3部 ラルフ

第1話


 いつか手放すものに思い入れを持つのは、馬鹿げたことだと思っていた。



 花嫁の到着が遅れるという知らせが入ったのは、本来ならば結婚生活初日となるはずだった、まさにその日の朝だった。

 予定では、俺が新居に到着したときには、すでに相手の女がそこにいるはずだった。空っぽの家のドアをくぐり、消毒薬のにおいに顔をしかめて空調の設定をいじっているときに、その通信は入った。

『あー、突然失礼しました。ラルフさん?』

 ディスプレイに映った中年の係官は、俺がうなずくのを待ってから話を切り出した。どうせ向こうが持っているパーソナルデータに、こちらの顔写真くらいは入っているに違いないのに、いかにもお役所的なことだ。

『いや、急な話で申し訳ないのですがね。ちょっとした行き違いがありまして』

 ちっとも申し訳なさそうには聞こえない口調で、係官は言った。なぜ遅れるのかという理由や、いつごろに到着する見込みだとかというような、詳しい説明は一切なされなかった。面倒くさげな響きさえ混じるその声を聞きながら、あれこれと余計な想像を巡らせた。

 トラムの運行が乱れたというアナウンスは、特に耳に入っていない。もちろん、隕石でセンターが半壊したというようなニュースもだ。それならこの状況は、相手の個人的な問題によるものだろう。

 花嫁の名前は、まだ知らされていなかった。直前にならなければ顔写真どころか名前さえ知らされないことに、ずっと不満を抱いていたが、なるほど、こういう事態に備えているわけかと思った。つまりは、直前になって急な差し替えがあっても、無用な混乱を招かずに済むシステムというわけだ。

 もちろん俺の考えすぎで、ただ単に、花嫁のちょっとした体調不良や何かで出発を遅らせただけのことかもしれなかったが。

 通信が切れて、一人きりに戻ると、リビングはいかにも広々として感じられた。使い慣れない機器を操作しながら水をコップに汲んでソファに腰を下ろすと、朝からたかだか小一時間ばかりトラムに揺られただけだというのに、あんがい疲れている自分に気がついた。

 壁のスクリーンが勝手に立ち上がり、聞き慣れた声のAIが、家電製品の操作方法と注意事項をアナウンスしはじめる。食事のこと、洗濯物のこと、医薬品の請求の仕方、医官へのダイレクトコールの手段……いわずもがなの説明を、右から左に聞き流しながら、まったく違うことを考えていた。

 女だけが罹患する、ウイルス性の特定疾病。罹患率百パーセント。十五歳までの死亡率が、昨年の統計で八十四・三パーセント。

 ため息を飲み込んで、わずかばかりの私物の整理をはじめた。考えても仕方の無いことだ。

 空調を最大に設定しても、薬品のにおいはなかなか取れなかった。



 月社会がいまの形になったのは、たかだかこの二百年ばかりのことだという。かつて授業で習ったとき、少しばかり意外な気がしたのを覚えている。

 それまでは男も女も、同じエリアに暮らしていたという。結婚も、それぞれの意思で自由に相手を選んだらしい。

「だけど、それで混乱は起きなかったんですか」

 生徒の質問に、教師は笑って、まるで当時を自分の目で見てきたかのように語った。「もちろん、混乱はあったんだよ。相手を得られないままに死んでゆく男は、いまより遥かに多かった。諍いもあった」

 それをきっかけに興味を持って、少しばかり、自分でも調べてみることにした。

 教師の話はおおむね正確だった。もちろん、文献をそのまま信じていいならばの話だが。

 スクールに在籍するうちに自由に見られるテキストなんか、たかだか知れているが、年齢制限によるフィルターさえどうにかうまいことすり抜けてしまえば、ライブラリの蔵書量はあんがい多い。

 こういう調べ物をしたいときには、歴史書なんかを引くよりも、当時のニュース記事を参照するほうがいいと、経験上知っていた。二百年ばかり前の報道記事を発掘するのには時間がかかった上に、古めかしい文章は拾い読みするだけでも一苦労だったが、苦労の甲斐あって、おおよその当時の経緯くらいは掴めた。

 もともと当時は、自由恋愛のほうが主流だったようだ。育児についても、いまのような全寮制のスクールは、多数派ではなかった。子どもの世話は、おおむね子供が成人するまで一貫して親が受け持つのが一般的だったという。

 ところが月面移住の第一世代は、男の割合が圧倒的に多かった。

 その結果、当然のこととして、トラブルが頻発した。数少ない女の取り合いになったというわけだ。そういう、まるで原始時代のような野蛮な光景が、たかだか二百年前まで当然のように広がっていたのかと思うと、ひどく不思議な気がした。

 男女の居住ブロックを分けてはどうかという案自体は、早いうちから浮上していたらしい。だがそのアイデアは、反対意見が根強く、なかなか実現のめどは立たなかった。

 だがそこに、件のウイルスが発生した。

 女だけが発症する、死に至る病。

 人類の滅亡を予期しなかったものが、その時代、ひとりでもいただろうか?

 月人類に手段を選ぶ余地はなかっただろう――そう思うのは、しょせん後世の人間の考えで、そんな状況下でさえ、かなりの反発はあったらしい。だが結局のところ、その政策は通された。

 正直に言えば、そういう過去の歴史そのものには、たいして興味があったというわけでもなかった。ただ、その話は俺にひとつの理解をもたらした。つまり常識などというものは、その枠組みの外側から見れば何の役にも立たない滑稽な鎖だということだ。



 一週間遅れでやってきた花嫁は、顔色の悪い、陰気な女だった。

 淡いブルーアイと、褪せたような色味の金髪が、疲れ切ったような表情とあいまって、ますますその印象を強めていた。リビングに入る一歩手前で立ち止まった女は、色のうすい唇を引き結んで、いつまでも突っ立っていた。

 転んだだけでも骨が折れるのではないかと思うくらい、がりがりに痩せた女だった。

 到着の、ほんとうに間際になってやっと知らされた彼女の名は、サーシャというらしかった。もっとも、彼女がそう名乗ったわけではない。こちらの問いかけに、彼女は答えなかった。ただ網膜表示の個人識別コードが、直前に渡されたファイルと一致していたというだけの理由で、俺は彼女をそう呼ばざるを得なくなった。

「あー、聞いているかと思うが」

 かける言葉に迷ったあげく、気の利いた言葉も思い当たらず、そう切り出した。「ラルフだ。今日から、よろしく」

 自分では、精一杯愛想よく笑ったつもりだった。けれど、やはり女はうなずかなかった。それどころか、苛立たしげに顔を顰めて、小声で何事かを呟いた。

 それがあまりに小さい声だったので、はじめは聞き取れなかった。こちらの怪訝な表情に気づくと、彼女は鼻の頭に皺を寄せて、

「――よろしく? 何をよろしくしろっていうの?」

 そうはっきりと吐き捨てた。

 その目には、見まがいようのない軽蔑の色があった。そんな目で見られることなど久しくなかった俺は、鼻白んだ。

 女は壁の端末を叩くように操作して、さっさと寝室に立てこもってしまった。

 閉ざされたドアをあっけにとられて見つめているうちに、じわじわと怒りがこみ上げてきた。

 外れをつかまされた、というのが、最初に浮かんできた思いだった。

 何だ、あの態度は。何がそんなに気にくわないのか知らないが、まるで子供じゃないか。

 最初にその姿を見た瞬間の同情めいた感情は、きれいに吹き飛んでいた。八つ当たりをされたという不快感だけが残った。

 そう、八つ当たりだとしか思えなかった。彼女が好きでここに来たわけではないのと同じように、俺だって、別にいまの状況を望んだわけではない。ただ結婚というのが逃れようのない義務だというだけだ。

 だが考えようによっては、幸いなのかもしれなかった。

 卒業前、まだ見ぬ花嫁に、期待まじりの想像を巡らせなかったといえば嘘になる。女に興味がなかったわけではないが、体外受精が一般的な現代、子供を持つのに必ずしも性交渉は必要ない。

 そりの合わない相手をあてがわれたことは、お互いにとって不運なことには違いなかっただろうが、考えてもみれば、たかだかほんの数年をともにするだけの人間だ。親しくなったところでたいした利はない。

 むしろ情が移れば、あとがつらいだけだ。俺は、父のようになりたくはなかった。



 俺の父親は、母が死んでから、少しばかりおかしくなった。

 本格的に精神に異常をきたしたのであれば――たとえば俺や妹に暴力を振るうだとか、育児放棄してどこかに行ってしまうだとか、そういう事態が起きたのであれば、行政の介入があってもおかしくなかったのかもしれない。だが幸か不幸か、そういうことはなかった。

 だから俺は、七歳になって強制的に親元から引き離されるまで、父親と暮らしつづけた。もういない母親に向かって上機嫌に話しかけたかと思えば、何の前触れもなくとつぜん泣き叫んだり、端末に向かって作業に没頭したまま、何日でも寝食を忘れたりする男と。

 通常ならば、五歳になってすぐ学寮に入れられる。どういうふうに申し出たものか知らないが、ともかく父が望んだ結果、俺には特例が適用されて、七歳になるまでは父の元からスクールに通った。

 その期間も終わって、いざ家を出なくてはならないとなったとき、父は俺を力任せに抱きすくめて離そうとせず、身も世もなく大声で泣き続けた。定刻を過ぎて苛立った係官が同僚を呼びあつめ、何人がかりかでその父の手から俺を引きはがすまで。

 幼いころには、父のことが好きだった。それだけに、成長するにつれて押し寄せる幻滅は、いっそう大きかった。父は俺にとって、友人に話すことのできない恥、汚点になった。

 その経験が、俺の人生にひとつの教訓を与えた。手放すことに耐えられないようなものは、はじめから持つべきではない。

 父と同じ轍を踏むのは御免だった。

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