第二話

 先ほどまで頬や髪を撫でていた風が不自然に止んだ。遠くから聞こえていたはずの授業の声も一切聞こえなくなる。クリスはすぐにその異常さに気づいたが、不思議なほど動揺を見せない。

「この付近だけか」

 おそらく魔法使いによって、一時的に空間が支配されているようだ。風や音も通さず、また他者の目にも映らない。

「切り離した? 意味わかんないこと言うなよ」

 ガルは眉を顰めてクリスを睨みつける。ガルの数少ない経験上では、このような魔法と体験することはなかったのだ。

「つまりは、ここならいくら暴れても他には見えないってことだ」

 目に映る景色に変化はない。だが魔法によってクリスやガルはこの作られた空間の外からは見えないようになっている。クリスたちに外の音が聞こえなくなったのと同様に、こちらの音も姿も外へは漏れない。

「それならそう早く言えよ」

 ガルが苛立ったように舌打ちした。

 この魔法のことといい、クリスを捕まえればいいはずの連中が、立ちはだかるように姿を現したことといい、まるで時間稼ぎをしているようだ、とクリスは思う。

 時間稼ぎ。つまりは、クリスをアイザのもとへ行かせないためのものである。

 あの姉のことだ、少しでも長くアイザと話してみたいとか、クリスに邪魔されず色々聞き出したいとか、理由はそんなところだろう。今回のこれも、最初から目的はアイザだったに違いない。クリスへの試練はついでた。

 ――アイザ・ルイスは、クリスが学園に来てはじめて作った友人だから。

 この間会ったときの姉の様子からして、いずれちょっかいを出してくるとは思ったが、こんな強引な手段だとは思わなかった。おかげですっかり後手にまわっている。

「おい馬鹿犬」

「馬鹿って言うな」

 散々ガルを馬鹿馬鹿と言い続けていたのだが、ようやく反論してくる。それだけ頭が冷静になってきたのだろう。だがしかし犬の部分の否定はないのか、とクリスは呆れながら口を開いた。

「奥にいるのがたぶん魔法使いだ。あいつを気絶させるなり魔法を解かせるなりしないとたぶんここから動けない」

 周囲の男たちの背に隠されるように、一人の男がいる。他と比べてほっそりとした身体つきからしても、彼が魔法使いで間違いない。

「……わかった」

「言っておくが俺の腕っ節はアテにするなよ」

「しねーよ」

 ガルはもとからクリスをアテになどしていない。見るからに弱そうだし、とガルは小さく呟いた。だが先ほど掴みかかられた時のことを思い出せば、クリスもまったくの非力というわけではないと思う。それが顔に出たのだろう、クリスは付け加えるように口を開いた。

「殴ると手を怪我するからやりたくない」

「……あっそ」

「あとこれ食え。噛むなよ、口の中で溶けるまで待て」

 ぽいっとガルに投げて寄越したのは、飴玉のような包みだった。

「は? 何これ」

「秘策だよ」

「は?」

 クリスとガルがこそこそと話していても襲ってくる様子はない。やはり彼らの目的は時間稼ぎのようだ。向こうとしてみれば、足止めできるのならわざわざ攻撃を仕掛けてくる必要もないのだ。

 ――だが、こちらはそういうわけにはいかない。

「俺の専攻は、魔法薬学なんだよ」

 クリスはにぃ、と笑って、ポケットから小さな小瓶を取り出して見せた。

「とりあえずおまえは何も考えずあいつらをぶっとばせばいい。おまえに頭脳労働なんて期待してない」

「うるせぇな! んなことわかってるよ!」

 ガルが地面を蹴って一番近くにいた男と距離を詰める。相手は王女の近衛騎士団の連中あたりだろうとクリスは目星をつけていた。だとすればガルが全員を倒すことなどできるはずもない。

 口の中に放り込んだ飴玉を舐めながら、クリスは極めて冷静に現状を分析する。

「ねぇねぇ、シルフィ、パパのこと手伝う?」

 シルフィがつまらなさそうにクリスに問いかけてきた。金緑の目が不安げに揺れているのは、アイザがいなくなってしまったからだろう。

「いや、もう少ししたら俺の手伝いをして欲しいな」

「手伝い? シルフィにできることある?」

 役に立てるのが嬉しいのか、シルフィがぱっと笑顔になる。精霊とはこんなに素直なものなのか、とクリスは優しく笑みを返した。

「あるよ。もうちょっと待っててな」

 それまでアレの応援でもしていればいい、とガルを指差すと、シルフィは元気にガルへ声援を送り始めた。周りの様子を見ると、向こうの連中にシルフィは見えていないらしい。他の人に見えないようにしていろ、とアイザが言ったのを律儀に守っているようだ。

 口の中の飴玉はまだ溶けない。

 クリスが焦れたところで、ガルは一人の男の懐に入り、隙をついて投げ飛ばしていた。間髪入れず背後から迫ってきた男の剣を避けて足を払う。

「へぇ……」

 感心したようにクリスはガルの動きに目を奪われていた。なるほど、以前アイザが言っていたとおりか。体術はかなりの腕らしい。

 ぺろりと唇を舐めると、口の中と同じかすかに甘い味がする。飴は、だいぶ小さくなってきていた。

 向こうの魔法使いはこの場を維持するのに集中しているようだった。ガルの予想以上の健闘ぶりに男たちは動揺し、そして手加減を忘れ始めている。大怪我をさせるようなことはないと思っていたが、それも怪しくなってきた。

 クリスの舐めていた飴は、もうなくなる。ガルはどうだ。溶けきったか、それとも。

「――クリス!」

 ガルに名前を呼ばれたことに驚いて、クリスは目を丸くした。

 ガルの金の目が、射抜くようにこちらを見ている。

「飴玉、なくなった!」

 その報告に、クリスは満足げに笑った。夢中になりすぎて忘れている、なんてことはなかったらしい。

「上等」

 ぺろり、と唇を舐める。

「さ、出番だ」

 シルフィに声をかけて、手を伸ばす。 クリスの指先にシルフィが触れると、クリスは艶やかに微笑んで取り出した小瓶を地面に叩きつけた。

 小瓶は割れ、そのなかで揺れていた液体の緑がじわじわと地面に広がる。

「《小さき精霊に乞い希う。飛び散る雫、その香り、その飛沫、あますことなく広げ届けよ》」

 シルフィが得意げに微笑みながら翅を震わせると、液体の甘い匂いがその場に広がっていく。

「これ、は」

 男たちはクリスの使った魔法に警戒する様子を見せたが、その時にはもう遅かった。かくん、と膝から崩れるように男たちが倒れていく。

「……おまえ、何したの」

 訳がわからないといった顔で、ガルは倒れた男たちを見下ろした。ふわりと風が頬をかすめる。

「これは人を気絶させる薬だ。この瓶ひとつで一人分程度の効果しかないがそれを魔法で効果を広げた。都合のいいことにこの場は閉ざされていたしな。おまえがさっきまで舐めていたのはその予防薬」

 クリスはなんてことない顔で制服の内ポケットから予備のもうひと瓶を取り出してガルに見せた。

「……なんでそんなもん持ち歩いてんの」

 駆け出しながら、ガルが怪訝そうな顔をして問いかける。クリスもガルと並走しながら「ふん」と笑ってみせた。

「か弱い美少女はいつ何時なにがあるかわからないからな」

「美少女じゃねぇし」

 ガルの即答に、クリスは不満気に美少女だろうが、と睨みつける。

「……アイザのほうがかわいい」

「……おまえそれ……いやいい、なんでもない」

 はぁ、と呆れたようなため息を吐き出してクリスは走る。どこへ向かうのか、と問わなくてもガルにも分かった。マギヴィル学園を出て、さらに学生特区を出る。その向こうはノルダインの王都だ。

 アイザはとことん王城に縁のある人間だよな、とガルは思う。いつからだろうか、遠くない未来にあの高い壁の向こうへ、アイザが行ってしまうのではないだろうかという不安があった。



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