第5話

 生活に大きな変化が出てきたのは、三か月目くらいからだったと思う。つまり、彼女が妊娠したあたり。

 出産にまつわる一連のプロセスは、もちろんスクールの授業の中に入っていた。それを習っていたころ、僕はテキストを読みながら、ずいぶんと退屈していた。興味がなかったからだ。その、妊娠する前の過程については、興味のない男なんかそうそういないと思うけれど、そのあとのことは何の面白みも感じられなかった。中には生命の神秘だかなんだか、そういうことに感動していた純真なやつもいないではないけれど、大半の生徒にとってはどうでもいい話だったんじゃないかと思う。

 だってその頃は、いつか自分のもとに来るだろう花嫁のことなんて、ちっとも現実味がなかったし、それが花嫁という名前のない存在では無くて、ともに暮らすひとりの人間なのだということは、もっとぴんときていなかった。

 いざその場になってみると、僕は恥ずかしいくらいうろたえた。体外受精、着床、検査の数々、『揺り籠』への胎児の移植、そこから出てくる出生までの日数。つわりのこと。妊婦が食べるもののこと。

 ずいぶん前に興味なく読み流したはずのテキストを、僕は端末のどこかからあわてて引っ張り出してきて、ああでもないこうでもないと、あれこれいらぬ心配をした。彼女がちょっとでも疲れたような顔をしていたら、うろたえて彼女にまとわりついて、どこか痛むのかい、気分はどうだいと騒々しく声をかけた。そんな僕の動揺を見て、ルーはよく可笑しそうに笑った。

 彼女のほうは落ち着いていた。センターで詳しいことを教わってもいただろうし、心の準備はとっくにできていたということなのだろう。授業が嫌いでろくに聞いていなかったというルーも、このことに関しては、すっかり頭にたたき込んでいた。当たり前かもしれない。自分の体のことなんだから。

 妊娠が、彼女の体に負担をかけるということは、僕には理不尽なことのように思えた。

 月面では、自然分娩は危険が大きい。まず臨月まで胎児が正常に育たない。仮に育ったとしても、母体が耐えられない。だから着床から最初の数週間のプロセスは母体で育てるけれど、六週あまりが過ぎれば、胎児を取り出して『揺り籠』に移してしまう。

 僕らの祖先が最初に月面に移り住んでもう三百年からなる。それだというのに僕らの体の、少なくとも根本的な部分は、いまだに1G仕様のままらしい。

 それなら最初から最後まで『揺り籠』の中で育てればいいようなものなのに、とも思う。だけど技術的な問題で、妊娠の最初期に関しては、母体のほうが安定するのだそうだ。

 僕はそうした知識の大半を、ルーから教わった。しかめつらしい、きまじめな教師のような口調で、ルーは語った。そう話すときのルーにはどこか威厳が感じられて、僕は打たれたようになった。けれど話し終えるなりルーが表情を崩して言うには、「いまのはセオのまね。わかった?」――だそうだ(僕はあんな話し方をするだろうか?)。

 出産までに、あんまりたくさんの薬や設備に頼るものだから、野生の生き物は全部自分の体ひとつでやるんだよなあ、なんていうことを考えたりもした。もちろんそれも、生物の授業の受け売りだ。野生の動物なんて、月面人にとってこんなにぴんとこない代物があるだろうか?

 不自然、ということをまた思った。月面では、自然のやりかたで子供を産むことはできない。それどころか、たくさんの設備の力を借りなければ、ただ生きて呼吸をするだけのことさえできないのだ。

 そんな土地に、僕らはもう何百年も、住んでいる。いろんな無理を、技術でごまかしながら、暮らし続けている。クローン技術で女の子を大量生産するような真似までして。



 出産に関するプロセスのほとんどを、体外で行うようになった近代において、母体が出生後の生活に対応するため――育児向きの体に作りかわるためには、投薬に頼らなくてはならない、のだそうだ。

 その薬の効きかたには、個人差がある。副作用だって当然、ある。僕らの子どもが彼女の体から取り出されて、投薬が始まったあたりから、ルーは体調を崩すことが増えた。

 すっかり寝込んで起きられないというわけではない。ただ青い顔をして、ぐったりとソファにもたれかかっていることが多くなった。口数も減った。

 苦しいのかいと聞いても、ルーは笑って首を振る。

「ちょっとだるいだけ。たいしたことないから」

 とても素直に信じる気にはなれない、無理のにじんだ声だった。隣に腰かけてそっと手のひらで頬に触れると、ぎょっとするほど冷たかった。いつも体温の高いルーなのに。ルーは微笑んで、僕の手の甲に自分の指を重ねた。その指もやっぱり、ひんやりしていた。

 いつも感情をむき出しにして恥じず、すぐに泣いたり怒ったりするルーが、思えばこのことに関しては、驚くほど我慢強かった。気分がすぐれないことを隠そうとはしなかったけれど、ほとんど弱音らしい弱音を言わなかった。

 僕にはそのことが不思議でならなかったのだけれど、ずいぶんあとになって気づいた。言ってもどうにもならないことだからだ。

 僕の行動に気分を害したんだったら、怒って僕にそれをやめさせることもできる。だけどいくら苦しいとか辛いとか言ったところで、たとえば僕がその痛みを消してやれるわけでもないし、代わってやれるわけでもない。

 何もできないというのは、きつかった。自分が健康そのものなだけに、なおさら。

 あるとき、服用から三日経っても、彼女の体調が戻らなかった。僕は何度も迷ったあげく、リビングの端末からアドヴァイザーを呼び出した。午前の早い時間、ルーが起きられずに寝室に籠もっているあいだのことだ。

 接続は、何年ぶりかのことだった。この前に自発的にこのAIに頼ったのは、三年ばかり前、教師や同級生に聞くのはどうしても恥ずかしい健康上の質問(内容は察してほしい)をしたとき以来じゃなかったかと思う。

 据え付けられている端末の操作に、少し戸惑った。学生時代から使っている個人端末と、この夫婦共用の端末では、インターフェイスが違っているのだ。

 それでも久しぶりに聞いたAIの声は、記憶にあるとおり、生身の人間よりもよほど温度のある、落ち着いた声をしていた。

 もちろん、利用者を安心させるために、そういう声質に調整されているだけだ。わかっているけれど、たしかにその声を聞いた瞬間、わけもなくいくらか安心したような気になった。

『何かお困りですか』

「ルーの――妻の、薬のことなんだけど」

 僕はルーを起こさないように、小声で状況を説明した。

 薬には副作用があることも、それが避けられないことも知ってはいるけれど、それでもこんなにしょっちゅう体調を崩しているというのは、おかしいのではないか。ほかの薬に変えてもらうことはできないのか。

 切々と訴えかけてみたけれど、結果から言えば、無駄だった。アドヴァイザーは僕を落ち着かせるように、温かい声音で、気休めにもならないことを言った。つまり、薬の適合については事前に検査されている、問題ないと。

「問題ない?」

 僕は思わず声を荒げた。「問題がないだって? だってあんなに辛そうにしてるじゃないか」

 言いながら、だんだん腹が立ってきた。検査? そんなもので百パーセントの結果が保証されるわけじゃないっていうのは、医療にはしろうとの僕にだってわかる。

 AIに向かって声を荒げるなんて、滑稽なことだ。だけどそのときは、そんなふうに自分を嘲笑するだけの余裕もなかった。

「もしものことがあったらどうするんだ」

 言ってから、自分が口に出した言葉にぞっとした。もしも? もしもって何だ?

 だけど、モニタの向こうの相手は、毛ほどの動揺も見せなかった。いつもと同じ、微笑みまじりの温かい口調で、アドヴァイザーは言った。

『あなたの場合、まだ婚姻から一年未満ですから、もしものときには、次の配偶者を迎える権利があります。説明は受けておられると思いますが』

 頭が真っ白になった。

 気がついたときにはモニタを殴りつけていた。手の甲がしびれるように熱かった。痛みはいっとき感じなかった。画面の向こうで、アドヴァイザーが言った。『どうされました? 大丈夫ですか? 医療機関へ連絡しますか? ……』

 合成樹脂のディスプレイには、ひび一つ入っていなかった。めちゃくちゃに壊したところで、貸与された備品を壊したというので、未来の僕に修理費用の請求書が回ってくるだけの話だっただろうけれど。



 だけど本当に堪えたのは、その話を委員長にしたときだった。

 本当は直接会って話をしたかったけれど、体調のよくないルーをひとりにしたくなかった。ルーがまだしばらく起きてきそうにないのを確認して、苦手な通信で、僕は弱音を吐いた。

 委員長は僕の話をひととおり聞き終えると、小さく肩をすくめた。

『まあ、たしかにあの融通の利かない話しぶりには、苛々するけどな。そうかっかするなよ。相手はAIなんだぜ』

 そんなことはわかってる。怒鳴りそうになったのを、僕はかろうじて飲み込んだ。

『それに、実際、ちゃんと考えておいたほうがいい』

「――何を」

 聞き返した僕の声は、震えていなかっただろうか。

 委員長はしかつめらしく眉を寄せた。『もしものことをだよ』

 こんなことは言いたくないが、と彼は続けた。どんなことにしたって、備えとか心の準備とかいうものは、やっぱり大事だろう。あの話し方には苛つくが、アドヴァイザーのいうことにも一理ある。まだ一年目なんだ。いざとなれば取り返しはつく。……

 僕はエイリアンでも見るような目をしていたと思う。「本気で言ってるのか、委員長」

 委員長は肩をすくめた。それは、教室で日頃よく見ていたのと同じ仕草だった。そこにあったのは、お前の方こそどうしたんだ――とでも言いたげな表情だった。

 事実、委員長は当たり前のことを言う口調で、言った。

『しっかりしろよ。最初から判ってたことだろ』

 気がついたときには、一方的に通話を打ち切っていた。

 そのまま僕は、長いこと端末の前に立ち尽くした。壁に投影した地球の画像が、青い光をリビング全体に投げかけていた。家の中は静まりかえって、スリープしている端末がかすかな動作音だけを立てていた。

 しびれたようになった頭の片隅で、変に冷静に、委員長は何を言っているんだろうと思った。自分の耳がどうかしたんじゃないかとも考えた。ある日目が覚めたら、現実世界とそっくりの異次元に迷い込んでいた――それくらい、言われたことが認識できなかった。

 落ち着けよ、彼はごく常識的なことを言っている――自分に向かって、そんなふうに言い聞かせようともしてみた。

 無理だった。結婚前の、ルーに出会う前の僕だったなら、納得したかもしれない。だけど、もう無理だった。

 どれくらい端末の前で立ち尽くしていただろう。背中にルーの手がそっと押し当てられて、ようやく我に返った。

「どうしたの? ひどい顔色してる」

 何でもないよ、と僕は言った。うまく微笑むことが出来たとは、自分でも思えなかった。冷たい、いやな汗を背中いっぱいにかいていた。

「嘘」とルーは言ったけれど、以前よくそうしていたように、僕を問い詰めようとはしなかった。ただ心配そうな目をして、僕の袖を引っ張っていた。

 しっかりしろ。胸のうちで、自分に言い聞かせた。委員長の言葉はまるで納得できなかったけれど、そこだけは、本当にそうだと思った。僕がしっかりしなくてどうする。

 心配しているはずの相手から、逆に心配されたことが、たまらなく恥ずかしかった。僕はどうにか微笑みを深めて、嘘を重ねた。「ほんとに大丈夫。何でもないんだ、ちょっと友達とけんかになっただけ」



 その通話からずいぶん経ってから、ようやく気づいた。委員長の言っていたことは、たしかに本当のことだった。もちろん、何もかも、はじめからわかっていたんだ。

 ルーが、運が良くても二十歳までは生きられないだろうということ。薬の適合の問題がなかったとしても、病気なんだから、いずれ彼女が苦しむのはわかりきっていたこと。僕は最初から、知っていたはずだ。知っていて、考えないようにしていた。

 女というもの全体が、そもそもそういう宿命を背負っているのだと、そんなふうに思おうとしてみた。ルーだけが苦しいわけではないし、彼女らの苦しみは、たぶん誰のせいでもない。

 その考えは、考えたその瞬間には、いくらか僕を楽にしてくれた。つまり、彼女の苦痛に対して、僕には責任がないという考え方だ。

 だけどそう考えたこと自体が、今度は僕の良心を苛み出した。だからなんだっていうんだ。ルーが薬の副作用に苦しむことも、長くは生きられないことも、僕のせいではないかもしれないけれど、だからといってルーの苦しみがなくなるわけじゃない。ひとりだけ気が楽になって、女の子たちは大変だなあなんて、他人事のつもりか。

 他人事。

 その単語は、僕を暗澹たる気分にさせた。他人事、遠い世界の出来事という、その気分を作り出すために、彼女らはわざわざ厳重に男たちの社会から隔離して育てられるんじゃないのか。

 建前としては、例の病気のために隔離されているということになっている。授業で習ったとき、僕はその説明を疑わず、額面通りに受け取った。だけど、果たして本当にそうだろうか。

 男は発症しない病気だというのに、わざわざ隔離することの意味が、どれだけあるというのか。もちろん同じ施設に女の子たちがまとめて暮らしていたほうが、治療の都合はいいだろう。だけど本当にそれだけなら、同じ建物にさえ集めればそれで事足りるんじゃないのか。わざわざセンターなんていう大がかりな施設のために、独立したコロニーをいくつも作って、けして男たちの目にふれないようにする必要なんてないじゃないか。

 ぜんぶ、彼女らが生身の人間だということを、僕らに気づかせないためなんじゃないのか。女というのは、男とは別の、遠い世界の生き物だと、そんなふうに感じさせるために、隔離しているだけじゃないのか。現に僕らは卒業するそのときまで、女の子たちの存在を、神秘のヴェールの向こう側にあるものだなんて、のんきに捉えていた――

 すべてを社会のせいにしたがっている自分に気づいた瞬間、どっと自己嫌悪が押し寄せてきた。そのシステムに乗っかって、自分に都合のいいものしか見てこなかった自分は何だ。



 あれはたしか、卒業年次に入ったばかりの頃だったと思う。授業中、普段は温厚な歴史の教師が、いやに皮肉な調子で言った。

「件のウイルスがなかったら、我々の歴史はどう変わっていたか」

 皆さんはどう思いますかと、打って変わって静かな口調で、教師は続けた。

 この老教師が歴史のifについて話をするのは、珍しいことではなかった。時には授業から脱線して、歴史の分岐点になったかもしれない「もしも」を、彼は追いかけた。

 月は不毛の土地だ。地表を満たす大気もなければ、雨となって巡る水もない。近代の技術をもってしても、養える人口はたかが知れている。そういう場所で、もしあのウイルスが発生しておらず、我々の社会がもとの形を残していたとしたら、どうなっていたか?

「果たして月人類が争いを捨てることはできていたか?」

 月の歴史に、かつて大小のデモや諍いがなかったわけではない、とも教師は言った。まして、人口がいまよりもっと増えていたなら。水や食料を奪い合わねばならないような状況が起っていたら? そういう「もしも」について、彼は淡々と語った。

 ともすれば僕らはいまだに争い、互いに殺し合っていたのではないか? かつて我らの祖先が地球に暮らしていたころと同じように。こんな不毛の土地で、武器を使った殺し合いなんかを繰り広げたらどうなる。都市内の空気が汚染されたら? 隔壁に穴が開きでもしたら?

「天敵の存在しないこの土地で、我々に降りかかった最大の災厄であるはずのウイルスが、あるいは我々の社会を維持する役割を果たしているのかもしれない」

 生物というのはよく出来ている、と教師は小声で囁いた。教室のうしろのほうにいた連中には、聞こえなかったのではないかと思うくらいの声だった。

 僕は机にほおづえをついてその話を聞きながら、黙って眉をひそめた。つまり、先生はこう言いたいわけだ。我々の本能が、種の保存のために、件のウイルスを生み出したのではないかと。

「そう考えれば、ずいぶんと皮肉な話です」そう教師は締めくくり、脱線を終えて授業の続きに戻った。

 この意見に嫌悪感をあらわす生徒と、感銘を受けたようすの連中と、どちらが多かっただろうか。

 僕はというと、ひどく醒めた気分だった。種の保存? 生存戦略? もしそうだとしたら、あまりにもできすぎだと思った。実際には、絶滅の危機に瀕した僕らの社会が、どうにか危ういところで新しい状況に適応できたに過ぎないだろう。ぎりぎりの崖っぷちに立たされて、手段を選んでいる余裕がなくなった。クローンが非人道的だなんて言っていられない。戦争なんかやっている余裕はどこにもない。

 だけど頭の片隅では、妙に感心してもいた。たしかに僕らの社会は、よくできている。戦争もなく、内乱もなく、飢えることも、渇くこともない。誰しも小さな不満はあるけれど、それが爆発するほどではない。なるほどそう考えてみれば、たしかに絶妙なバランスだった。

 そのバランスが何の上に成り立っているかなんていうことは、考えもしなかった。

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