第六話

 既に寮の門限は過ぎた頃だ。学内に残っている生徒はおらず、教師ともすれ違うことはなく、ルーの姿を見られて悲鳴をあげられるということもなかった。足はやはり軽い捻挫で、薬を塗り固定してもらうと痛みはほぼなくなる。

「今から急げば、まだ夕食に間に合うかもしれないけど……」

 ちらりと時計を確認してセリカは呟いた。日暮れは七時近く、寮の門限は夜の八時だ。今は八時半になろうとしているところだった。

「その足じゃダメね。理由があったにせよ門限破りの罰は夕食抜きってとこかしら」

 夕食抜き、とアイザは口の中で小さく繰り返す。相談もなく森に入ったアイザはともかく、ガルはアイザを探していただけだ。罰を受けるのであれば、アイザだけでいい。

「おまえ、走ればまだ間に合うだろ。わたしはいいから先に帰ったら……」

「それ、ありえないから」

 食いしん坊のガルに夕食抜きは辛いだろうと気を使ったのに、ガルは不機嫌そうにきっぱりと言い切った。そんなふたりの様子にセリカはくすくすと笑い、アイザの隣にいたルーはうすく目を細めている。

「ちょっと待ってね……ああ、あった。かわいそうだからふたりにこれをあげるわ。少しはマシでしょ」

 セリカはそう言いながら鞄から大きめのマフィンをふたつ、アイザとガルに渡した。朝まで何も食べないなんてことにはならなさそうでほっとするが、ガルはこれではとても足りないのではないだろうか。生憎、マギヴィルにやってきたばかりのアイザも部屋にお菓子の買い置きなんてしていない。

「どうせならついでだ、部屋まで送り届けたいところだが……」

 ルーが心配そうに口を開く。固定した足は歩くだけならさほど問題はなかった。足の具合を確認しながらアイザは苦笑する。

「それは……きっと女子寮で悲鳴があがるだろ」

 まだ寝るには早い時間だ。寮のなかではまだそれぞれ部屋を行き来しているだろう。そこに突然大きな狼が現れたら――想像するだけで悲鳴が聞こえてくるようだった。

「ていうかそれオスなんじゃないの? 女子寮入れんの?」

「それだのなんだのと失礼な子どもだ」

 ふん、とルーが少し不機嫌そうに鼻を鳴らす。そんな様子にセリカは苦笑し、アイザとルーを見た。

「さすがに寮内とまでとなると、契約した精霊でもない限り立ち入りは認められません。あなたほどの精霊ともなれば騒ぎにしかなりませんから」

 やんわりとした口調だが、はっきりと言い切っている。それは、精霊がダメというよりは――

(私を特別視するわけにはいかないから、だよな)

 アイザに会いに来る精霊の立ち入りを認めることも、その精霊が学生どころか普通の魔法使いですらやすやすと出会えない高位の精霊であることも、アイザがまた嫉妬の対象になるのは目に見えている。

「アイザが望むのならいつ契約してもかまわないが? 私の名はとうの昔に与えているからな」

 いっそ今この場でするか、とあまりにもあっさりとルーが言うものだから、セリカは驚いているようだった。アイザは苦笑して、そっとルーの首筋を撫でる。

(本当に過保護だなぁ……)

 おそらく実の父よりも、ルーはアイザに甘く気にかけすぎている節がある。

 精霊の真名を知る。それは精霊と人間を繋ぐ古からの方法だった。教えられた名は、魂に刻まれる。記憶とはまた別のものだ。

(もちろん今でも覚えている、けど……)

 まだ三歳になるかどうかという頃に与えられた、ルーの本当の名前。思い出そうとしなくても、それはするりと頭に浮かんだ。

「でもルーは父さんと離れてから、のんびり過ごしていたんだろう? それをまた縛りつけるような真似はしたくない」

 精霊との契約は様々で、対等であるものから従属させるものもある。もちろんアイザがとるのであれば、それは対等な関係としての契約だが、あまりにもアイザに都合がいい話だ。ルーには利益などない。

「精霊は、縛りつけられて嫌だと思う相手に名を明かしたりはしない」

 精霊にとっての契約はただ愛した魔法使いの傍らにいるための手段だった。

「まぁ、嫌だと言っても姿を消して傍につくが」

「それ、結局のところ選択肢はないってことじゃないか……?」

 今は誰の目にも見えるようになっているが、ルーがその気になれば姿を消すことは容易い。

(……嫌なわけ、ないじゃないか)

 けれど、一歩が踏み出せない。父のような魔法使いに。そう思うのなら、ルーと契約して共に在ることはアイザにとって良いことだろう。

 迷い、視線を泳がせているとガルと目があった。

「アイザの好きにしたらいいよ」

 ガルはきょとんとした顔で、あっさりとそう告げた。――本当に、あっさりと。

(悩んでることが馬鹿らしくなる……)

 アイザがくすりと笑いながらルーを撫でる。

 魔法使いになる。その道を進むために、必要なものも、足りないものも、たくさんある。

 知らない場所、慣れない土地で、心細くないなんて、口が裂けても言えない。友だちに囲まれるガルが羨ましくないわけじゃない。心のどこかではいつだって心細かった。

 アイザの心の内を見透かすように、ルーは笑う。

「おまえは本当に不器用な子だ」

 アイザの手のひらをぺろりと舐めて、まるで急かすようだった。

 不器用な子ども。甘え方を知らない子ども。ルーの目にはそんな風に見えているのだろう。

 アイザは苦笑したあとで膝をつく。背筋を伸ばせばルーと同じくらいの目線になった。その首筋を両手で包み込むようにして触れる。まるで頬を包むように。


「気高き森の王。わたしのいとしい揺り籠。わたしの父、わたしの母、わたしのきょうだい」


 それは魔法を使うときに唱える呪文にも似ていた。アイザの唇からほろりほろりと溢れる言葉に反応するように、ルーがひかりを纏う。汚れのない青いひかりがルーの翠と混じり合う。


「――ルーヴェ・ルーフェン。わたしの、精霊」


 その名は、アイザが声に出してもセリカやガルの耳には届かない。

「アイザ・ルイス。私のいとしい娘。私の気高き友。私の小さな魔法使い。我らの道が別たれる日まで共に在ろう」

 恭しく頭を垂れてルーが告げると、ひかりは霧散していく。

 アイザは立ち上がると満足げに尻尾を振るルーを見て笑った。

(うまく言いくるめられた気もするけど……まぁいいか)

「また注目を集めそうねえ」

 見守っていたセリカが苦笑いで呟く。ただでさえ悪目立ちしていたアイザが高位の精霊を連れて歩くようになれば、さらに好奇の目を集めることになるだろう。

「まぁ、別に気にしてないので……」

「これからは私がいるから問題ない」

「俺が蹴散らしてやるから大丈夫」

 三人同時に口を開いて、思わず顔を見合わせた。ガルとルーが妙な顔でお互いを見ているのが少しおかしくてアイザとセリカは思わず噴き出した。

「仲が良くて、何よりだわ」





 夜の風は冷たい。寮までの道をルーに支えられながら歩くアイザは、無言のまま数歩先を歩くガルの背中を見つめた。沈黙は思っていたよりも苦しいものではないが、おしゃべりなガルが静かなのはどうも調子が狂う。

(結局、ガルとまともに話してないんだけど……)

 ばたばたして、ふたりで落ち着いて話す暇などなかった。

 寮に着いたときには当然門限は過ぎていたが、セリカのおかげで締め出されずに済んだ。さっさと部屋に戻れという寮監の先生の視線を浴びつつアイザはゆっくりと階段を上る。

「アイザ」

 名前を呼ばれてアイザは立ち止まる。男子寮の入り口で、ガルが振り返っていた。

「また明日な、おやすみ!」

 口論のことなんてすっかり忘れたみたいな顔で、ガルは笑う。また明日、と言われたことに少しほっとした。

「……おやすみ。また明日」

 アイザが応えると、ガルはにかっと笑って手を振り扉の向こうに消えていく。


「あの少年と親しいみたいだな」

 アイザの隣にぴったりと寄り添いながら歩くルーが口を開いた。

「う、ん……まぁ、親しいと思う」

 アイザが言葉を濁らせるとふむ、とルーは零して黙り込んだ。なんだろう、と首を傾げつつ部屋の扉を開ける。

「――あれ?」

(部屋の明かりが、ついてる……?)

 消し忘れたのだろうか、それとも――。

 アイザが緊張しながら開けると、呆れたような声がなかから聞こえた。

「おい、ニーリー。開けるときはノックくらいしろよ」

 聞こえてきた声は、低い。

 並んだベッドと机、その片方にはアイザの私物がある。間違いなくここはアイザの部屋だった。

 シャワーを浴びたあとなのだろう、部屋着の下穿きだけで上には何も着ておらず肩にタオルをかけただけで、薄い胸板がちらりと見えた。長く淡い金髪をひとつに束ねて、そこからぽたぽたと水が滴っている。

「あ」

 アイザと目があって、緑の瞳が大きく見開かれる。

「……お、おま」

 アイザが震える指先でその人をさした。

 明るい部屋の中で、それは見間違えようもない。薄い胸板に、女子特有の膨らみは一切なかった。


「おまえ、男じゃないか!!」



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