第四話


 ガルが目を覚ますと目の前にアイザがいて、青い瞳が大きく見開かれたと思うとすごい速さで彼女は離れた。普段はそれほど素早いわけではないのに、この時の動きはすごかった。

 しかも顔を真っ赤にして口籠っていると思ったら、突然泣き出しそうな顔をして走り去ってしまった。声をかける暇すらない。

 彼女と出会ってからかれこれ半年近く経っているけれど、アイザがあんな顔をするのガルはを初めて見た。何かに驚くことはよくあるけど、あれほど取り乱すことはあまりない。

 何よりも、泣かせるような何かを自分がしたということがガルには重い。寝ぼけていたせいで何が起きたのか頭は把握してくれなかった。目覚めてすぐのこの混乱で、自習室にいることすらたった今気がついたくらいだ。

「……俺、なんかした?」

 寝癖のついた髪をかきながら独り言のように呟くと、シルフィがふわりとガルの肩に座る。ああいたのか、と思いながらにこにこと楽しげなシルフィに目をやる。

「パパ、ママとちゅーしてた」

 小さな精霊は金緑の瞳をきらきらとさせながらそう言った。

 アイザとガルと親だと思っているらしいこの精霊は、二人が仲睦まじくしていることを好んでいる。


「……ちゅー……?」


 その言葉を理解するのに数十秒。

 首を傾げながら吐き出されたガルの声は空しく自習室の中に響いた。

 まさかそんなと思う一方で、目覚めてすぐ目の前にあったアイザの顔と、そして寝ぼけながらに聞こえたシルフィの声を思い出す。かすかに残っているような感触は夢だったのか現実だったのか証明するにはあまりにも曖昧だった。





 そしてその日の夜、アイザは見事にガルを避けていた。

 昼食のときもガルのもとにはルーが食欲がないから昼食はいらないそうだ、と伝言にやってきて――夕食ではシルフィがママはいらないって! とご丁寧に知らせにきた。ご機嫌なその声がガルをご機嫌にさせる効果はまったくない。試験期間ということも要因のひとつだろうが、朝にアイザが泣き出しそうな顔で走り去ったまま、彼女に一度も会っていない。

 原因はどう考えても今朝の一件である。それは馬鹿なガルでもわかる。

「……おまえらどうしたの? 倦怠期?」

 丸一日、食事のときにアイザの姿がないことがよほど不思議なのか、ヒューがなんとも言えない顔をしてガルに問いかけてくる。

「けんたいき?」

「恋人とか夫婦が相手に飽きてきて嫌になってくる感じのことだよ」

 すかさずケインが説明してくれて、なるほどと頷いたあとでガルは「は?」と声を上げた。

「俺とアイザはどっちでもないんだけど」

 真顔で答えるガルにヒューはあからさまに渋い顔をした。その手に持っていたフォークがかしゃん、と皿の上に落ちる。

「あんだけひっついててソレ言う……?」

 シルフィはパパママと呼んでいるが、あれは子どものごっこ遊びのようなものだ――とガルは理解している。イスラの子どもたちもそうやって役柄を決めて日頃からそう呼び合うことがあった。そしてそもそもヒューにはシルフィの姿は見えないはずなのだから何を見て恋人だの夫婦だの言っているのだろう、と首を傾げるしかない。

「じゃあなんでおまえはアイザに避けられてんの? なんかあった?」

 避けられている、と他人の口から言われると心臓のあたりがキュッと締め付けられた。

 無意識に勘違いだと思いたがる自分がいたのだとガルはこのときに気づかされた。たまたま、たまたま食欲がないのかもしれない、なんせアイザは小食だからそういうこともあるだろうと――しかしそれは他人の目から見てもガルを避けているように見えているらしい。

 魔法科と武術科。科が違うせいで一緒の授業はあまりない。だからこそ食事のときや登下校は必ず一緒にいたし、周囲もそれが当然だと思うくらいだった。

「……あることには、あった」

「は? 何やったんだよおまえ」

 呆れたようなヒューの声に、ガルはむすりと不機嫌になる。

「なんで俺がやったことになってんの」

「え? 違うの?」

 ケインにまで原因はガルだと思われていて、ガルは目を落として唇を尖らせた。信用度の違いがまざまざと現れている。

「……違わない、と、思う、けど」

 だが、あれは不可効力というか。寝ぼけていたガルにはわずかな感触の記憶しかなくそれすら消え去りそうなのに。

 そもそも、こんなに避けられるほど嫌だったということだろうか。――顔を見るのも嫌なくらいに? そんなことを考えると何故か気持ちは落ち込んだ。

 口籠るガルを見てケインは困ったように問いかけてきた。

「僕らには言えないようなことしたってこと?」

 問いかけてくる声は優しいが、なんとも刺さる問いである。

「え、おまえほんと何したの」

「ヒュー、茶化さない」

 やんわりと包み込むようにじわりじわりと問い詰められると、なんとも居心地が悪い。ガルは冷め始めたスープに目を落として小さく口を開いた。

「アイザが嫌がりそうだから、言いたくない」

「……それなら無理には聞かないけど、アイザを怒らせるってなかなかないよね。早めに謝った方がいいと思うよ?」

 ケインの言うとおり、アイザはガルを叱ったり諭すことはあっても、ここまで怒ることはあまりない。彼女は寛容なのではなく、何かと一人で勝手に納得してしまうことが多いのだ。

 怒らせた。怒らせたのだろうか。

 スープをかき回しながらガルは考える。

 怒るくらいのほうがいい。悲しませるよりは、怒ってくれるくらいのほうがずっといい。アイザを悲しませることはしたくないし、悲しい顔を見るのは嫌だ。

「……なんか、でも、謝りたくはないんだよな」

 謝ってしまうと、なかったことになる。それは何故かとても嫌だった。

 ぽつりと零したガルを見たあとで、ヒューとケインは静かに顔を見合わせた。





 ほぼ同時刻、アイザは完全に部屋に引きこもっていた。

「……ほら。食堂からサンドイッチもらってきてやった」

 憮然とした顔で食堂から戻ってきたクリスは小さなバスケットを差し出してきた。中にはサンドイッチと、フルーツが入っている。

「……ありがとう」

 悲しきかな、いくら頭を悩ませていようとも腹は空く。乙女心も空腹には勝てないらしい。

 ガルと顔を合わせたくなくて昼食は抜いたが、さすがに夕食まで抜くことは出来なかった。アイザの腹は夕方頃から悲鳴をあげていたのだ。

 だが男女共有のスペースへ行けばガルがいるかもしれない。今この状況ではガルの顔はまともに見ることが出来ないし、まして話なんて出来るはずもない。女子寮にいる限りはその危険がないので、結果的にアイザは部屋に籠もることになっていた。

(どうしよう、明日も試験なのに……)

 今朝の一件のおかげで、今日一日アイザはすっかり使い物にならなかった。今日の試験の結果を知るのが怖い。あまりの様子にクリスとナシオンに何があったとすぐに問い詰められたくらいである。

(でもまさか、キスしたなんて言えるわけない……!)

 そんな恥ずかしい相談、口にしただけで死ねる。しかもあれはどちらかというと事故で、ガルが悪いわけでもアイザが悪いわけでもない。ただアイザの心の整理がつかないだけだ。

「痴話喧嘩もほどほどにしろよ。こっちもいつまでも付き合ってやらないぞ」

「う、ご、ごめん……」

 サンドイッチを食べながら申し訳なさそうに眉を下げるアイザに、クリスはため息を吐き出しながら薬草茶を淹れた。クリスは魔法薬学専攻というだけあって薬草の扱いにも慣れている。受け取りながら香りを嗅ぐと、気持ちを落ち着かせる効果のあるハーブが入っているようだった。

「むしろおまえ、そんな状態で明日の試験を受けて大丈夫か? おまえが補習とか笑えないけど」

「それは困る……」

 既に予定があるアイザは、なんとしてもルテティアに帰らねばならないし、そのためには補習を受けている暇などない。タシアンだって向こうを発ってこちらに向かっているだろう。

「じゃあ食べたらさっさと寝ろ」

 落ち着かないまま勉強したところで手につかないとクリスは言いたいのだろう。まったくその通りだ。だがベッドに入ったところで眠れるとも思えなかった。

(あれは事故あれは事故あれは事故……!)

 自己暗示するように言い聞かせながらバスケットの中を空にすると、不思議と瞼が重くなってきた。満腹になったからだろうか、それとも暗示が効果を発揮したのか。

 こてん、とベッドに横になって寝息を立て始めたアイザに、クリスはため息を吐き出す。

「……一服盛ったのか」

 わずかに残っていた薬草茶の匂いを嗅ぎながらルーが呟くと、クリスはアイザに布団をかけながら人聞きの悪い言い方だな、と笑った。事実だが。

「こうでもしないとこいつはきっと一晩中悶々と考え込んで寝ないだろうからな」

「確かにそうだろうな」

 過保護なルーもクリスの強引な手口に異論はないらしい。そっとアイザの隣で丸くなった。


「……あの馬鹿犬は何をやらかしたんだか」


 まったく、と小さく呟いたあとでクリスはそっと部屋の灯りを消した。


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