第8話

 それからの日々は、あっという間だった。

 パーシーのささやかな成長に一喜一憂するうちに、時間は流れるように過ぎ去っていった。あっという間すぎて、先のことを考える余裕もほとんどなかったくらいだった。

 いつかやってくる現実を、忘れていられたわけではない。だけど、まだもう少し先のことだと思っていた。ルーがあんまり楽しそうにしていたから。小さなパーシーが、あまりにも生きる力にあふれていたから。

 それとも、考えようとしなかっただけだろうか。ルーに出会う前、そうだったように、目の前にある事実から目をそらし続けていただけで。

 僕は結局十五のころから、ひとつも成長していないのかもしれない。



 二人か、多ければ三人の子供を持つ夫婦もいる。僕らも当然、つぎの子供のことを考えなかったわけではない。ちびすけが二人になれば、育児の大変さも倍になるかもしれないけれど、こんな苦労ならむしろ歓迎だった。

 僕自身の将来のことをいうなら、最後の子供が五つになるまでは、育児に専念しなくてはならないわけだから、子供が増えればそれだけ進学が遅れる形になる。だけどそれもいいかと思っていた。ちょっとスタートラインにつくのが遅くなるだけのことだ。ルーも、できれば二人目がほしいようだった。

 それでもいざ選択を迫られたとき、僕は反対した。

 はっきりだめだと言ったわけではない。だけど心情的には賛成しがたかった。副作用に苦しむルーを見ていたからだ。妊娠が、彼女の体に負担をかけることを、知っていたから。

 何度かルーがその話を切り出して、そのたびに僕らは話し合ったけれど、結局なしくずしになった。

 彼女の希望を叶えなかったことについて、僕には小さくない罪悪感があったけれど、そのかわりに、パーシーにうんと愛情を注げばいいと考えた。その考えは、やっぱり少しだけ、僕の気を楽にしてくれた。同時にそういう理屈を捏ねるのが得意な自分に対する、うっすらとした嫌悪感が、いつも胸のどこかにつきまとっていた。

 つくづく思う。自分の行動を正当化するということについて、僕らはとても長けている。



 ルーの描いた絵本は、パーシーのいちばんのお気に入りになった。僕のほうでもライブラリの中から絵本をたくさん探してきて、ひとつずつ彼に読み聞かせたけれど、どれも母親の手製のものにはかなわなかった。寝る時間になると、パーシーはよく、あの絵本を読むようにせがんだ。

 寝室に小型端末を持ち込んで、ルーは毎晩のように自分で描いた物語を、腕のなかの息子に読みきかせた。そのたびにパーシーはいちいち歓声を上げ、不安そうに指をくわえて端末をのぞき込み、声を立てて笑った。毎日毎日同じ話ばかり何十回も聴いて、よくも飽きないものだと思う。

 ルーの空想の混じった物語の中で、動物たちは人間のように口をきき、主人公に助け船を出したり、ちょっとした意地悪を仕掛けたりする。

 のんびりやのゾウや、おひとよしのキリンや、気まぐれな猫が登場するたびに、パーシーはルーの描いた動物たちを、小さな指でさしてはしゃいだ声を上げた。それをききながら、ああ、この子に本物の動物を見せてやれたらいいのになと、そんなことを思った。

 絵本の最後のページでは、主人公の男の子がキリンの背中に乗って、草原の小さな家に帰るのだけれど、パーシーはたいてい話がその場面にたどり着くまえに、こてんと眠りに落ちてしまう。

 ときには僕まで一緒になって寝かしつけられていることがあった。そういうとき、よくルーは翌朝になって僕のことを、ずいぶん大きな子供だとからかった。



 みんなルーって呼ぶから、そう呼んで。出会ったとき、彼女は言った。

 だけどそれは嘘だった。嘘だったことを彼女から聞いたのは、四年目のことだ。

 僕らの可愛い息子はそのころ、広い家の中を転げ回ってしょっちゅう小さな傷をこさえ、そのうえかくれんぼが上手で、しじゅう僕らをはらはらさせた。どうして子供っていうのは、ああも狭苦しいところに躊躇なく頭から突っ込んで行けるんだろう?

 そのパーシーがすっかり眠りこんだ真夜中、僕らのほうはというと、なかなか寝付けず、小声でとりとめもない話をしていた。話の長い隣の奥さんに捕まって辟易したこと、ルーの幼少時代を過ごしたセンターにもああいう教師がいたこと、パーシーが成長したらどんなふうになるだろうかということ(その姿を彼女が見ることはおそらくないという現実から、僕はまたしても目をそらした)。

 会話の最後、彼女はふっと、胸のつかえを振り落とすように、その小さな嘘を告白した。

「子供のころ、ほんとうはね、皆からマリィって呼ばれてたの」

 それだけを言って、彼女は眠りに落ちた。

 ルーの寝息を数えながら、僕は薄闇のなかで考えた。四年前、なぜ彼女はそんな嘘を吐いたのか。どうしてそれを何年も経ってから、いまさら告白せずにはいられなかったのか。説明はなかったけれど、なんとなくわかるような気がした。

 その名前で彼女を呼ぶ人々のほとんどは、死んでしまったのだ。だから彼女は、その名前を捨てた。死の影を振り払って、別人として生きなおすために。

 僕のルーは、嘘が上手な女だった。僕がそれを、知らなかっただけだった。



「君、少し痩せたかい」

 僕がそう聞いたとき、ルーは思いがけないことを聞かれたというように、軽く目を瞠って首をかしげた。それがパーシーが四つになる直前のこと。

「ほんと? なら嬉しいな。ここ何年か、だんだん太ってきてたから……」

 重労働の甲斐があったかな、とルーは屈託なく笑った。昼寝している息子の前髪を指で梳きながら。

 そのころパーシーは、ますます元気に跳ね回るようになっていた。彼女は自分も子供みたいに、息子の遊びにいちいち全力でつきあった。嬉しそうな悲鳴を上げて逃げ惑うパーシーを捕まえては、くすぐったり羽交い締めにしたりして。喧嘩をするときも、ほとんど同じレベルでやり合うものだから、そばで見ていたら、なんだか子供が二人いるみたいだった。

 ルーは毎日よく笑って、よく怒った。たしかに重労働には違いなかった。だから僕も、その言葉を信じた。信じようとした。こんなに元気なんだから、彼女にはまだ時間が残されているはずだと。

 だけどルーが倒れたのは、それからふた月もしないうちだった。



「どうして、隠してたんだ」

 彼女がすぐに泣くことを、もう笑えない。寝台にぐったりと横たわるルーを問い詰めたとき、僕の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。僕がしっかりするんじゃなかったのか、なんて自嘲する余裕もなかった。

 こんなに症状が進行していたんなら、もっと早くから痛みはあったはずだと、往診に来た係官は言った。

 彼の口調は、AIに負けず劣らず淡々としたものだったけれど、このときは、それに怒り出すひまがなかった。なんせ、自分自身に腹を立てるのに忙しかったので。

 病身の彼女を問い詰めてなじったりするのが、どんなに馬鹿げたことか、わかっていなかったわけではない。ないと思う。それでもこらえられなかった。

 知ったところで、何も出来なかったかもしれないけれど、それでも、僕には言ってほしかった。

 君が苦しんでいるのも知らずに、その横でのんきに笑っていた自分を、いま僕は、絞め殺してやりたいって思ってる。そんな気持ちなんて、君にはわからないんだろう。そこまで口に出しそうになった。どうにか堪えて飲み込めたことを、いまではせめてもの幸いだったように思う。

「クラスにもね、そういう子、いたの」

 ルーはちょっと笑って、そう言った。「ちょっとでも長く、皆と居たいからって、我慢して、なんともないふりをしてね。中には、痛いのがいやだから、発病したらすぐ死にたいっていう子もいたけど……」

 僕はうなだれてその話を聞いた。四つになったばかりのパーシーには、わけがわかっていなかっただろう。どうしていいかわからないような顔をして、寝台に横たわる母親の、腰のあたりにしがみついていた。

「隠してて、ごめんね」

 ちょっとでも長く、あなたたちふたりと、一緒にいたかったから。ルーはそんなふうに言った。顔を上げると、彼女はやっぱり微笑んでいた。

 どうして笑っているんだとは、もう思わなかった。彼女にとっては、当然やってくるはずの運命だったのだ。僕だけが、それを信じたがらなかった。

 ごめんねと、もう一度言って、ルーは心配そうに見上げるパーシーの頭を、優しく撫でた。もとから血管の青く透ける、薄くて白い手の甲が、いっそう青ざめて見えた。



「手を、つないでいてくれる?」

 その夜、ルーは遠慮がちに囁いた。まるで初めて出会った日の、大きな猫を被っていた頃の彼女のように、おずおずとした口調だった。

 こんなふうに彼女が僕に甘えてくるのは、どれくらいぶりのことだっただろう。僕はしっかりと彼女の手を握った。指は血の気が失せて冷たかった。母親を心配しながらもとうとう眠気に負けたパーシーを腕の中に入れ、もう片方の手でルーの手を握りしめて、夜通し彼女の寝息を数えていた。

 ルーの眠りは浅かった。夜中に何度か目を覚まして、そのたびに、ルーは柔らかく微笑んで僕をじっと見た。

 何度目に目覚めたときだっただろう。ルーは困ったように微苦笑して、パーシーを起こさないように、小声で囁いた。

「眠れないの?」

「眠くない」

 彼女はふふっと息で笑った。「寝かしつけてあげようか?」

「あの絵本を読んで? もうぜんぶ暗記しちゃったよ」

 パーシーがもぞもぞと身じろぎをしたので、僕らは話をやめた。ルーの手が、布団のなかで僕の指を握り直した。

「セオ」

 パーシーの寝息がふたたび深まるのを待って、ルーは囁いた。

「なに」

 僕が囁き返しても、彼女は答えなかった。そのくせいっときすると、また小さな声で、セオ、と僕を呼んだ。そのたびに、何、と問い返した。彼女が名前を呼ぶばかりで、一向に何も言おうとしないので、つい僕のほうから訊いた。「痛む?」

「ううん、大丈夫」

 彼女は答えた。嘘だなんて信じられないくらい、自然な口調だった。

「嘘つき」

 言いながら、これじゃいつもの逆だと思った。嘘をつくのは僕で、それを問い詰めるのはルーの役割だったはずなのに。

 目で笑って、彼女は囁いた。

「嘘じゃないよ」

 ルーは再び眠りに落ちた。その寝息のリズムが、パーシーのそれとだんだん重なっていくのを聴きながら、いつの間にか彼女の手がいつものように温まっていることに気がついた。

 嘘つき。もう一度口の中で呟いて、目を閉じた。それから僕はきれぎれの浅い眠りについて、キリンの出てくる夢を見た。



 彼女が症状を覚えていながらも僕に黙っていた理由は、すぐにわかった。その翌朝には、前の日とは別の係官が僕らの家にやってきて、彼女をセンターへつれてゆく準備をはじめたからだ。

「待ってください。こんな急に」

 僕が食ってかかっても、壮年の係官は、平然としたものだった。きっと慣れていたのだろう。それが彼の仕事なんだから。

「規則ですから。お気の毒ですが」

 その淡々とした口調は、僕に錯覚を起こさせた。あの腹立たしい人工知能のアドヴァイザーが、電子の海から現実世界に飛び出してきて、人間の皮を被っているような感覚。

「だけど、ルーはまだ――」

「ここでは設備がありませんから、充分な処置もできません」

 でも――さらに食い下がろうとした僕を制するように、係官は言った。「それとも、彼女の苦痛を長引かせたいんですか?」

 それは言葉とは裏腹に、少しも刺々しいところのない、温厚な口調だった。

 僕は言葉に詰まった。答えのひとつしかない質問――それが僕らの社会を取り巻くものの、正体だった。回答の用意された問い、合理的な説明。かぎりなく安全で、許されるかぎり安楽な、最善の方法。

 だけど、あとになって思う。もしあそこで僕がそうだといったら、彼はどうするつもりだったんだろう?

 現実には僕は、ぐずぐずと追いすがることしかできなかった。

「だけど――じゃあ、僕がセンターについて行くことは……」

「規則ですから」

 にべもなかった。係官はそれでも、わずかにまぶたを伏せて、気の毒にというような顔をした。だけどその表情は、アドヴァイザーの人を安心させるようなあの口調と、どれだけ違っていただろう? それともそう考えるのは穿ちすぎで、彼は本当に僕らに同情していただろうか?

 異常な雰囲気を察したパーシーが半べそになって、僕の膝のあたりにまとわりついていた。ほんとうは母親のほうに抱きつきたかったんだろうと思う。だけどルーが小声で「お父さんのところにいなさい」と言ったので、聞き分けの良い僕らの息子は、その命令に素直に従って、べそをかきながら、頼りない父親の服にしがみついていた。

 こうなることがわかっていたから、彼女は痛みを口に出さずにいたのだ。症状を訴えれば、すみやかに連れて行かれることを、知っていたから。苦痛に耐えられなくなるぎりぎりまで、この家にいたかったから。

 係官の手際はよかった。連れてきていた搬送用のロボットに担架を担がせ、何種類かの薬を彼女に注射して、あっという間に準備を整えた。

 どうしてこんな、と思った。わずかでも時間が残されているのなら、せめて最期のときまでそばにいたいと思うのは、当たり前のことではないのか? 僕らにはたったそれだけの望みも許されないのか?

 だけど結局、僕は引き下がった。青い顔をしたルーが、僕の袖を引いたから。ルーは、ゆっくりと首を振った。そしてかすれた声で、「見られたくないから」と囁いた。

 僕はそれ以上、彼女に何の言葉もかけてやれなかった。ただその青ざめた手を握り返して、彼女の目を見つめることしかできなかった。ルーは僕を見上げて、微笑んだ。それから僕の手を離して、係官に向かってうなずいた。

 彼女を乗せた担架は、音もなく滑るように運ばれていった。

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