第3話

 それでも翌朝、起き出してみれば、彼女は静かに食卓について俺を待っていた。意外だったが、一度約束したことは律儀に守る性格なのかもしれない。

 調理機械の表示を見れば、やはり少なすぎる気のする量のオートミールがセットされていたが、ひとまずはよしとして、自分の分を追加した。ここで口やかましいことを言えば、へそを曲げられそうな気がした。

 それにしても、不味そうに飯を食う女だった。見ているこちらまで食事が不味くなるようなひどい仏頂面で、彼女はいやそうに匙を使った。

「口に合わないんなら、味付けの設定を変えられるんじゃないか」

 俺がそう言って調理機械のマニュアルを呼び出そうとすると、彼女は首を振った。

「別に、味が悪いわけではないわ」

 それならもう少しくらい、美味そうな顔をして食えばいいじゃないか――喉まで出かかった言葉を、結局は言わずに飲み込んだ。けんか腰になるのはやめろと言った昨日の自分の言葉を覆すような気がしたので。

 そうしたら、何も話すことがなくなった。

 匙と食器のふれあう音だけが、静まりかえったリビングに響いていた。

 俺はこんなに口下手だっただろうか。

 社交辞令だとか、その場の状況に合わせた適切な会話だのといったようなことが、人に比べて苦手だという意識はこれまでなかった。そもそもこうまで露骨に人から嫌われたという記憶が、物心ついてから一度もなかった。

 仏頂面を付き合わせて、黙々と食事を続けた。実を言えば、もともと俺はめったに朝食を摂らないほうだったのだが、自分から言い出した手前、付き合わないわけにもいかない気がして、匙を無理矢理口に突っ込んだ。最後まで食べることには食べたが、おかげで胃もたれがした。

 食事を終えて、器を食器洗浄機に放り込むなり、彼女は無言で部屋に引っ込んでいった。

 遠ざかっていく足音を聞きながら、ため息を噛み潰した。自分たちの相性が悪すぎるのだろうか。それとも皆、多かれ少なかれ似たような苦労をしているのか。



 セオに連絡を取ってみようと思ったのは、その件があってからだった。

 友達といって差し支えのない相手は他にいくらでもいたけれど、その中であいつの名前が真っ先に浮かんだのは、セレモニーのときのことが頭にあったからだ。

 疑念は定期的に浮上してきて、頭の隅をちらつき続けていた。卒業式のあの日、トラムの中で交わした会話――端末を取り上げた歴史教師の、いつもと変わらない穏やかな微笑。

 疑うのは馬鹿げていると、自分でも思った。おそらくは自分の態度が不自然だったとか、そういう単純な理由なのだろうとも。セオとは初等部の最初のクラスからの、長いつきあいだ。たしかに真面目で融通のきかないところはあるが、教師に告げ口をするようなタイプではない。だいたい、そんなことをして、あいつに何のメリットがある?

 だから、直接訊いてみたかった。あのとき誰かに話したかと。ぶつけてみて、反応を見たかった。それで、あいつではないと確信が持てたのなら、それでいい。

 向こうが通信に出るまでのタイムラグに、緊張を押し隠しながら、手の汗をぬぐった。

『――やあ、委員長』

 もう級長でも何でもない俺に向かって、画面越しにそう呼びかけるセオの笑顔は、何の屈託もないように見えた。

 こちらから切り出すよりも先に、向こうのほうから会おうと言い出した。

 二つ返事で承諾したはいいが、セオの暮らすエリアは、べらぼうに遠かった。コロニー・ガレ。はじめは向こうまで出かけてゆくつもりでいたが、路線図を見て気を変えた。お互いのエリアの中間地点でさえ、トラムを乗り継いで、二時間ばかりかかる。

 この距離に何者かの意図を感じるのは、神経過敏というものだろうか?

 延々とトラムに揺られてようやくたどり着いた待ち合わせの公園には、家族連れの姿が多かった。育児中の人間が暮らすための居住区なのだから、当然のことかもしれなかったが、手をつないで仲むつまじく歩く男女や子供連れの家族を見ていると、ひどく落ち着かない気分にさせられた。

 世界中の夫婦という夫婦が手を取り合って仲むつまじく過ごしていて、自分だけがその輪からはじき出されているような気がした。馬鹿馬鹿しい被害妄想だというのは、自分でも判っていたのだが。

 セオは時間ぴったりに待ち合わせ場所に現れた。

「よう、久しぶりだな」

 ひと月ぶりに見る顔は、ちっとも変わっていなかった。当たり前かもしれない。たったの一か月だ。それだというのに、おかしなもので、ずいぶん長く会っていないような気がした。

 俺を見つけて、ほっとしたように笑うその顔を見て、複雑な気分になったのは、自分の疑り深さに自分で嫌気がさしたからだった。

 どのみちいきなり本題を切り出すつもりもなかったが、ベンチに陣取るなり思わずこぼれた愚痴は、本音だった。「――参るよなあ」

「なんなんだろうね」

 そう返してきたセオは、まったく同感といった調子でうなずいたが、そのくせして、顔つきは明るかった。

 言葉でこそ、嫁への不満を並べ立ててみせても、その口元は緩んでいた。こいつは幸福な結婚をしたのだなと思うと、癪に障るような気がした。だがそれを素直に口に出すには、プライドが邪魔をした。

 つまらない見栄だと、自分でも思う。だが、幸福そうな友人を見ていると、自分が置かれている状況が、いかにも耐えがたい恥のように思えた。

 俺は調子を合わせて、さものろけ半分であるかのように、彼女のことを話した。端末を出して画像を見せることまでした――新居への住人登録のために撮影した画像。自分のみっともなさに、ひどい気鬱を覚えた。俺はこんなに小さい人間だっただろうか。

 なかなか本題に触れることの出来ないまま、小一時間も話し込んだ頃だった。セオがふっと視線を陰らせて、緊張したように口元を引き締めた。「そういえば、あれ、どうなったんだ?」

 その視線は、俺の手にしている端末に向いていた。

 わざとやっているのかと思った。しらばっくれてみせているのかと。セオは俺のほうに向き直って、不安混じりの視線をよこした。

 何の不安なのか。いくら相手の目をのぞき込んでも、その正体は知れなかった。自分がいつの間にか、半ば本気でこの友人を疑いかけていることに、遅れて気がついた。ここに来るまでは、我ながらくだらない疑心暗鬼だと、そう思っていたというのに。

 セオの質問に、言葉少なく答えながら、胸のうちでは、ずっと問いかけていた。

 ――お前じゃないのか?

 だがその問いは、別れ際までとうとう口から出るにはいたらなかった。やがて触れづらい話題に蓋をして、害のない世間話を交わし、俺たちは別れた。あとには苦い思いだけが残った。俺は何をやっているんだろう。

 一人に戻って、トラムに乗り込みながら、交わした会話を思い返してみたけれど、結局、何の確信も得られなかった。

 だがそれでよかったのかもしれない。

 セオが密告したにしても、そうでなかったにしても、どのみち俺が甘かったということだ。誰にも打ち明けずに、一人でやろうと決めたことだったのに、それを守れなかったのだから。そう割り切ろうとした。

 いずれにせよ、次はもっと慎重にやる。



 毎日の食事の習慣は、いちおう根付きはしたものの、どうしようもなく不毛な時間だった。ひとりきりで過ごす時間にはちっとも苦痛を覚えないのに、同じ食卓をふたりで囲んでいて会話がないのが苦痛だというのは、どういう心理だろう?

 それでもとにかく、日々は過ぎていった。彼女は変わらず本を読んでばかりで、会話は必要最小限にしか交わさなかった。そのせいで、ときどき自分が言葉を話せるということを忘れそうになることがあった。

 どうかすれば日常会話よりも、プログラミング言語のほうが身近に感じられる。アドヴァイザーが定期的にアナウンスをしてくれなかったら、言葉を忘れてしまうのではないかと思えるほどだった。

 授業だの、友人たちとの悪ふざけだのといった、定期的な日課がなくなったとたん、時間の感覚はあっという間に麻痺してしまった。たまに顔を上げてカレンダーを見て、日付に驚く。それでも、ともかく食事の習慣のおかげで、案外規則正しい生活を送れているのが、不幸中の幸いだろうか。

 寝室を彼女に明け渡していたから、リビングのソファが俺の寝床だった。上等の品で、大きさも充分だったから、それに不自由を感じはしなかったが、ときおり我に返って、忌々しい思いがすることもあった。ずいぶんと情けない状況に置かれたものだ。

 たまに、妙に人恋しいような気がするときもあった。友人たちの誰かに連絡でも取ればよかったのだろうが、俺はそうしなかった。気軽に通信をつなげる相手がいなかったわけではないが、いまの状況を悟られるのがいやだった――妻との仲がうまくゆかず、会話に飢えているというのを、友人たちに知られるのは、みじめなことのように思えた。



 食事を摂ったあと、彼女は寝室に戻ることが多かったが、それがおっくうに思えるのか、そのままリビングのソファで本を読んでいることもあった。いいほうに考えれば、それだけいくらか俺の存在に慣れてきたということなのかもしれない。だが彼女は顔を上げることさえしなかったので、距離が縮まったという気はまるでしなかった。

 何気なく眺めていると、彼女はしょっちゅう同じ本を読んでいるようだった。

「よっぽど好きな本なのか」

 何度目かに見覚えのある図を目にしたとき、つい魔が差したというのか、ぽろりとそんな言葉が口からこぼれた。彼女はびくりと肩をふるわせて、慌てて手の中の端末を抱き込むように隠した。

「――何?」

 棘のある声が帰ってきて、ばつの悪い思いで鼻を掻いた。「いや、いつも同じのを読んでるみたいだったから」

「悪い?」

「いいや。――悪かったな、のぞき見なんかして」

 彼女はいっとき、警戒するようにこちらの様子をうかがっていたが、ずいぶん経ってから、早口に呟いた。「別に好きなわけじゃないわ。他に読むものがないだけ」

 それは彼女なりの譲歩だったのだろう。つっけんどんな言い方には違いなかったが、そこにはいくらか言い訳のような響きが混じっていた。

「ライブラリから新しい本を拾ってくればいいじゃないか」

「もう全部、読んでしまったもの」

 まさか、と思った。だが、つまらなさそうな彼女の表情を見ているうちに、思い当たるところがあった。

「――その端末、見せてもらっても?」

 彼女はぎょっとしたように目を瞠った。当然の反応だったかもしれない。ふつう、よほど親しい人間にでも、自分の端末の中身など見せない。

 気まずい思いをもてあまして、つい言い訳がましく弁解した。「おかしなところは触らない。ライブラリを確認したいだけだ」

 彼女はいっとき怪訝そうに俺をにらんでいたが、それでもやがて面倒くさくなったのだろう、黙って画面を開いてみせた。

 彼女にも作業が見えるようにディスプレイを傾けながら、ライブラリに接続すると、俺の推測は当たっていた。「――ああ、やっぱり」

 彼女のアカウントで見られる範囲は、えらく制限されていた。俺たちのスクール時代の端末だって、フィルタリングはまあひどいものだったが、それ以上だった。

「ありがとう。もういい」

 詳しい説明はせずに端末を返すと、彼女は不審げな表情を隠しもせずにひったくって、寝室に引っ込んでしまった。

 ひどく苦い思いが胃の底にわだかまった。考えてもみれば、それはいかにも合理的な話だった。女には、なるだけ余計な知恵はつけないほうがいいというわけだ。

 リビングや寝室には共用の端末があるが、確かめてみれば、彼女のもの以上の閲覧制限がかかっていた。子どもが三、四歳にもなれば、勝手にパネルを触ってみるかもしれないから、という建前だろう。小さな子どもの閲覧に適さないものは、表示されない設定というわけだ。

 その夜、自分の作業の片手間に、あまり使っていない予備の小型端末に、ライブラリから適当に拾ってきたテキストをどんどん放り込んだ。翌日にでも、彼女に渡すつもりだった。

 その思いつきに、たいして深い意味はなかった。機嫌取りのつもりといえばそうかもしれないが、俺にとってはたいした手間でもなかったし、言ってみれば、気まぐれと親切心の、ちょうど真ん中くらいの感覚だった。

 だが、いざ翌朝になって彼女の顔を見るなり、躊躇した。これを渡すことは簡単だ。結果、彼女は退屈からいっとき解放されるかもしれない。だが、それでいったいなんになるというのだ?

 どういう本が制限されているのか、詳しく調べたわけではなかったが、おおよその想像はついた。

 どれほど自分たちが狭い場所に押し込められて生きているのか、いかに不自由な暮らしを送っているのか――自分が一年後に生きていられる可能性が何パーセントあるのか。そんなことを知って、どうするというのか。

 結局、俺はその端末を彼女に渡さなかった。



 その一件がきっかけだったというわけでもないが、プログラムが行き詰まったときの息抜きをかねて、ライブラリからテキストを拾ってきて読むことが増えた。本でも読んでいないことには、いよいよ言葉を忘れそうだった。

 もともと読書が趣味だというわけではない。文芸書にはたいして興味がないのだが、ライブラリの中でも閉架と呼ばれる領域に格納された古いテキストには、なかなか興味深いものが混じっていた。

 閉架にあるものは、発禁図書とは違う。通常の文書検索画面には表示されないというだけで、請求すればすぐに開示される。一応の基準は設けられているが、それは年齢だったり、犯罪歴がないことだったりという、ごく緩やかな制限にすぎない。そうした条件をクリアしさえすれば、誰でも読むことができる。ただ、アクセスした人間が公式の記録に残るというだけだ。

 うまいやり方だ、と思う。その気になればほとんど誰でも読めるのだから、不当な情報統制とまでは言えないし、やましいことがないのなら、堂々と名前を出して読めばいいというわけだ。だが、その心理的抵抗を乗り越えてまで、積極的に閉架の中を漁る人間は多くない。

 閉架に置かれているものは、単純に暴力や性に関する過激な描写があるといったような理由によるものが多いのだが、中には、なぜ閲覧制限の必要があるのか、一見しただけではわからないようなものが混じっている。

 特に、二百年ばかり前の文学には、そうした傾向があった。

 たとえば『動物園』という短編小説がそうだ。百五十年ばかり前の作家が書いたフィクション――地球時代を知っている最後の世代、例のウイルスが蔓延する直前に月に移住してきた男の、晩年に残した遺作。

 動物園というのは、地球上ではありふれた娯楽施設だったらしい。遠く離れた地域の動物をひとつところに集めて、市民が鑑賞するための設備。

 さっと一読したところではごく平和的な、何気ない日常を描いた小説とも読める。ストーリーらしいストーリーもない、平凡な家族の一場面を切り取ったというような作品。それがなぜ、一般に公開されないのか。

 この短編を最後まで注意して読めば、答えは見えてくる。『動物園』は、人間に飼育される動物たちの、屈辱と悲哀を描いた小説なのだった。

 小説の最後の場面は檻の中、尻尾を丸めてうずくまる狼の描写で終わる。決まった時間に餌を与えられ、狭い檻から出ることを許されず、飼育員と獣医によって繁殖を管理された動物たち。牙を抜かれ、爪を失った獣――

 彼らの姿は、皮肉なほどいまの月人類と重なって感じられる。

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