤムスの森が炎に包まれたのは、まだ十三年前のことだ。長い人の世の歴史のなかでは新しい出来事と言える。

「なるほど。何も知らぬ、知らされておらぬ雛鳥たちか」

 精霊は目を細めて、ガルの背に庇われるアイザを見た。


「この森を焼いたのは、他でもない――リュース・ルイスだというのに」



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