批評空論
名倉編
思弁的批評論の提案 ~『有限性の後で』の後で~
今年の1月、カンタン・メイヤスーの最初の一冊にして代表作である『有限性の後で』の邦訳が出版された。すこし前から「思弁的実在論」なる哲学上の潮流に興味を持っていた私は、迷わず予約し、届いてからおよそ1日1章くらいのペースで数日に分けて読んで、まったく、うちのめされてしまった。
以降ではこの『有限性の後で』についての正当な読みではなく、すこし違った方向から可能性を見てみたい。同じく哲学上の潮流であった構造主義やポスト構造主義がそうであったように、この思想は哲学においてだけではなく「批評」においても有用なのではないか、という観点から。
まずはじめに断っておかなければならないのは、これが「提案」にすぎないということだ。そもそもこういった試みはすでに為されているのかもしれないし、特に「思弁的実在論」のブームが既に収束しおわったらしい海外ではほぼ間違いなく――それも、比べようもないほどハイレベルなものが――出し尽くされているだろう。私は批評にも、哲学にも、詳しくない。はっきり言ってしまうと素人だ。ド素人だ。だからこの提案自体には「提案」としての価値、つまり他の論考なり批評なりを喚起するという価値しか、私自身期待するつもりはない。そのつもりで、読んで欲しい。
さて、序盤から言い訳臭くなってしまったが、とはいえ書くからには多少の打算と勝算がある。『有限性の後で』は「思弁的実在論」という文脈を抜きにしても間違いなく重要な一冊だが、その重要さは批評の行き詰まりに対しても
では、その「相関主義」とはいかなるものか? 本書の中途において多少戯画的に描かれる相関主義者や思弁的哲学者を巻き込んだ議論を追いつつ、見ていこう。
独断論者たちによる死後の未来についての議論から、それははじまる。
例えばキリスト教の独断論者がいる。彼はほとんどデカルトの態度そのままに「神の定義は無限に完全であることであり、「存在しない神」は(不完全な完全という意味で)矛盾した観念である」と「論証」する。そしてこのように論証された神の永遠の観想において、私たちの存在は死後も存続する、という。対する無神論の独断論者は、私たちの存在は死によって完全に破棄される、と主張する。死の後にはなにもない、純然たる無だ、と。
こうした議論は多少言い方をマイルドに(そのかわり口調を悪く)すれば、例えば2ちゃんねるなどでもたまに見受けられる。私のような一般人でも人生で一度や二度くらいは考えたことがあるような、ある程度親しみやすい議論だ。
そこに、相関主義者が割って入る。二人の独断論者の主張を二つとも、平等に無効化する。そのやり方は不可知論と言い換えることもできる。「君たちはどちらも、知ることも思考することもできないことについて語ろうとしている」彼の結論はこうだ。「死後の世界について、私たちは知ることはできない」。
相関主義者については、もうすこし深く追ってみよう。彼のキーワードは「相関」だ。何と何の相関か? いろいろあるけれど、簡単には「思考」と「存在」の相関と言えるだろう(あるいは「私」と「世界」の、と言い換えてもいいかもしれない)。私たちはこの思考と存在の相関にのみアクセスすることができる。決して片方にのみアクセスすることはできない。とするのが相関主義者だ。本書のスリリングなところのひとつは、この「相関主義」の名を、カント以降いまに至るまでの長大な哲学の歴史に付与した、ということだ。この大胆な告発を味わう興奮は、実際に手にとって読んでもらうしかないけれど、とにかく話を続けよう。相関主義者によれば私たちは、存在を抜きにした思考それ自体も、思考を抜きにした存在それ自体も考えることができない。これは少なくとも一見する限りもっともな主張だと言えよう。例えば私たちはりんごを見ることはできる。でもりんご「それ自体」を見ることはできない。つまり私たちの「見方」に関わらないようなりんご、「私たちが見ていないときのりんご」を見ることはできない。私たちは私たちとりんごの相関にのみアクセスできるのであり、事情は私たちの思考と存在についても同様だ。存在するもの「それ自体」にアクセスすることはできない。そしてこうした議論は「死後の世界」の議論に直結する。なにしろ私が死んだあとには私も、私の思考も存在しないのだから。そこは純粋に存在「それ自体」の領域ということになる。それは相関主義において禁じられた領域だ。(そしてこの禁じられた領域はまったく科学の(そして「祖先以前性」の)領域でもある。即ち相関主義は科学的な言明について意味のあることをなにも言えない――という告発が本書の醍醐味の一つでもあるのだが、残念ながらそこには触れない)
相関主義者の次に議論に介入してくるのが主観的観念論者であるけれども、その前に相関主義の重要な語句「私にとっての」を挙げておこう。存在「それ自体」(「即自」「即自的なもの」とも言われる)が認識不可能であるということは、私たちはつねに「私にとっての」なにか、「私にとっての」存在、「私にとっての」世界、しか与えられていないということでもある。次に現れる主観的観念論者はこうした相関主義を究極に極めたみたいなやつだ(なんだ究極に極めたって、究めすぎだろう)。
主観的観念論者から言わせれば、相関主義者は相関主義を徹底できていない。相関主義者は即自的なものは思考不可能ではあれ、あたかも存在しているかのように言っているけど、いったい何故、思考不可能であると言いながら「存在している」と言えるのか? まったく不可解である。不合理である。私たちは相関にのみアクセスできるのだから、私たちが確かに言えるのは相関についての物事(「私たちにとって」の物事)だけだ。即自的なもの(存在それ自体)は思考不可能であるばかりか不可能であり、結局、存在しているのは相関のみだ――と彼ら主観的観念論者は言う。では彼らにとって「死後の世界」はどうなるか? 答えは単純で、そんなものは存在しない。存在するのは相関項のみであるのだから、思考と存在の(あるいは私と世界の)片方――つまり思考(私)の欠落である死は、そもそも不可能なのだ。これは無神論の「死=無化」とは全然違う。そもそも死自体が不可能ということは、物質的な身体はともかく、私たちの精神は「死にえない」ということなのだから。要するに彼らは相関主義を徹底するあまり相関性を絶対化し、相関項を(相関項のみを)実体化することで、死を無化する。さて、相関主義者はこの身内から湧いた敵対者に、どう応じればいいのか?
その前に、もう一度2ちゃんねる的一般人的に整理しよう。どうも用語が難しくてかなわない。
まず相関主義者だけども、2ちゃんねるでたびたび見るような哲学的議論スレでは、このような「不可知論者」は主流と言っていいくらい結構いる。死後の世界とか、神の存在とか、そういうものはあるともないとも、いまのところは言えないのだ、というやつだ。(「いまのところは」と留保を付けてしまうところが実際の相関主義者より弱いようではあるけれど)
次に主観的観念論者は、ちょっとレアな気はするけどいるにはいる。例えば死後の世界の議論において「おれたちは死ぬとき、無へと近付きつつも到達しない。つまり永遠に死に続ける(死を味わい続ける)んだよ」というような死観を披露する者がそれだ。彼の場合、死の瞬間がアキレスと亀よろしく無限に引き延ばされているため、死は実質的に無化されている。
さて、議論に戻ろう。このような主観的観念論者に相関主義者はどう応じればいいのか? とはいえ主観的観念論者には結構簡単にわかる弱点が残されているように見える。というのも彼らは「即自的なもの(存在それ自体)について、思考不可能であると言いながら「存在する」と言えるのはおかしい」と言いつつ「即自的なものは存在しない(相関だけが存在する)」と言ってしまっているわけだから、単純にそこを突けばいいのでは? ただし問題はそこまで簡単ではどうやらないようだ。というのは、ちょっといま時点で議論が長くなりすぎてるので詳しくは書けないが、彼らはカント以降の伝統を引き継いで「矛盾は不可能である」という無矛盾律に依拠している。してみれば、相関主義者がいま迫られているのは無矛盾律の棄却という、かなりだいそれた決断であるわけだ。そしてそれは決行される。なるほど矛盾は思考不可能だが、不可能ではない、と。つまり無矛盾律は正しい、ただし「私たちにとっては」。逆にいえば即自的なもの(存在それ自体)には無矛盾律でさえ適用する権利を私たちは持たない、と思考することで、キリスト教の独断論も、無神論の独断論も、主観的観念論も(もはやこれも一つの独断論だろう)その信仰の自由を守りつつどれひとつとして特権化を許さない。つまり相関主義者は再び言うわけだ「死後の世界について、私たちは知ることはできない」と。
そこで最後に思弁的哲学者が満を持して登場する。彼は指摘する。相関主義者が二度発した同じ台詞はしかし、意味がすこし変わっている――と。というのは、一つめの「死後の世界について、私たちは知ることはできない」では、それは思考不可能性だった。つまり「死後の世界」のどの独断論的な選択肢も、結局は思考と存在の相関からはみ出ているため、思考不可能なのだった。しかし二つめの「死後の世界について、私たちは知ることはできない」ではむしろ、それは思考可能性として表れている。つまり正確にいえば「死後の世界について、私たちは「どれが正解なのか」知ることはできない」と言っているのだ。「どの説も他の説に対して原理的に特権化できない」と。どれが正解なのか。どれが特権化されるのか。その時点でそれぞれの選択肢は(少なくともそれぞれの説が実現する「可能性」は)思考可能になっている。ここから思弁的哲学者は〈別様である可能性〉=偶然性の絶対化へと突き進み、彼の目的であるところの「思考可能な即自的なもの」に到達せんとするわけだが、そろそろ頭がどうにかなりそうだ。
とはいえさしあたりこのあたりで十分だろう。むしろ当座のところは思弁的哲学者が登場する以前、つまり2ちゃんねる的一般人的理解がギリギリ届く範囲で十分なはずだ。
さて、ようやく本題だ。とはいえちょっと予想外に話が重くなってしまったのでササッといこう。問題はこうした議論が「批評」においても転用可能か、またその意味は? ということだ。
まず目につくのは相関主義者のキーワード「私にとっての」「私にとっては」だろう。ここで私は想起せざるをえない、やはり2ちゃんねるで、あるいはツイッターやニコニコ動画でも多く見られるのだろうか? 『少女ファイト』の台詞を『ひだまりスケッチ』の主人公ゆのに言わせているあのコピペ――「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」である。とくに作品批評や作品批判に対してこのコピペが向けられるとき、それは暗に「お前にとってはそうでも、ほかの人にとっては違う」ことをほのめかすために用いられる。つまりこうした言説は「「私にとって」を除いた作品「それ自体」を見ることは叶わない」という極めて相関主義的な達観に支えられているということができる。
そしてこのことはなんら驚くべきことではない。というのもすでに書いたように構造主義やポスト構造主義といった哲学思想はすでにずっと前から「批評」に転用されているのであり、となれば哲学上の問題が批評にも同様に表れてなんら不思議ではない。実際メイヤスーの分類によれば、多くのポスト構造主義の思想は相関主義のなかでも「強い相関主義」に分類されるだろう。
では『有限性の後で』のなかで繰り広げられた議論を批評に転用することにはいかなる意味があるか? それは相関主義が即自的なものに対して無差別に押す「思考不可能」の烙印から、ほんのひとつだけ救いだすこと。もはや「私にとって」抜きに確かなことはなにも言えない批評の現状に、たった一つ言える確かなことを付け加えること。これである。
では「たった一つ言える確かなこと」とはなにか? これを探るために相関主義をめぐる議論と批評の対応関係を見ていこう。
まず『一億総ツッコミ時代』と言われるほど巷にあふれた批評・批判のほとんどは「キリスト教の独断論」や「無神論の独断論」あるいはそれに類する素朴な独断論に対応すると言わねばならない。大半は、これである。哲学の世界では、デカルトの思想はもはや現代人には真面目に受け取ることができない――という現状が『有限性の後で』では語られる。しかし批評の世界ではどうもそうでもないようだ(「死後の世界」の議論が独断論含めていまも見られる現状を思えば、現代人はそれほど現代人化してもいないのだろう)。よくある印象批評のような「~だからこれはいい」「~だからこれはよろしくない」といった「評価」を下すタイプの批評は、評価の枠組みを独断的に決める作業を要するため、まず間違いなくここに分類される。
このような独断論的批評に「私にとっては」「あなたにとっては」を付け加えるのが相関主義的批評だ。哲学における相関主義は、例えば宇宙誕生の瞬間にインフレーションがあり、次いでビッグバンがあっただの、地球という惑星の形成の歴史だのといった、人間や生命が生まれる以前の世界に対する科学的な言明について、検証される限りそこに異議は唱えない。ただしすこしだけ文を付け加える(あるいは、心のなかでそう思う)「人間にとっては」「科学者にとっては」と。人間や生命が生まれる以前の世界というのは相関の片方の項が消えているため、相関が無い。だから本当を言えばこの時代の世界は思考不可能なのであって、認められないのだけど「人間にとっては」「科学者にとっては」と付け加えることでこうした危機を回避できる――と相関主義者は考える(あるいは考えなければならない)。これと同じことは批評でも起こっていて「作品そのもの」「よさそのもの」といった即自的なものに直接言及している(つもりの)批評を相関主義的批評者は容認できない、ために、「あなたにとっては」と急いで付け加えることになる。
もちろん相関主義的批評はこのような受け身のものばかりではない。私たちが「私」―「作品」、「私」―「作品のよさ」の相関にのみアクセスできるのだとすれば、一つの作品(あるいは一つのよさ)は多様な読み、多様な体験に開かれていることになる。ここからテクスト論など、ポストモダンな批評の豊饒な世界が花開くことになる。
とはいえ、ここに危うさが無いとは言えない。すべてに「私にとっては」という相関主義的な断わりを入れなければ「なにもいえない」し、多様な読み、多様な視点と言ってしまえば「なんでもいえてしまう」相関主義的批評は極度に非政治化されているために、どのように政治的にも利用できてしまう。つまり、脱構築なりなんなりをするにしても、その対象は任意に選べるのであって、となると個人の欲望のままに「あれは脱構築する」「これは脱構築しない」といった選別ができてしまう。ここにおいて、暴力の解除あるいは告発を志向するはずの脱構築(あるいはそれに類する方法)は、対象の選別によってむしろ暴力性を有してしまう。例えばすこし前に話題になった「男根のメタファー」や「まなざし村」を思い浮かべてもらえば、なんとなくわかるかもしれない。そこには差別を糾弾する意志とは裏腹に「選別」の欲望が働いている。(無論ここで「男根のメタファー」や「まなざし村」という事例ばかりを挙げる私自身、明らかに「選別」の欲望に駆動されている。こうした欲望の問題はどのように身を振ってみたところで逃れることはできない。しかしだからといって開き直っていい問題でもない。)
さて、批評における主観的観念論はどうか。相関主義的批評の「あなたにとっては」「わたしにとっては」を究極に極めた批評とはどのようなものか? ここで「私」―「作品」、「私」―「作品のよさ」の相関を「読書体験」と呼んでみれば、その指し示すところはいくらか明瞭になろう。私は「作品それ自体」を語ることはできず、ただ「私の読書体験」のみを語ることができる――とする相関主義批評を飛び越えて、主観的観念論的批評は「もはや読書体験しかない」と主張する。こうしたタイプの批評を(もはや批評と呼べるかどうかも怪しいが)現存する批評から見つけ出すのは難しいだろうが、いずれにせよ相関主義批評は行き過ぎた相関主義としてのこうした主観的観念論的批評を振り払わなければならないわけだ
どのようにしてそれは可能だろうか? 主観的観念論者に対して相関主義者が「死後の世界について、私たちは知ることはできない」と言ったように、主観的観念論的批評者に対して相関主義的批評者は「作品について、私たちは知ることはできない」と言わねばならないだろう。そしてその意味するところは思弁的批評者に喝破される。そう、ようやく「思弁的批評」の姿が見えてきた。
さて、ここで一旦休もう。
もういちど確認しておくと、これは「提案」だ。
そしてこの提案はいくつかの階層に腑分けすることが可能だろう。
例えばこのあと私が語る「思弁的批評論」に当てはまるような批評を書いてみてはどうか? という提案がまず考えられる。しかし選択肢はそれだけではない。
例えばむしろ私が語る「思弁的批評論」とは違う、別の「思弁的批評論」を考えてみてはどうだろうか? そうした余地は私の浅学も手伝って十二分に残されているはずだ。しかもこうした「思弁的批評論」のオルタナティヴにも様々なパターンが考えられる。例えばここまでの議論を踏襲し、ここからの議論を別の議論にすげかえたもの。あるいはここより以前のどこかの地点までは肯定し、ある地点から「こうした分析は間違っている」と否定して舵を切るもの。最初から否定するもの。私は当然ながら「思弁的実在論」の批評的応用にとって、これまで私が辿った道が唯一のものだ、とはとても思えない。ほとんど無限に近いパターンがあるはずだ。ということは当然、この提案自体もほとんど無限に近いパターンに多重化されている。
では議論を再開しよう。話は「思弁的批評」についてだった。
主観的観念論的批評者を振り払うために相関主義的批評者が放つ「作品について、私たちは知ることはできない」という言葉。これは実際にはどういう意味を持っているのか?
この言葉が「もはや読書体験しかない」という主観的観念論的批評を否定するために放たれたことを思い出せば、そこに「読書体験以外(テクスト、作品それ自体、意味、よさ、メッセージなど)も存在する、かもしれない」という意味を読み取ることができる。これは相関主義的批評自身が「知りえない」として棄却した独断論的批評の部分的な復権でもある。テクスト、作品それ自体、意味、よさ、メッセージなどに触れたと主張する素朴な独断論的批評のいずれに対しても「他から特権化することはできない=どれが正しいか知ることはできない」と相対化しつつも、どれかが(たまたま)正解である可能性を思考可能とすることで、主観的観念論的批評をも可能性のひとつにまで抑え込んでしまう。ここには奇妙な、すくなくともこれまでの相関主義的批評にはなかった偶然性が紛れ込んでいる。そしてそれこそが思弁的批評の抜け道だ。
相関主義が「相関」「与えられ」の偶然性=「それ以外の相関もありえた」「それ以外の与えられもありえた」に着目するのに対して、思弁的唯物論では法則という、私や世界の成立条件自体の偶然性を絶対化するように見える。これを読書に置き換えてみよう。「相関」「与えられ」の偶然性はそのまま「読み」の偶然性と言える。つまり「それ以外の読み方もありえた」。この偶然性はそのまま相関主義的批評の「あなたにとっては」とも繋がる。では思弁的唯物論が絶対化する世界の成立条件の偶然性はなにに当たるか? もちろんそれはテクストの成立条件である「書き」の偶然性だ。つまり「それ以外の書き方もありえた」。この明らかな偶然性の存在は「しかし実際は現にそう書かれたじゃないか」という事実性を前に、批評においても長らく忘却されてきたように思える。仮に「それ以外の書き方もありえた」とする批評があったとしても「いや、実はこうこうこういう理由があったのだ(だからこの書き方こそが唯一だったのだ)」とすぐに翻してしまうものが多いのではないか(もっとも、やはり私は批評に詳しくないので断言はできない)。ところで『有限性の後で』においては「事実性」は「非理由」とも言い換えられる。「しかし実際は現にそう書かれたじゃないか」という言葉のうちに「そう書かれた理由は知らないけど」という意味が含まれている(であろう)ことから見てもこれは納得できる話だ。つまり「そう書かれた」ことに究極の理由は無い。そしてこの「書き」の偶然性の必然性を白日のもとに晒すものこそ、思弁的批評であろう。
いまや私たちには、思弁的批評のいくつかの可能性が開かれている。そのうちのいくつかを簡単に素描してみよう。
1)まず簡単に思いつくのは「それ以外の書き方もありえた」を実際に実践してみること。つまり「二次創作」だ。
既存の作品の「書き」のオルタナティヴを示す二次創作は、すでに十分に批評的だ。実際批評的意図を明確に含むものも多いのではないか。とはいえ、批評意図の明確さはすくなくとも思弁的批評にはむしろ不要であることに注意しなければならない。思弁的批評における「それ以外の書き方もありえた」は非理由だ。つまり「それ以外の書き方もありえた→にもかかわらずこう書かれた→そこにはこのような意図(理由)が隠されていた」とするタイプの批評は、批評文であれ二次創作であれ思弁的ではない。そうした批評は理由律の支配を逃れられていないという点でむしろ独断論的批評に近い。(もちろんそれが悪いと言いたいのではない。しかしすくなくとも思弁的ではない。)そうではなく、理由に対する詮索をせずに「それ以外の書き方もありえた」とすること。それはひいては「そのように書かれた」ことの理由さえも消去するだろう。こうした「書き」の偶然性の強調を通した相対化は、理由なしの、ひたすらの二次創作によってのみ為される。ようは好き勝手楽しんで二次創作しなさいよ、ってことだ。(もちろん法律は守ったうえで)
つまり今回の提案のひとつはこれになる。「楽しんで二次創作してみては?」もちろんこの文章がカクヨムに投稿されていることへの目配せが、この提案には含まれている。
2)二次創作のような変化球ではない、いかにも批評的な思弁的批評は考えることさえ難しい。というのは批評はどうしても「読み」に近い行為だからだ。「書き」の、しかも偶然性に着目して批評するということ自体が難しい。それは一見して読者あるいは批評者の権限を越えているようにさえ見える。
しかし私はすでにこのような種類の批評の可能性を知っていると思う。思弁的批評の困難さは「読み」と「書き」の断絶、読者と作者の断絶、ひいては作品に対する読者と作者の権力の非対称性に依拠しているのだから、これを崩せるような批評があればいい。そして作者の絶対的権力を(しかも「読み」ではなく「書き」のレベルで)ゆるがす可能性を私は知っている。
佐々木敦『あなたは今、この文章を読んでいる』を、とり上げられている作品が未読であるために途中までで一旦読み止めている私が引用するのはとても不適切な気がするが、仕方無い。他にやりようもないのだから。とはいえ結構終盤までは読んでるので安心されたい。
「書き」それ自体にメタ的な視点を当てるメタフィクションがしかし最終的には「真の作者」の権力を絶対化してしまうのに対し、「読み」それ自体にメタ的な視点を提供するパラフィクションは作者の権力を突き崩す。円城塔作品に代表されるパラフィクションは「読まれるたびに新たに生成し、そして生成し続ける」。ここにおいて「読む」行為は「書く」行為に等しい地点にまで到達している。それは、読む=解釈=再記述などという生易しい話ではなく、じっさいに生成し続けていると考えていいレベルの話だ。しかも「新たに生成し続ける」ということは、生成されるそれは読まれるたびに姿を変える=偶然的であるし、別の生成が繰り返される以上ひとつひとつの生成内容に必然性は無い――つまり偶然性それ自体が必然的であるという意味において非理由でもある。この気持ちのいいほどの符合には私自身驚かざるを得ないが、ともかく、思弁的批評のひとつの――もはや「代表的な」とさえ言ってしまいたい――一例としてパラフィクション批評を挙げ、提案しておきたい。
さて、いかがだっただろうか。
随分と長くなってしまった。「提案」にここまで付き合ってくれる人が果たしているのだろうかと、いまさらながらすこし不安になってきたが、もしいるのであれば心の底から感謝したい。そして可能なら提案内容をすこしだけでも実践してもらえるとさらにありがたい。
私は批評の現状についてはおせっかいながらすこし危機感を抱いている。といってもそもそも批評に詳しくない私は正統な批評の世界の現状については危機感の抱きようがない。つまり私が憂えているのは、もっと一般的な、一般人たちの、『一億総ツッコミ時代』の批評だ
ちゅうわけで、どないですやろか? 思弁的批評
※1 あるいは全然別の主観的観念論的批評を考えることも可能かもしれない。
思考と存在の相関それ自体は思考でも存在でもない、「思考の条件」とでも呼ぶべきもので、別な言い方をすれば超越論的な条件とも言えるだろう。主観的観念論は、これを実体化するということから直接に「超越論的シニフィアン」に関わるもの、つまり否定神学のことだと言えるかもしれない。だとすれば例えば「この作品を前に、わたしは絶句した……」や「この作品の魅力について言葉で語ることはできない(だからこそすごいのだ)」といった「語りえないこと」を超越論化するタイプの批評が主観的観念論に当たるだろう。こうした批評は独断論的批評のような素朴な独断論よりも複雑な戦略や装飾に彩られてはいるものの、複雑な「独断論」という地点を越えてはいない。
東浩紀『存在論的、郵便的』の読者としては、否定神学がこの位置に来るならひとまず一考してみるべき対応関係があるように思える。つまり、素朴な独断論=形而上学、弱い相関主義=ゲーデル的脱構築、主観的観念論=否定神学、強い相関主義=デリダ的脱構築、という構図だ。これはひとつのアイデアに過ぎないしいかさま粗いようではあるが、すこし考えてみたところではなかなかよくできているような気がする。そして思弁的唯物論が強い相関主義=デリダ的脱構築のあとに到来するということからいろいろ考えてみるのは非常に有益なのではないだろうか。
※2 じつをいうと、『一億総ツッコミ時代』も未読だ……。
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