第三話

 それからというもの、ガルの座学における授業態度は一変した。真面目に授業を聞いているし、居眠りもまったくしなくなった。寮へ帰ってからは復習しているようだし、アイザと一緒に自習することも増えた。

 あまりの変貌ぶりに教師陣も彼の友人たちも困惑していたが、悪い変化ではないので概ね歓迎されている。先日のレグとの一件でどうなることかと心配していたアイザとしても、ガルにとっては悔しい経験だったかもしれないが結果的として良い刺激を受けたのだろうと思っている。

(まぁ、頑張りすぎて知恵熱とか出さなきゃいいけど……)

 試験前に熱を出して倒れたりしたら洒落にならない。ガルは一度集中してしまうと時間も気にせず没頭してしまう癖があるらしいので注意が必要だ。

 教科書を抱えながらアイザはひっそりとため息を零した。魔法薬学を受けたあとに一般教養を受けるため移動をすると、遠いのでなかなか面倒だ。

 自然と早足になりながら歩いていると、前方に一人の青年を見つけてアイザは足を止めた。

「こんにちは、嬢ちゃん」

 レグ・アザレ・ダントン。

 ――ガルに変化をもたらした獣人の青年であった。

「警戒しなくていい。何もしねぇよ」

 敵意がないと示すようにレグは両手を上げて笑う。その表情はやはり人懐っこさが滲んでいて、アイザの中で一瞬湧き上がった警戒心が萎んでいく。

(やっぱり、なんとなくガルに似ているんだよなぁ……)

 獣人というのは誰しもこんなに人懐っこい雰囲気を持っているのだろうか。簡単に懐に入ってきてしまうその空気は警戒する方が馬鹿らしくなってしまう。

「……わたしに何か用ですか? それともガルに?」

 少し棘がある声になったのは仕方ない。ガルがあの時に感じた感情はアイザには計り知ることはできないけれど、彼の悲痛なほどの叫びは今も耳に残っている。結果良い方向へ向かったとしても、あの時にガルが受けた傷は傷のままだ。痕は残る。

「あの坊主にはしばらく会う気はねぇよ」

「……でもあなたは、ガルのためにマギヴィルへやってきたんでしょう?」

 クリスの言っていた人がレグならば、彼はガルに獣人がなんたるかを教えるためにやってきたはずだ。アイザが首を傾げると、レグはわずかに微笑みを浮かべる。

「まぁ、そうなるな。だけど今またあいつに会っても、俺に反発するだけだろうよ。どうせ試験が終わったら長期休暇とやらなんだろ?」

「そうですけど……」

「長期休暇が終わってから、様子を見て……かな。俺もしばらくノルダインをうろうろしてみるつもりだしな」

(つまりマギヴィルにずっと滞在するってことでもないのか……)

 マギヴィルのなかを見て回るだけならノルダインとは言わないはずだ。

「……嬢ちゃんは賢いな」

 アイザがレグの言葉の裏を読み取ったことがわかったのだろう、レグはくすりと笑ってアイザの髪を撫でた。

「――ひとつ、いいですか」

「なんだ?」

 そのまますれ違い立ち去ろうとするレグを呼び止める。

「あなたは、ガルの味方ですか?」

 アイザの青い目が射抜くようにレグを見た。

 レグはわずかに目を見開いたあとで、すぐに柔らかい笑みを浮かべる。

「……獣人はその身に流れる血を裏切らない。嬢ちゃんが心配することは何もねぇよ」

 それだけ答えると、レグはひらりと手を振って去っていった。

「……ルー。あの人の言うことは信用できるのかな」

 この間もだが、過保護すぎるくらいのルーがレグに対しては警戒していない。

「さて。それはおまえが決めることで私に判断を仰ぐことではないな」

 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向くルーに、アイザは唇を尖らせた。

「……ルーは時々意地悪だな」

「可愛い子を甘やかすだけが親の役目ではないからな」

 ぱたぱたと振る尻尾を思い切り掴んでやりたいところだったが、時間もないのでアイザは小走りで教室へ向かうことにした。





 そして、五日間の試験期間が始まった。実技や筆記の試験を受けて、その一週間後には待ちに待った長期休暇となるのだ。


 クリスは先に部屋を出て早めに学園に行くと少し前に出て行った。身支度を整えてルーと一緒に部屋を出て、アイザは首を傾げた。

 ――ガルがまたいない。

「……自習室かな」

 試験も始まって今日で四日目。残す教科も少なくなってきて、大詰めといったところだ。ガルは試験中も真面目に勉強をしていて、この調子なら補習もどうにか回避できそうだ。

 食堂は一番混んでいる時間だ。このままだと朝食を食べる暇もなくなってしまう。

「ルー、行き違いにならないようにここで待ってて」

 もしただの寝坊ならガルは真っ先に待ち合わせているこの場所に来るはずだ。返事の代わりにルーは尻尾をパタパタと振り、行儀よくお座りしている。

(真面目に勉強するのはいいけど、急に詰め込みすぎだよなぁ……)

 まるで別人のようだ。

 食堂へ向かう生徒たちの流れに逆らいながら自習室へと急ぐ。

 扉を開けるとちょうど慌てて出て行く生徒と入れ違い、アイザはいつもガルが使う自習室の隅へ目を向けた。案の定、探していた人を見つける。

(……寝てる?)

 ガルは机に伏せたままぴくりとも動かない。近づきながら、その服が昨夜と変わっていないことに気づいた。

「……まさか、勉強したままここで夜を明かしたってことか……?」

 ほどほどにしてちゃんと休めと言ったのに、ガルの耳には届いていなかったらしい。朝だけではなく寝る前も注意が必要だったか、とアイザは天を仰いだ。ガルにはルームメイトがいないので余計にこういう無茶ができてしまう。早く起こして着替えさせないと遅刻は確定だ。

「ガル!」

 普段の自習室なら憚られる声量で起こそうとするが、ガルは小さく唸るだけで目を開ける気配はない。

(そういえば朝が弱いわけではないけど、なかなか起きないってヒューたちが言っていたような……)

 ガルは自発的に起きるのは得意らしく、朝寝坊はほとんどないが、おそらく夜中まで勉強してそのまま眠ってしまったような今の状況では身体は自然と目覚めるはずもない。と、なると起こすのは一苦労だ。

「ガル! ガールー!」

 さらに声を大きくしてみても、少し長く唸るばかりでまったく起きない。これはなかなか手強い。

(こうなったら仕方ない……)

 アイザは覚悟を決めるとガルの耳を引っ張って大きく息を吸った。

「ガル! 起きろ!」

 さすがに耳元で大声を出されたら起きるに違いない。事実、ガルはびくっと驚いたように身体を震わせた。

「ふぁ!?」

 何事かと突然頭を上げたガルと、耳元へ口を寄せていたアイザの視線がぶつかる。アイザの青い瞳が寝ぼけた金の目をとらえた、と思ったときに、ふわりと唇に柔らかい何かがかすった。


「……え?」


 気のせいだと思い込もうにも、ガルの顔は未だにすぐ目の前にある。それこそわずかに動いただけで唇が触れるような距離だ。目覚めたばかりで頭が動いていないのか、ガルの反応は鈍い。

(い、い、今……!?)

 ――今、唇に、触れたのは。

 意識した途端に顔が熱くなる。勢いよく後ずさって、アイザは言葉を発することもできずに口をパクパクさせた。

「……アイザ?」

 寝ぼけたままのガルは目をこすりながらようやく口を開く。その唇に思わず注視してしまって、アイザはますます言葉をなくした。

 アイザは無意識に口元を押さえて、また一歩下がる。恥ずかしさで涙が滲んできた。

(だって、いま、今、くち……!)

 先ほどの感触が夢でないというのなら。

「パパとママ、ちゅーした!」

「うわああああ!?」

 混乱しているところにシルフィの無邪気な声がして、アイザは思わず声を上げた。いったいいつの間にいたのか。きょとんとした顔をしてシルフィはアイザを見ていた。

 動揺しているのはアイザだけだ。ガルは何が起きたのかいまいち理解していないようだし、シルフィにいたってはにこにこと嬉しそうにしている。

(だって、今の……!)

 いくら恋愛に興味がないアイザでも、平静を装えるほど大人にはなれない。素敵なキスを夢見るほど乙女ではなかったけれど、まさかこんなことになろうとは。

「……アイザ?」

 名前を呼ばれてびくりと肩を震わせて、涙の滲んだ目でガルを見る。悲しかったわけでもないのになぜか涙が浮かんで、視界が歪んだ。アイザの表情に、ガルの顔が曇る。

 駄目だ、頭が働かない。あんな一瞬の感触だけが鮮明で、アイザは口元を隠したまま踵を返した。

「アイザ!」

 ガルの声が聞こえたが立ち止まるなんて出来なかった。動き出した途端に無性に走りたくて食堂すら通りすぎてアイザは寮を飛び出した。ホールで待っていたルーに声をかける余裕すらない。


(はじ、はじめてだったのに……!)


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